マルタ騎士団【The Knights Hospitaller on Malta】
マルタ共和国で、マルタ騎士団国について、言及した、
早速、NY方面の、博学僧こと俊寛僧都から、ツッコミが入った。「もうすこし、ロードス島のあたりからの、なれ初めを書くと面白かったのでは?」と
実は、それほど私は、詳しいことは知らなかった。塩野七生(だったかな)の本に、出ているらしいが、日本語書籍が簡単に入手できる環境には、あらず。
塾長を名乗る以上、塾生達に、質問を受ける前に下調べせにゃならぬ。
知らない事は、インターネットに聞く。
あるわあるわ、流石いっぱい文献があった。直接引用すると、難しいので、多数の文献から、要約する。
建設の目的は、聖地巡礼するキリスト教徒達の宿泊、医療の提供だった。当初は、聖ヨハネバプティストの僧侶達の為の活動だったが、次第に活動を広げたらしい。
ま、お伊勢参りの為に、東海道五十三次の宿場町が整備されたのと同じような感覚でしょうか。(一緒にするなって?)
その後、100年以上経って、大きな転換がある。
イスラム教徒に、占領された聖地奪回の為に、有名なcrusaders(十字軍)が組織され、この団体が、1113年に、時のローマ教皇パスカル2世に、正式な教会の公認する組織として認められた。
イスラム勢力の強大化を受け、本拠地をエルサレムから、キプロス島に移すが、ここもイスラム教徒の脅威にさらされ、この一団は、ギリシアのロードス島に引っ越した。
ところが、ここも安住の地とならず、オスマントルコの、スレイマンT世が、20万人、400隻の海軍で包囲し、一方の騎士団軍は、たったの7千人。
たまたま、そこに住んでいたギリシア人の、平民がオスマントルコ軍と、騎士団の仲介役にまわり、島を明け渡した方が得策だと、助言し、領土を明け渡す形で、全滅を免れた。これが、1522年の、12月20日の事。
そうして、四日後の、クリスマスイヴに、ロードス島も明け渡し、居場所を失った彼等は、最小限の軍備を持ってイタリアに渡り、Civitavecchia,Viterbo,Nieceへと、転々とした。
キリスト教の後押しを受けた、正式の騎士団としては、屈辱的な決断だっただろう。
こうした放浪時代は、7年間続いた。それに終止符を打ったのは、1530年の、3月。
イタリアの富豪メディチ家の出身で、、時の教皇クレメント7世は、自身も、騎士団の、OBだった。
この境遇に同情し、当時のシシリー王でもあった、神聖ローマ皇帝のカール5世に圧力をかけ、年貢に鷹をおさめるという、けったいな条件で、マルタ島を封ぜられる。
騎士団達は、その新しい領土がそれほど、気に入ったわけではなかったが、すぐに、宿敵オスマントルコが、1565年に、また攻め入ってくる。
負けっぱなしだった、彼等は、それでもなんとか、このマルタ島は守り通し、ここを安住の地とした。
それまでは、ヨハネ騎士団(そういえば、私の妻は、この名前だったな)と呼ばれたが、この後、マルタ騎士団と呼ばれるようになった。
その後、平和を破ったのは、ナポレオンだった。
戦う事もなく、マルタを、フランスに明け渡したのは、1798年の事。
再び領土なしの、ホームレス政権となった、マルタ騎士団は、今度は、7年間どころか、丁度200年を迎えた事になる。
このまま、続くのだろうか。マルタも、政策的に、マルタ騎士団国に領土返還してしまったら、観光の為にも、将来のEU加盟のためにも、有利なのじゃないだろうかと思うのは、私だけかな?
ふかどん、どうですか
結構まじめに調べて書いたのですが、こんなもんで及第点でしょうか?