大黒屋光太夫【だいこくやこうだゆう】
先日、「八重洲」のいわれについて、オランダ人の船乗り、ヤンヨーステンについて書いた。
彼が、日本に漂着したのは、あくまでも嵐による、ハプニングだった。
同様に、鎖国時代の日本には、嵐にあって、外国に流されてしまう日本人も、いたわけだ。
彼等こそが、海外渡航日本人のの先駆者だ(もっとも、本人が望んだわけでなく、そういう運命にあっただけだが)。
有名なところでは、ジョン万次郎という人物がいる。
少年文学全集なんかにも、たしかなっていたから、誰でも、名前くらいは、聞き覚えがあるでしょう。1827年生まれの漁師。
"What time is it now?"を、「掘った芋いじんな」
14歳の時(1841年)、足摺岬での航海中に、遭難し、無人島でサバイバル生活を送るうちに、アメリカの捕鯨船に救助され、アメリカ本土で教育を受ける。
やがて、日本に危険を承知で戻り、旗本に昇進し、幕末維新には、米国との交渉の橋渡し役として活躍し、明治時代には、現在の東京大学の前身の、開成学校の教授となり、明治31年に没す。
ジョン万次郎が、有名になったのは、幕末という時代に、まさに必要とされていた、語学力や、外国の知識を持っていたがために、重宝され、厚遇されたからです。
実は、今回の、大黒屋光太夫は、ジョン万次郎よりも、60年あまり前に、すでに同じ運命を辿った人です。
万次郎が、アメリカを見てきたのと対照的に、光太夫は、ロシアに漂着して、ロシア横断を果たして帝都ペテルブルグを訪問した後、日本に、帰国しました。
長崎の蘭学者達が、書物だけを便りに、西洋を学んでいた時代に、おそらく、初めて欧羅巴を見て、帰ってきた日本人でしょう。
一応、現代のヨーロッパに、流れ着いた、私としては、万次郎よりも、光太夫の方に、親近感のようなものを、感じてしまう。
しかしながら、時代が早すぎて、帰国後は、「知りすぎた男」として、危険人物扱いされ、口封じのため、幽閉状態にされ、彼の貴重な体験は、活かされる事なく、寂しく一生を終えています。
注目度も、低く、私も今回、司馬遼太郎著「モンゴル紀行」という本を読んでいて、光太夫の話を初めて知り、興味を持ち、少し調べて見ました。
1782年に、伊勢を「神昌丸」で、出帆し、江戸に向かう途中で、漂流し、10年後に日本に戻るまでに、運命に翻弄され、ユーラシア大陸を横断することになる。
17名を乗せた回船が、嵐にあい、7ヶ月もの漂流の後で、着いた島は、遥か北の、アリューシャン列島の、アムチトカ島だった。
その時代に、すでにロシアの毛皮商人は、そこで原住民相手に、取引きをしていたというから、これも驚愕に値するが、光太夫達は、そこで4年間を過ごす事になる。
いつまでも、そんな所にいてもしょうがなく、望郷の念にかられた、彼等は、材木を集めて、自分たちで、船を建造し、日本に近い、カムチャツカ目指して出航した。
しかし、冬の気候と、食糧不足により、オホーツクに到着したときには、すでに、11名を失い、生存者は、6名だけだった。
しかし、当時既に、ロシアでは、日本からの漂流民は、帝都ペテルブルグに連れてくるように、勅令がしかれていたので、光太夫たちは、そのまま日本に帰国する許可は、下りなかった。
そんな勅令がある、ということは、光太夫達よりも、されに昔から、ロシアに漂着した、日本人がいたわけで、記録に残っているだけでも、1600年代後半には、何人かの日本人がロシアに着いた痕跡がある。
1697年に、カムチャツカに、漂着した、大阪の船乗り、伝兵衛は、当時のロシア大帝ピョートル一世に謁見を許され、ロシアに帰化し、ペテルブルグに、日本語学校を創設した。
おそらく、当時の授業では、
「プリービェット」 「まいど、もうかりまっか?」なんて、指導が、行われていたんでしょう。
「スパシーバ」 「おおきに」
「オーチンハラショー」 「ごっつぅ、ええでんな」
「ダスビダーニャ」 「ほな、またあいまひょ」
その後も、ゴンザ、ソウザという名前の薩摩の船乗りが、漂着して、帰化した上で、日本語学校で、語学教育を行っていたそうである。
大阪弁の、教材をもっていた生徒達は、いきなり薩摩弁に切り替えて、困惑したに違いない。
ところが、うまい具合に、次の世代の漂着者が来ないと、学校の教師が続かなくて、閉鎖されていた。
しかし、ロシアに帰化したからには、おそらくロシア人の妻を娶ったとしても、子供はいなかったのだろうか?
その二世が、日本語学校の教師として、存続させる力はなかったのだろうか?と私は、疑問を持った。
と同時に、私の子供たちも、やはり日本語をまともに、習得する事は出来ないのだろうか?と一抹の不安を持った。
こんな発想は、この文章を読んでいる方の中には、わかりにくいかもしれない。
しかし、我が子と、日本語でまともな会話が出来ないとなると、やはり悲しい。
子供との、会話は、完全に日本語100%を貫いているが、どの程度まで理解してくれているのかは、私にも判らない。
光太夫を受け入れた、シベリア総督は、この日本語学校の再開の為に、帰化を薦めたが、光太夫達は、それを受け入れず、日本への帰国を切望したという。
これは、当時から、すでにロシアは、日本との交易を念頭に置いて、通訳の養成を考えていた意思の現れでもあろう。
同じ時期に、鎖国状態にあり、蘭学と漢学だけを細々と、黙認していた、江戸幕府に比べて、ロシアの為政者の方が、遥かに視野が広かった。
もうこうなったら、国家元首に訴えるしかないと、ペテルブルグの女帝、エカテリーナ二世に、光太夫達は、謁見を求め、6000kmにわたる、ユーラシア大陸横断旅行に出る決意をする。
この時、後ろ盾になってくれた、ロシア人がいた。イルクーツクでガラス工場を経営していた、キリル ラックスマンという男が、この旅を援助してくれた。
ペテルブルグに到着した一行は、4ヶ月もの間、謁見を申込み、実現にこぎつけた。
エカテリーナ女帝は、光太夫の身の上話を聞き、心から同情の念をいだき、何度も「可哀相に」と言葉をかけたという。
エカテリーナは、光太夫達に、帰国許可を出し、滞在中は賓客として、もてなしたという。
当然、東方拡大政策を持っていたロシアは、この光太夫の送還にこぎつけて、特使を派遣した。
その特使が、日露通商条約を迫った、有名なアダム ラックスマンであり、前述のキリル ラックスマンの息子だそうだ。
いよいよ、帰国を前にし、当初の漂流仲間で、生存していたのは、5名。
そのうち、庄蔵・新蔵という二人は、ロシアへの帰化を決意し、帰国団には、加わらなかった。
この二人のその後を、私は非常に知りたいが、今のところどうなったか、判らない。
漂流から、丁度10年後の、1792年に、光太夫は、仲間の小市、磯吉を伴い、アダム ラックスマンと共に、根室に到着する。
しかし、念願かなった帰国直後に、根室で小市が病死してしまい、最終的には、本土に戻ったのは、光太夫と磯吉だけだった。
幕府に身柄を引き渡された、二人は、長い間取り調べを受けた。
桂川甫周が、この聞き取り内容から、『漂民御覧之記』『北槎聞略』等の書物を残した。
しかし、光太夫達は、あまりにも、外部の事情を知りすぎていた為、この内容をむやみに、口外する事を禁じられ、江戸番町に、屋敷を与えられたが、蘭学者達と、交流があった以外は、実質幽閉生活のうちに、活躍の機会を与えられず、一生を終えた。
時代が、少し早すぎた為に、ジョン万次郎とは、対照的に、寂しい晩年を迎えた、光太夫の方に、私としては、人間的な、魅力を感じてしまう。