銀行員物語、続編


奥様方の苦労

さて、私の銀行員時代の話は、なぜか評判が高く、続編のリクエストが多い。

ううむ、このHPは、硬派の、政治経済社会人文系の方向に持っていく筈だったのだが。ま、いいか。

先のエッセイに、書きましたが、私の勤めていた、現在では、旧財閥系現合併巨大都市銀行になっている、(そういったら、二つしかないわな)デュッセルドルフ支店に私が着任したときには、我が侭いっぱいの、支店長夫婦が、支店の駐在員達の私生活を、シッチャカメッチャカにしておりました。

「婦人会」の話を前に書きましたが、駐在員夫人達には、恐怖と戦慄の会合であります。尤も、この婦人会に類するものは、私の勤めていた銀行のみならず、結構他の日系商社や、大手メーカーでも似たような会合はあったみたいです。

この手の寄り集まり会合は、昔むかーし、まだ日本企業の進出が少なかった黎明期に、数少ない日本人が異国暮らしの中で、苦労を分かち合い、助け合ったりする上では意義ある物だったと思います。

しかし、デュッセルドルフという街は60万人くらいの人口の中で、日本人が公式登録ベースでも、6000人近くも住んでいる(つまり、1%。街で百人の人が歩いていたら必ず日本人がいる)。

この状況では、そうした互助組織は、まったく必要性がない。

驚くなかれ、この街では、ドイツ語も英語も出来なくても、数年間の海外生活を、どっぷり日本文化に浸かって過ごす事ができます(もったいないよなあ、折角の機会なのに、現地の文化に全く触れずに帰るなんて)し、大半の駐在員家族は、そうした閉鎖的社会に閉じこもっています。

それほど、日本人の為の、インフラが整っていると言えますね。(日本レストラン、日本スーパー、日本人学校、日本人クラブ、日本人美容院、日本人ゴルフクラブ、日本人ホステスのつくカラオケ、etc...)

にも関わらず、基本的に駐在員の奥様方は、暇もてあましてるから、こういう会合は沢山ありました。

私がいた銀行とは、別の方の財閥系グループ企業では(ああ、また実名書きたくなってきたなぁ、@@銀行、@@商事、@@重工が有名ですね、銀行は今は4文字になっていますが---- バレバレやんけ)、会社単位にとどまらず、グループ関連企業の奥様方がみんな集まって、お食事会なんかやってました。

一体何の目的をもって、運営してるのか不思議でしょうがなかった。

うむ、上の段落を逆説的に辿ると、私の勤めていた銀行が、ばれてしまうな。

わかんない人は、会社四季報でも買ってきて、なぞ解きして下さいね。

旦那が勤めている企業が、たまたま同一企業グループに属するだけで、なぜ奥様が集まるのか?グループ内の、会社規模や、資本関係、旦那の役職等に応じて、座る席順がきちんと決まっていたというから、ちょっと鳥肌もんですね。

支店長夫人、ご帰国ざぁます

えっと、話が外れた。私が書こうとしたのは、自分が勤めていた銀行の話だった。

支店駐在員達の妻を、恐怖と戦慄に陥れ、Gパン禁止例を発布したモーレツ支店長夫人が、お子さんの受験問題の為、支店長を単身残して、帰国する事になりました。

このニュースが、支店駐在員7家庭の、横連絡網を駆け巡ったスピードは、数分間だったと言われます。ロイターやAPより速いかもしれん。

私は唯一の独身者だったので、「あっそ」程度の認識でしたが、その晩は、各家庭でシャンペンが抜かれ、お父さんには、すき焼き鍋と晩酌がついた事は間違いありません。

当然、「支店長夫人を送る会」が催され、「まぁ、残念ですわー」という会話があったことは、想像に難くありません。

さて、数ヶ月後、ご帰国の日程が決まりました。とある、秋の日曜日の夕方のフライトで御出発です。

と共に、ご本人からは「私、見送りを受けるのは苦手なので、ひっそりと思い出の地を発ちたい」とメッセージが発せられました。

しかし、誰もが、このメッセージを文字どおり受け取っていいかどうか、疑念を持っていました。御出発の日が近づくにつれ、まるで、法学者が条文を解釈する如く、論議を呼びました。

「なぜ、日曜日のフライトを選らんだのか」

「そう言っておいて、本当は最後は誰が見送りにくるか、チェックをかけるんじゃないだろうか」

結局、結論は出ないまま、金曜日を迎えました。

支店長が、帰宅すると副支店長が、全員招集して緊急会議です。

切れ者の副支店長が切り出しました。(前回言っていた無能副支店長は、この人の後任です、誤解のないように)

「えー、今週末は承知の通り、支店長の奥様がお帰りになる。その対応についてだが、一応足並みを揃えておかないといけない」

「公には、見送り不要と言う事になっているが、その解釈の結論が出ていない」

「ついては、日曜日の昼までに、私が支店長宅に電話をいれて、本当の真意を確認するから、皆、自宅で待機していてくれ」

えぇーっ!実は、(当時は私は、まだ独身だったよ)その週末、私は、パリに住む女の子とデートする予定が既に入っていました。

時間と待ち合わせ場所まで決めてあり、それまで連絡がお互いに取れないスケジュールだったので、行かないと伝える事が出来ず、相手に待ちぼうけさせる事になるので、これは阻止しなければ。

私は、当然デートが優先です。「この週末パリに行くんですけどー」と、おそるおそる切り出すと、副支店長は、「どうしても行かなきゃならないの?」と聞いてきたので、「はい」と私が答えると、それ以上は聞かずに「じゃあ、とにかく日曜日の昼までに戻っていてくれ」と言うので、しぶしぶ従う事にしました。

その後、土曜日の未明の列車でパリに向かい、朝9時に着いた私は、美術館を見て、無事デートをしました。本当は、一泊して日曜日の夜にデュッセルドルフに戻る予定だったんですが、やむなく、彼女と夕食をすませてから、パリから出る最終列車に乗りました。

一番遅くに出る、選択をしたので、パリ北駅発で、ベルギーに入りブリュッセルで乗り換え、ドイツに入る接続でした。

列車に乗る前に、ワインを一本買っておきました。乗ってみると、なんと満席です。

仕方なく、別車両に移って、空席がないか探しに行きましたが、いい場所をみつけました。「貨車」の戸が施錠されず、開いていたのです。

ちょっと、酔っていたので、なんか映画みたいだなぁとスリルを感じながら、貨車の中でぽつんと床に腰をおろし、さっき買ったワインをラッパのみにしているうちに列車は、北を目指して出発進行―――。

しばらくして、トイレに行こうとしたら、なんと客車との接続ドアが、施錠されていた。

うわぁ、こりゃ参ったな。酔っ払った私は、自分のおかれた状況をあまり、把握せずに、ワインを飲み続け、眠りこけてしまいました。

しばらくすると、乗務員に叩き起こされました。どこかの停車駅で荷物を降ろすために、開けたら、私が寝ているので(当然だわな)びっくりしたらしい。

私は、酔っていたのと、寝ぼけていたので、フランス人の乗務員相手に一体何語で、説明したのか覚えていないが、身分証明書と、乗車券を見せて、ひたすら謝った。

その乗務員は、いい人で、「じゃ、どこか空席を探してきてやる」といって、追加料金をとることもなく、リクライニングシートの一等車の席に案内してくれた。

疲れていた私は、それがどこだか、時間が何時だかを確認もせず、そのシートで「極楽極楽」と、また眠りこけた。

さて、パリを深夜にでて、朝の3時くらいに、ベルギーのブラッセルで降りて乗り換えをしなければならなかったのだが、目を覚ましてみると、なんと、ベルギーをとっくに通過してしまい、オランダに入っていた、次の停車駅で表示を見ると「Rotterdam」。

かくして、これが私のロッテルダム初訪問となった。まさか、その数年後にこの街に来て住むとは、想像だにしなかった。

二日酔で、頭はガンガン、最悪である。確か朝の5時くらいだったろうか、駅の前をうろうろして、開いているホテルで、コーヒーを飲み、煙草を買って、一箱ふかしてしまったが、まだドイツ行きの便は出ない。

一番早いドイツ行きの便で、朝の6時くらいだった。ロッテルダムはオランダの西部の端っこ、ドイツ国境は東だから、オランダを横断するようなルートだ。時刻表を見ると、国境を越えてドイツのMoenchengladbachで乗り換えれば、デュッセルドルフまで昼ごろになんとか帰れる。

へとへとになりつつ、今度は寝てはいけないと言い聞かせ、列車を乗り継いでデュッセルドルフ駅に着き、タクシーで自宅までたどり着いたのは、丁度正午。

シャワーを浴びていると、電話が鳴った。支店の先輩から、「さっき、副支店長から電話があってね。今日ね、やっぱり支店長の奥さん、見送りは必要ないという結論がでたってさ。」

受話器をおくと、私は虚脱感と情けなさで、ひざがガクガク震えて止まらなかった。

ばかやろーーーー!この気持ち、あなたは、わかってくれますか?



©1997 copyright Hiroyuki Asakura