資料館 topics
●名前の由来
●結成の理由
●偉大なる先人の存在
●芸名の由来
●つるダヴィの噂


つるつるダヴィデ像の秘密


つるつるダヴィデ像の名前の由来

 まずは、1996年時習祭の際、チョコボール石原氏によって書かれた以下の文章をお読みいただきたい。

●名称の由来

 つるつるダヴィデ像---みなさんは最初にこの名を聞いた時、どのように感じたであろうか。僕自身はというと忘れもしない、2年の新入生歓迎会(管理人注:1995年)をひかえた春、杉森洋平からこの名を聞き思わず笑ってしまったのを覚えている。インパクトがあった。何ともいえない絶妙感があった。いい響きだとも思った。---これが僕とつるダヴィ(略されるようになったのは2年新歓後)との出会いだった。しかし同時に、僕や他のメンバーは、この名は2年新歓限りであって、まさか3年の時習祭まで使うとは夢にも思わなかった。とりあえず名称の由来は「ダヴィデ像は皆、陰部の毛に注目するから、そこがつるつるだとおもしろいから」(by杉森)だそうである。

 チョコボール氏の説明で不十分なところを補いたいと思う。まず、「つるつるダヴィデ像」の名称を考え出した張本人は、つるダヴィのリーダーである杉森氏である。氏は当時普段から「ネタ帳」なるものを常に携帯しており、思い付いたギャグや写真のアイデアなどを書きためていた。氏は「恥かしいから」との理由でそのネタ帳を他人に見せることは稀であったが、我々の団体名の名称の候補がいくつか記入されているページは見せてもらったことがある。もうあまり覚えていないが、「新妻一番絞り」というのが印象的だったので、今でも覚えている。その中に「ダビデ像」という名を含んだ候補もいくつかあり、「もこもこダビデ像」のようなのもあったような気がする。いろいろ当てはめてみた結果、「つるつるダビデ像」に落ち着いたみたいで、1995年の新入生歓迎会からその名称でデヴューを果たしたのであった。

つるダヴィ君ダビデ像 ちなみに、ダビデ像とはイタリアはフィレンツェのアカデミア美術館にある、ミケランジェロ作の彫刻作品である。4.3メートルの巨大な作品で、ミケランジェロは1501年〜1504年の間作り続けたと言われている。ダビデとは旧約聖書の登場人物で、巨人ゴリアテを手に隠し持っていた石で殺した少年のことである。右の写真を見ていただければ、おそらく大抵の人が「あぁ、これか」と思うほど、日本でも有名な作品だと言える。そのダビデ像が「つるつる」なのである。という訳で、その名称から着想を得て私(アルカカット)が描いたのが、そのまた右のスケッチである。一応、「つるダヴィ君」という名前をつけ、つるつるダヴィデ像のマスコット・キャラとしてデヴューさせたのだが、あまり世間に認知されていないようだ。

 ところで、お気づきの方もいるとは思うが、実はつるつるダヴィデ像は当初、「つるつるダデ像」で通していた。ところが1996年の時習祭で土壇場になって「つるつるダヴィデ像」にマイナーチェンジしたのだった。正確な理由はあまり覚えていないが、「バイオリン」より「ヴァイオリン」の方がかっこいいような気がするのと同じ感覚で変更したように記憶している。よって、この文章を読んだ方はこれから我々の名を呼ぶとき、「つるつるダビデ像」ではなく「つるつるダヴィデ像」と発音すれば、友達に差をつけれることになる。「ヴィ」の発音のコツは、下唇を上の前歯に接触させて息を出すとよい。

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つるつるダヴィデ像の結成の理由

 ここでもまず、チョコボール石原氏の説明を読んでいただきたい。

●発足の原因

 何故つるつるダヴィデ像は発足したのか。何故こんな奇人・変人(?)の集団ができあがってしまったのか。僕個人の考えを言わさせてもらえばこの理由は「水泳部の環境」に尽きると思う。御存知の通り、プールの位置は、この広い時習館の片隅にあるまさに「陸の孤島」である。従ってアットホームな雰囲気が常に根底に流れている。このことはメンバーの団結心を育てた。また、管理室は会議室、作業室として絶好の場所であり、プールサイドは良き練習場所であり、プール・シャワーは最高のリフレッシュポイントだった。つまり、皆で自由気ままに過ごせるところ、それが“部室”だった。この親にしてこの子あり、この環境にしてこの子あり、まさに「つるダヴィ」の誕生は必然であったのかもしれない。

 つるつるダヴィデ像の母体となった集団は、時習館高校水泳部1994年入学組男子である。15人のメンバー中、実に12人が水泳部に所属していた。また、水泳部の1994年入学組男子13人の内、実に12人がつるつるダヴィデ像に所属していた。残りの一人は「チャート中島」「なわじま」などと呼ばれ、皆から親しまれていたのだが、1994年秋には既に水泳部をやめていた。よって、つるつるダヴィデ像≒水泳部と言っても過言ではないように思える。

 それに加えて、もうふたつ母体と言える集団がある。まず一つ目は1994年の1の9のメンバーである。1の9は村田千秋先生(男性・既婚)という個性的な美術の先生が担任をしており、その先生の個性が生徒に乗り移ったのか、個性的な生徒が偶然村田千秋先生のクラスに集まってきたのか、おかしな連中が多かった。1の9に所属していた後のつるダヴィメンバーを挙げてみると、チョコボール石原、Missした時習、√Tall、White杉浦、暗井茂、スティンガー長坂、大稲荷欣司の7人である。この7人が中心となり、1994年時習祭でコント劇を披露したのだった。思えばこれがつるつるダヴィデ像の前身であった。ちなみに当時1の2だった杉森氏も、クラスの仲間を誘って時習祭でコント劇を披露した。二つ目は、ぷよぷよ部の存在である。校舎改築が行われて我々1の9のメンバーは物理室に追いやられることとなった。そこには物理部所有の古いパソコンが一台置いてあり、なんとコンパイル(株)の人気ゲーム「ぷよぷよ」が入っていたのだ。1の9の自称ゲーマーたちは「ぷよぷよ」を毎日狂ったように遊び始め、「ぷよぷよ部」を発足させ、遂には「ぷよぷよ部日誌」なるものを発刊し始めた。ぷよぷよ部日誌はただの部日誌にとどまることなく、部員たちの才能のぶつかり合いの場、ストレス発散の場となったのだ。この部日誌のおかげで、我々はクリエイティブな精神に目覚め、やがてはつるつるダヴィデ像へと発展していったのだ。

 以上、見てきたように、つるつるダヴィデ像は水泳部のメンバーと1の9のメンバーとぷよぷよ部のメンバーの重なり合った輪の中に入った人々によって形成された。しかしこれではまだ、つるつるダヴィデ像の発足の原因を充分に語り尽くしてはいない。実はつるつるダヴィデ像は、気まぐれな天災によって生まれた申し子だったのだ。

 1994年〜1996年辺りの日本はなぜか毎年水不足に見舞われていた。梅雨の降雨量が極端に少なかったためだと記憶しているが、米不足と合わせて今となっては半ば信じ難い状態に日本が置かれていた。水不足のとばっちりはいろんなところに表れたが、水を大量に使って活動している我々水泳部ももちろんその被害に遭った。なんとプールの使用を一定期間禁止されてしまったのだ!水泳部がプールを取り上げられてしまったら、何の活動もできない。特に水不足のひどかった1994年(我々が1年生の頃)は、これから夏本番になろうというときにプールが閉鎖され、もう夏が終わるという頃まで使用させてもらえなかった。こうして水泳部の部員たちは、目的を失った流浪の集団と化してしまった。毎年のようにこういう空白期間があったので、我々は自由に時間を使うことができた。一応水泳をするために集まってきたのだったが、別に水泳ができなくてもまとまれる集団だったのが幸いだった。やがて年に2回の祭典、時習祭と新入生歓迎会の常連となり、その団体名「つるつるダヴィデ像」も時習館の皆に知られることとなった。また、別に水不足でなくても水泳部というのは夏以外はほとんど部活動がなく、自由時間の多い部である。この自由な時間こそが真のつるダヴィ発足の原因であろう。

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偉大なる先人の存在

 つるつるダヴィデ像は基本的に「誰もやってないこと、誰も思い付かないことをやろう」というフロンティア精神で活動してきた。つるつるダヴィデ像の前に道はなく、つるつるダヴィデ像の後に道ができるのだ。事実、我々の活動が後世の時習生に与えた影響は割と大きいように思える。ところが、そんなつるつるダヴィデ像にも、よ〜く思い起こしてみれば「先人」と敬意を表すべき人たちがいた。

 まずは下の3枚の写真を見ていただきたい。

水着で弓道

水着で剣道

ギニュー特戦隊

 一見すると、つるつるダヴィデ像芸術写真館の出展作品のように見えるが、日付をよ〜く見ていただきたい。そう、91年3月13日に撮られた写真であり、我々の作品ではない。水泳部の先輩たちが撮った写真である。水泳部の部室にスライドの形で残っていたところを、写真屋に頼んで写真にしてもらったものだ。我々は1994年入学組であり、この人たちと直接会ったことはない。しかし、この3枚の写真が我々に与えた影響は計り知れなく、後に芸術写真館を開催しようと思い立った動機となった。

 また、1994年新入生歓迎会のことも覚えている。我々が新1年生だったときに行われた歓迎会だ。その歓迎会の詳細はよく思い出せないが、やたらとエキサインティングした場内の雰囲気は、記憶に残っている。つるダヴィのようなコント劇もあったし、オカマみたいな人が歌を歌ったりもしていた。つるつるダヴィデ像のメンバーの深層心理に芸人魂への憧れがあったとしたら、間違いなくあの新入生歓迎会で植え付けられたものではないかと思う。

 その先人たちと会話を交じわすことは不可能に近い。しかし、敢えてこの場で敬意を表しておこうと思う。つるつるダヴィデ像のよき指針となってくれた先輩たちへ、感謝の気持ちを込めて・・・。

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各メンバーの芸名の由来

 Missした時習

 今はどうか分からないが、毎年時習祭では「Miss時習」というイベントが行われていた。文字通り、時習館を代表する美女を決定するイベントである。そのMiss時習に、男でありながら、なることを夢見ていた男がいた。山田氏である。だが、イカリ肩にハト胸の山田氏はすぐに男とバレてしまい、1年目は結局Miss時習に選出されることはなかった。そこでついた名前が「Missした時習」である。2年目は大量の組織票を確保し、当選は確実となった。Missした時習氏は「Missした時習ed」と名前を変える準備までしており、意気揚揚だった。ところが、当日Miss時習発表の場へ行ってみると、彼の名前はなかった。どうやら主催者の一人であるO先輩により、山田氏は故意に落とされてしまったようだった。Missした時習氏はそれでもあきらめることなく、3年目には自らMiss時習を主催し、自ら組織票を集め、そして見事当選することができた。こうして「Successした時習」と名前を変えたのだが、Missした時習の方が通りがいいため、未だにこの名前で呼ばれて続けているとかいないとか。

 暗井茂

 1994年時習祭のとき、1の9ではクラスの有志を集めてコント劇をやることになった。当時、1の9には5人の水泳部員男子がいた。山田(Missした時習)、長坂(√Tall)、杉浦(White杉浦)、石原(チョコボール石原)、高倉(暗井茂)である。ところが、山田氏と長坂氏、杉浦氏と石原氏が早々とコンビを組んでしまったため、高倉氏は一人あぶれてしまうこととなった。そこで、どうせならその状況をそのままキャラクターに活かそうと思い、友達のいない暗井茂というピンのコメディアンを創り上げたのだった。名前の由来は、彼のふたつの性格「暗い」と「いじける」を融合させたものである。

 チョコボール石原

 チョコボール向井氏との関連が噂されるが不明。石原氏はこの他にも「シショウ」「マチャミ」などの異名を持つ。

 White杉浦

 杉浦氏の下の名前は至郎(しろう)と言う。「しろう」→「白」→「White」という簡単な連想ゲームである。

 小早川ひかる/ゴメス小早川/オッペン小早川

 その場のノリでつけられたように記憶している。「オッペン」はオッペン化粧品と関係があると思われる。

 硬派マック

 「硬派」を冠しているのは、別に本人が硬派であるからではなく、ただ本人が「硬派」と自称していたに過ぎない。「マック」という名称には多数の論説が飛び交っているが、本当のところは野球選手のマック鈴木に顔が似ているかららしい。肌の色が真っ黒だから「マック」という、という説もある。

 杉森曼珠沙華/マドモアゼル杉森

 不明。全てが不明。杉森氏は普段は「ドナ」と呼ばれている。まず「マック」というあだ名ができ、「マクドナルド」を連想させる、という理由で誰かに「ドナルド」というあだ名を付けねば、ということになり、そのターゲットが杉森氏となった。その内、「ドナ」と省略して呼ばれるようになった。

 山本鶏

 山本氏も例の「マクドナルド」の犠牲者である。「マック」と「ドナルド」が揃ったところで、今度はなぜか「フライド」と「チキン」が欲しいということになった。今思うとフライドチキンと言えば普通はケンタッキーのはずだが、当時はあまり気にしなかった。「フライド」というあだ名を付けられた人物はいなかったが、「チキン」というあだ名に当てはまってしまったのが山本氏だった。以後、彼は「チキン」と呼ばれることになった。しかも偶然、彼の下の名が「啓(けい)」であり、「鶏(=チキン)」と音読みが一緒だったため、やがて自ら「山本鶏」と名乗り始めた。是非「やまもとチキン」と読んであげよう。

 スティンガー長坂

 長坂氏はミュージシャンのStingの熱狂的なファンだったため、「スティンガー」を名乗るようになった。その他、「いっかん」「司会するぞう」などの芸名・ペンネームがあった。

 ラオコーン菱本

 詳細不明。自分で名乗り始めたと記憶している。ラオコーンの彫像からとったのであろうか。菱本氏は他にも「セニョール・ペルフェクト」という、これまた意味不明なペンネームを持っていた。

 √Tall

 √Tall氏の本名は長坂と言うが、スティンガー長坂とは別人物である。「√Tall」の名前の由来は、下の名前が暢(とおる)であり、しかも身長が高いから、だったと思われる。「√」の部分は、本当は左右反対に書かなければならないが、パソコン上では記入不可能のため、便宜的にこう記した。つまり√(ルート)を逆にすれば「トール」である。

 ハリストス丸山

 豊橋にはハリストス教会という教会があった。その「ハリストス」を拝借したのがハリストス丸山である。ちなみに丸山氏はキリスト教徒ではない。

 中野凸夫

 中野氏が乗っていた自転車は祖父のものであり、前輪の泥除けの部分に「中野トシ夫」と書かれていた。いざ芸名を考える際、中野氏は祖父の名を受け継ぎ「中野トシ夫」と名乗ることになり、紙にその名を書いた。ところが、中野氏の書くカタカナの「シ」は、「ツ」にとてもよく似ていた。よって、普通の人が読むと、中野氏の芸名は「中野トツ夫」に見えた。その名前が爆笑を誘い、当然のことながら「トツ」の部分には「凸」の漢字が当てられ、めでたく「中野凸夫」が誕生したのである。

 富士本島ヨージロー

 時習館の近くに、隣り合わせに二つの写真屋があった。「富士カメラ」と「本島写真館」である。この二つの写真屋は隣同士にも関わらず、また隣同士であるからこそ、非常に仲が悪かった。我々つるつるダヴィデ像は芸術写真館の関係から、頻繁に写真屋を利用しており、この二つの写真屋にもよく行ってネガを現像してもらっていた。我々はこの二つの写真屋がいつかは仲直りすることを願い、富士と本島の政略結婚の申し子、富士本島ヨージローというキャラクターを誕生させたのである。

 大稲荷欣司

 詳細不明。大きなお稲荷さん、ということであろうか。一応彼の本名は大谷という。

つるつるダヴィデ像の噂

暗井茂はデヴュー当時、本当に友達がいなかったらしい。真か偽か。

マドモアゼル杉森は、就職の面接の際、坂崎基彦写真集を参考資料として提出したらしい。しかもそれが功を奏して採用されたらしい。真か偽か。

つるダヴィ解散後、豊橋市内の某高校(時習館高校ではない)で、つるダヴィの「イヤ〜ンバ監獄」そっくりの劇が文化祭で上演されたらしい。真か偽か。

ハリストス丸山は、つるダヴィに参加して演劇に目覚め、今でも演劇活動をしているらしい。真か偽か。

暗井茂は、インドのバナーラスでガンジス河のほとりを歩いていたときに、時習館の後輩(全く面識なし)に「もしかして暗井茂さんですか?」と話し掛けられたらしい。真か偽か。

つるつるダヴィデ像のメンバーは、時習祭の準備のため夜遅くまで水泳部の部室で作業をしており、セコムに見つかって怒られたことがあるらしい。真か偽か。

スティンガー長坂の声は、高校の3年間で半オクターブ低くなったらしい。真か偽か。<<NEW

「アルツハイマー地方裁判所」がやたら時間オーバーしてるのは、当時の生徒会長がつるダヴィファンであり、リハーサルの段階で時間オーバーが明らかだったにも関わらず黙認したかららしい。真か偽か。<<NEW

「WARほど素敵なお仕事はない」では、恒例の茂ネタがなかったため、一部の茂ネタ原理主義者には大変不評だったらしい。真か偽か。<<NEW

つるダヴィ最後のステージが終わった後、つるダヴィメンバーはほぼ全員で、豊川河川敷で飲み明かしたが、帰り道パトカーに追われ、必死に逃走したらしい。そして気づくと中野凸夫氏がはぐれていたらしい。真か偽か。<<NEW

その夜、チョコボール石原氏は水泳部の部室に泊まることを提案したが、他のメンバーは帰ってしまい、引っ込みのつかなくなった石原氏は半ばキレながら一人で泊まったらしい。真か偽か。<<NEW

「つるダヴィデオ」は当初、メンバー+数十人に配布の予定だったが、蓋を開けてみれば教員も合わせて200人以上の申し込みがあったらしい。真か偽か。<<NEW

「つるダヴィデオ」の売上げにより、相当な額の収入があったのだが、実はダビング代が滅茶苦茶高くついて利益はほとんどなく、芸術写真館の出費を補填することができなくなったため、結局その収益は「つるダヴィ税」として暗井茂氏におさめられたらしい。暗井茂氏はその収益金でミニギターを購入し、メンバーにサインを記入してもらい、高校時代の思い出の品としたらしい。真か偽か。<<NEW

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