先駆者【pioneer】
先日、大黒屋光太夫を、最初に欧州を見て、戻ってきた日本人ではないか、と憶測で書いたが、歴史認識に誤りがあった。
考えて見たら、天正少年使節がローマに送られたのは、16世紀の事であるから、もっと、早い先駆者がいた。
名前は、なんだったっけな、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノって名前だったが、確か日本に帰国した筈だ(これも、確認していないが)。
謹んで訂正いたします。
西洋を見て、帰国した日本人という定義では、恐らく彼等が最古だが、人知れず、渡航したまま、現地に定住してしまった、日本人もいるに違いない。
近いところでは、20世紀後半から、21世紀にかけて、蘭学者ひろさんという人物が、西洋に渡航したまま、蘭学に没頭しつつ、副業にさらりーまんをしたまま、日本に、帰ってこないらしい。
それ以来、この雑誌が、有り難いことに、郵送で日本から送られてまいります。
その二月号を、今日パラパラとめくっていたら、「ザビエルが出会った最初の日本人」という題で、三浦史子さんが、フランシスコ ザビエルが、日本への宣教をするきっかけになった、ヤジロウという薩摩出身の男の事が書いてあった。
このヤジロウというのは、鹿児島で人殺しを犯し、日本にいられなくなって、密航してポルトガル船に乗った。
マレー半島の、マラッカでザビエルに、1547年に出会い、罪を悔い改め、日本人最初のキリスト教徒になった。
ザビエル自身は、ポルトガル人ではない。今のスペインのバスク地方に相当する、ナバラ王国の出身で、パリで神学を修め、イグナチウス ロヨラ達と共に、イエズス会を設立し、ポルトガル国王の援助を得て、東洋への布教に赴いた。
その後、インドで布教活動をして、マレー半島に渡ったときに、ヤジロウに出会って、日本での布教を決心したとされる。
このヤジロウは、西洋に渡ったわけではないので、ここまでは、天正少年使節が、やはり西洋一番乗りだと、おもっていた。
このヤジロウを調べるうちに、 天正少年使節よりも、30年早く、ヨーロッパに単身で到達して、ローマ法王に謁見した日本人がいた事が、判った。
しかしながら、日本人としての名前は、不明で、現地で逝去しているので、西洋を見て、日本に帰国したというタイトルからは、外れる。
インターネットで、調べ進むうちに、1553年に、実は、ザビエルの弟子として、キリスト教に改宗した、Bernardoという日本人(日本名は、不明)がヨーロッパに渡り、ポルトガルのリスボンに上陸した。
この男、1555年には、なんとローマ法王にも、会った記録がローマにあると言う。
その後も、ポルトガルのコインブラ大学で、神学の勉強を続け、病死した。
現地には、彼の墓が残っているそうだ。
日本には、彼に関する記録が全く残っていないので、どんな人物だったかは、不明だが、今から450年前の事である。
たった一人で、西洋に渡り、ここまで行動力のある、日本人の先輩がいると知って、我が身の適応力の乏しさに、情けなさを感ずると共に、感嘆した。