資料館 topics
●ぷよぷよ部とは?
●ぷよぷよ部日誌1
●ぷよぷよ部日誌2
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ぷよぷよ部日誌



ぷよぷよ部とは?

 ぷよぷよ部日誌栄都(えいと)p1〜2に書かれている「ぷよぷよ部の歴史(暗井茂)」がもっとも分かりやすいと思われるので、そのまま抜粋することにする。

 ぷよぷよ部の歴史

 ぷよぷよ部・・・それは100年の伝統を持つ時習館に忽然と現れた前代未聞の部活。最近はぷよぷよ部も野原に燃え広がる炎のように普及して来たので、ぷよぷよ部の初期の姿や結成の理由、主旨などを知らない部員(今、これを読んでいる人は既にぷよぷよ部員)が増えて来た。そこでぷよぷよ部代表取締役であるこの暗井茂が、名誉あるぷよぷよ部の歴史を皆さんにお教えしよう。

 ぷよぷよ部は1994年9月に結成された。残念ながら資料が不明瞭のため、正確な日時はわからないが、おそらく運命に導かれ、一人、また一人と集結し、初期のぷよぷよ部ができ上がったのだろう。

 ぷよぷよ部結成に物理室は欠かせない。初期のメンバーは大半が1−9の人であった。そして一年棟の改築工事の為、当時(管理人注:1994年)の一年はいろんな特別教室を仮の教室としたのだが、村田千秋先生の率いる1−9は偶然にもパソコンのある物理室となったのだ。そこでパソコンに通じている男達がそのパソコンを検閲したところ、なんと「ぷよぷよ」があったのだ。

 それからの1−9の生徒は猿のようにぷよぷよをプレーした。当時は残暑がまっ盛りなので、南の窓のそばに置かれたパソコンに向かって長時間「ぷよる」ことは死を意味した。しかし燃えた。

 そんな中、一人の男がこんなことを口走った。「ぷよぷよ部でもつくるか。」事態は急転し、疾風の如くぷよぷよ部は結成された。目的はただ一つ。「ぷよる」こと。そして部があるなら部長も必要だということで、主だった「ぷよラー」でリーグ戦が行れ、見事優勝し部長となったのが私だが、今思い出しても血沸き肉踊る大決戦であった。

 部長の決定と時を同じくして「ぷよぷよ部日誌」の執筆が開始された。同年9月21日のことである。パソコンゲーム「ぷよぷよ」と「ぷよぷよ部日誌」の二本を主柱とした活動は全盛期を迎え、その勢いは永久に続くかと思われたが、栄枯盛衰は世の習わし。ぷよぷよ部に大きな危機が二度訪れた。

 一度目は同年9月27日のことであった。なんと「ぷよぷよ部日誌」の開始から1週間もたっていない。正に舌の根も乾かぬうちに、であった。朝、ある部員が朝練をしようとパソコンへ向かったところ、なんとディスプレイに「パソコンによるゲームはやらないこと。時習館高校」と書かれた紙が貼られていたのだ。そう、いわゆる「上からの命令」である。ぷよぷよ部のあまりの勢いを妬んだからかはわからないが、影でぷよぷよ部に敵対する組織がつくられたのは間違いない。私は時習館高校との全面対決も考えたが、反対意見も多く、安全策をとりしばらく先生の見ていない時にこっそりやるという作戦で通したのだった。

 私の記憶が確かならば、我々はパソコンをプレーしているところを二度ばかり先生に目撃された。私は殺し屋を雇い、その先生を抹殺しようとしたが、殺し屋と面識がなかったので計画は断念。見逃すことにし、成りゆきに身を任せたが、何のおとがめもなかった。私が推測するに、その先生は忘れっぽかったのだろう。ヒヤヒヤしたぜ。

 二度目の危機は、一度目の危機とは比べものにならないほど重大なものであった。それは、ぷよぷよ部活動の本拠地であり総本山であり唯一の活動場所であった物理室を立ちのかなくてはならなくなったことだ。偶然にも一年棟の改装は終了していた。

 これは半ば予想されていた事態であったが、「まだいいだろう」という安易な気持ちがあったため、かなりの衝撃をぷよぷよ部に与えた。何しろぷよぷよ部のの活動の原点であり、名前の由来であり、主活動であった「ぷよぷよ」ができなくなるのだ。

 この危機は12月、終業式間近に起こったと記憶しているが、緊急会議が開かれ、師走のくそ忙しい時に日夜連続で行れた。意見としては、「パソコンを1−9の教室に持って行く」、「新一年棟を破壊し、もう一度工事させる」など、各人の知恵をしぼりきったものが提案されたが、どれも決定打とならず、ついに引っ越しの日が・・・。

 もとの教室にうつった我々は仕方がないので、ぷよぷよ部のもう一つの主軸である「ぷよぷよ部日誌」を狂ったように書き続けた。この頃(1年3学期)には、ぷよぷよ部日誌は初期と比べ格段にレベルアップし、十分にこれだけでも部員の心をガッチリと結合していた。「真面目なお話」「隣のマス夫さん」「ハゲえもん」「BIRD-MEN」など、ぷよぷよ部日誌史いや世界史に残る名作も生まれ、この勢いは現在まで続いている。

−後略−

 この記事が書かれたのは1995年7月、我々が2年生のことである。ぷよぷよ部の発足は1994年9月であったが、既に翌年の1月にはぷよぷよができなくなってしまっており、実質的な活動は部日誌の記入、つまりは文筆活動となってしまった。それ以後、クラス替えによる主力メンバーの分散や受験勉強の本格化によって、ぷよぷよ部日誌は徐々に勢いを失っていったが、我々が卒業するまで、ぷよぷよ部日誌は全部で11冊作られた。今振り返れば、本当に輝かしい思い出であり、ちゃんとした形で残っていることも幸いなことだと思う。ちなみに11冊目は山本鶏氏が所有している。

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