Jan(ヤン)爺さんの話


今回は、私のある友人の話です。

といっても、年は70以上で、友人と言うよりは、爺さんと孫という位、年は離れてますが。

でも友人としか表現のしようがないので、やっぱり友人です。

ヤンは、私の最初のオランダ人の友達です。

私がドイツにいた頃からの、4年越しの付き合いで、知り合った頃は、私はオランダ語が話せなかったのでドイツ語で話していました。

今年からは、一応なんとか私もオランダ語で対応できるようになったので、彼も嬉しそうでした。

今年の5月に彼の住むアーネムで金婚式があり、そのパーティーにも招待されて、いってきました。

彼は、元警察官で、既にリタイアして年金生活者として、趣味の木工ミニチュア細工なんかを作りながら、慎ましく楽しそうな老後を過ごしていました。

奥さんのリーは、最近脚が弱り、階段の上り下りが辛いと言いつつ、元気です。

一人息子のヴィムは、立派な会社役員で、近くに住んでいます。二人の孫娘シュテフィとタマラは大学生(これがすっごい美人、ちくしょう、あと俺も10歳若かったらなあ)で幸せそのもの、といった人生でした。

金婚式のプレゼントには、会社の商品を社内販売で買ってカラーテレビをあげたら、大喜びでした。

金婚式のパーティーの翌週、彼から電話がかかってきました。「取扱説明書が英語で書いてあるから、使い方がわからん。せめてセットアップやってくれんか。」

私は、技術者でも営業でもないので、あまり商品の事は詳しくないが、まあその程度の事は出来るか、とその週末に彼のところに遊びがてら、訪ねました。

テレビのセットアップも、すぐに終わるだろうと思っていたが、結構てこずった。ケーブルTVとサテライトTVの、両方を見れるようにしたいと言われたが、接続コードが足りない。

仕方なく、彼と近くのデパートまで行ってコードを買ってきたりして、私の拙いオランダ語で、いろんな世間話をしました。

ようやくTVのセットアップも完了して、帰ろうかとおもったが、折角きたなら飯でも食っていけと言われた。腹は減っていなかったので、お茶だけご馳走になった。

お茶を飲みながら、私が「ヤンよ、俺あんたみたいな老後が羨ましいよ。立派な息子と孫をもって、毎日趣味を楽しみ、あちこち旅行に出掛ける。」なんてことを言うと、ぽつぽつと彼は昔話を始めた。

「まあ、俺の人生いろいろあったが、満足してるな。ヒロよ、おまえはまだ若いから、今家族を大切にして、幸せに暮らす事を考えていればいいんだよ。

仕事ももちろん大切だが、おまえを見ていると働きすぎだ。すこしは早く家に帰って、休みもキチンととって休養しないと、あとでツケがまわってくるぞ。」ってな事を言われました。

「俺の人生はなぁ、」と、語り始め、彼の若い頃からの話がずっと始まりました。

彼は、学校を終えてすぐ、ドイツ人の経営する貿易会社で働き始めました。ところが、第二次大戦が始まり、オランダもドイツ軍の進駐を受けて占領され、その貿易会社も閉鎖され、彼はなぜか、ナチスにつかまりドイツに強制連行されてハンブルグの工場で働く事になりました。

何故、ナチスにつかまった理由は語りませんでしたが、当時はむちゃくちゃな時代でしたから、珍しくはなかったのかもしれません。

彼の父や、兄もやはり連行されたそうです。数ヶ月ハンブルグで働いて、手先が器用な彼は、熟練工として重宝がられ、使用者からも信頼を受けていたそうです。

ある日、職場のドイツ人上司がフランクフルト方面に出張があると聞きつけ、彼は鞄持ちのお付きを自分から、希望して、脱走を考えました。

ハンブルクからフランクフルトに向かう途中に、かつて勤めていた貿易会社のドイツ人オーナーが、オランダを引き揚げてから住んでいる街があり、「困った事があったら、うちにくればかくまってやる」と言われていたそうです。

ハンブルグから、列車にのった彼は、その街に近い停車駅エッセンで、すきを見て脱走しました。一目散に走り、駅から遠ざかって、その後は歩いてでも、かつての雇用者の住むところまで行って、かくまってもらおうと考えました。

ところが、挙動不審だったのか、運悪く警察官に職務質問を受け、オランダなまりのドイツ語がすぐ露呈し、いろいろ追求されるうちに、彼は脱走したことを白状しました。

手錠を掛けられた彼は、再び駅の方向に連行されました。その路上で、されに運悪く

SSのワッペンをつけた、親衛隊員に出くわしてしまいました。

SSというのは、ナチス直属の親衛隊の事で、当時のいわば軍事警察のようなもので、一般警察よりも恐れられていたものです。このSSを見た途端、彼も「万事休す」と、諦めたそうです。

この親衛隊員と、警察官は顔見知りらしく、「ハイル ヒトラー」と右手をあげて挨拶し、「あんたの連れているのは、何者だ?」と聞かれ、警察官は「万引き現行犯を逮捕した。これから署に連行する途中だ」と答え、そのまま歩き続けました。

勿論、彼は万引きをしていません。不思議に思ったそうです。

黙々と駅まで歩かされ、駅につくとその手錠を外して、停車している汽車をあごで指し「早く乗れ、消え失せろ」と言いました。

この警察官は、事情を知りつつも、彼を見逃してくれた訳です。この後、彼はかつての雇用人を頼って、その街までたどり着きかくまってもらいました。

「あの時の、警察官に見逃してもらわずに、SSに引き渡されていたら、俺はどうなっていたか分かんねえな。」

「そんで命拾いして、戦争が終わったら俺は、警察官になったんだ」、と語ってくれました。

「それから、結婚して子供が出来て、孫が出来て今の生活があるんだ。」

「でもな、連行された俺の父親と兄は、結局帰って来なかった。どこでどういう最後を遂げたのかも分からん。」

「家族は大切にしろよ、ヒロ。」

私は、もう話を聞いてうなずくだけでした。結構重たい話だったので、私も多少疲れてしまい、夕食に誘われたが帰ってしまいました。

ううむ、いろいろ考えさせられる話を聞いたなあ、今度あったときには、もう少し彼の人生について聞かせてもらおう、と思いながら私は家に帰りました。

その翌週に、もう一度ヤン爺さんに会いました。でも、彼は冷たくなって棺桶の中に入っていました。庭仕事をしているときに、心臓発作を起こし即死したそうです。

未亡人の、リーから電話があり、私がプレゼントしてセットアップしたテレビが、それ以来映らなくなってしまった事を伝えてくれました。なぜか修理に持っていくのが気が引けて、まだテレビを取りにいっていません。

葬式に参列し、埋葬に立ち会い、「ああ、こんな事になるんなら。あの時に、もう少し長居して話を聞いておくべきだった」と思いましたが、すでに彼は帰らぬ人となってしまいました。

彼が死去して1ヶ月、昨日アーネムで、彼のお墓参りをしてきました。

我が友、ヤン-アルベルト ファン クレーフ、冥福を祈ります。

1997年6月30日



©1997 copyright Hiroyuki Asakura