キャロライン・コッシー(チューラ)

Release 1999/10/14
Update 1999/10/16

 ■米国版『PLAYBOY』誌(1991年9月号)「The transformation of Tula」より一部抜粋 和訳:目太丸泡助
 1953年、ジョージ・ジョーゲンセンJrというアメリカ人の元GIがコペンハーゲンの病院にて、世界で初めて公にされた性転換手術によりクリスティーン・ジョーゲンセンとなった。その後、数千人が同様に変身をとげ、中にはリチャード・ラスキンが有名なテニス・スター、レニー・リチャーズになった。英国人の旅行記者ジャン・モリスは、1953年にエベレスト登頂を成した新聞記者ジェームズ・モリスである。そして、1979年5月にPLAYBOY誌のインタビューでカミングアウトしたシンセサイザー作曲家ウォルター・カルロスはウェンディ・カルロスとなった。もはや、テレビドラマ「L.A.ロー」の“Donahue”というエピソードでは性転換がテーマとなるように、いまや性転換は世間のタブーではない。科学者はトランスセクシャルの存在を認めてはいるが、その原因に対しては見解が統一していない。両親からの心理的影響によるという説もあるが、染色体異常によるケースも時々見られる。そのほか母親の胎内において胎児の脳の形成時にホルモンの服用が影響を与えるという研究もある。妊婦にストレス治療のためバルビツールが投与された場合、生まれた赤ちゃんは外見上男らしい性的特徴に女性の脳を持って生まれる。このように脳と身体が間違って生まれる彼/彼女がトランスセクシャルである。
 これは男から女へ変身した一人の人間の物語である。バリー・コッシーはブルック(彼が生まれたイングランド、ノーフォークの田舎村)の学校が大嫌いだった。他の少年にとっては遊びだったケンカが彼にとっては苦痛であり、いつも年長の少年たちから弱虫呼ばれされ、いじめられた。彼のもっとも親しい友達は、いっしょに人形あそびをしてくれる姉のパムだった。思春期には同性に対して性的な感情を抱くようになり、彼は自分が同性愛者ではないかと悩んだ。しかし事態はもっと複雑なものだったのである。
10代のコッシー
 元バリー・コッシーこと、キャロライン・コッシー(モデル界ではチューラと呼ばれる)は現在では、トランスセクシャル達の先導者的存在である。取材のために、ロンドンのオランダ公園地区にある流行のレストランで彼女と昼食を一緒にしたとき、前もって知らなければ、彼女のことを女性ではないと疑うことは100%なかっただろう。彼女は背が高く(6フィート)、上品で、ナイスボディ(B94・W63・H94)、美しさには目を奪われてしまう。ハスキーな声と、話すときの仕草はまったく女性である。そして明らかに、この女性は、女性としての考え方をする。
 彼女のことをアソコを切り取った変態者としか見ない人々もいるのは事実である。
「私が苦しみから解放されるには、この選択しかなかったことを、どうして人は解ってくれないのかしら?」と彼女。
「私は、自分を男と思ったことは一度もないの。いつも女性と思っていたわ。だから頭の中の自分のイメージに体を合わせる必要があったの。やるべきことをやったのよ。今の私がいるのも医学の手助けのおかげです。しかし、私の性転換の話を公にするつもりはなかったわ。タブロイド誌が記事にしなければ、私の秘密は死ぬまで隠し通すはずだったの。私は正しい事実を知ってもらうため、今こうして話すことにしました。たくさんのTS達の権利のためにも堂々と意見を述べることにしたのです。」
 チューラの変身は一晩で起こったことではない。彼女は10代後半からダンサーとして働き始め、女性ホルモンを使用するようになった。そして次に豊胸手術を行った。
「胸を大きくしたことは、より多くのお金を稼ぐのに役だったわ。」彼女は世界中をまわってショーガールとしてのキャリアを磨いていったが、彼女の仮面の下にかくれた真実が誰かに見つけられないかと、いつも恐れていた。カモフラージュのために強力なゴムでできた特別のGストリングを作った。
ダンサーの頃
「それは、とても痛かったけど、ガマンするしかなかったの」パリ公演では、舞台裏で皆と一緒に全身のメーキャップを落とすことになったので、とりわけ大変だった。
「私はGストリングを着けたままシャワーを浴びるしかなかったのだけど、他のダンサーたちは、私が英国人だからシャイなんだろうと納得していたみたい」
 ホルモン治療と心理カウンセリングを続け、チューラはやり直しができない最終段階(性転換手術、あるいは性別再割付手術)への決心はできていた。手術認定のために医者は、彼女の染色体検査を行ったが、普通のパターン(XYが男で、XXが女)と違って、チューラの場合、3つのXと1つのY染色体であることがわかった。
「それで、私が普通の男でないことがはっきりしたの、子供の父親にはけっしてなれなかったのよ。」
 手術は、1974年の大晦日、ロンドンのチャリングクロス病院で行われた。そして手術後、ゆっくりと療養するためにノーフォークの両親の家に戻った。息子から娘になって帰ってきたわが子を前に両親のショックは計り知れないものだったが、彼女にとっては彼らは暖かい支えであった。それからは数年でチューラはモデルや女優の仕事、そして人生にも開花した。
「女性としてのセックスがエンジョイできて、ますます大胆になっていく自分が怖かったわ」と彼女はいう。「エイズが流行するまでの話しですけど」。快感が得られるのかという問いに対して、チューラは「ハイ」と答えた。簡単にいうと、男の性器の最も感じる部分が、外科手術によって残されたということらしい。
「今の自分のセックスは他の女性と変わりないと思うわ。」と彼女。「いつも相手の男の人次第だし、相手がリラックスさせてくれないとイクこともできないわ」
 モデルの仕事は順調で、そのままモデルを続けることになるかと見えたが、大きな転機が彼女に訪れた。チューラは1981年のジェームズ・ボンド映画『フォー・ユア・アイズ・オンリー』でボンドガールの一人として選ばれた。そして1981年6月号の『PLAYBOY』誌では映画の宣伝のために彼女のヌードが掲載された。我々は彼女にうまく騙されていたのだ。1982年のある日曜日のこと、タブロイ誌『ニューズ・オブ・ザ・ワールド』で「JAMES BOND GIRL WAS A BOY」という大きな見出しが第一面を飾った。
「打ちのめされたようなショックでした」とチューラは思い出す。「私は、普通の生活を送ることが望みだったのです。それが、どこに行っても記者達に激しくつきまとわれて、何度も同じような質問責めにあいました。それで私は、彼らが無知な質問を繰り返さないようにも、自らの話すことにしたんです。」それが、彼女の最初の本、ペーパーバックの『Tula:I Am a Woman』である。周りの熱狂がおさまったのち、心理的にも疲れたチューラはモデルの仕事だけを受けることに控かえた。イタリアのスキウェアーの広告モデルの仕事を受けたとき、そこの重役であり彼女の性転換を理解してくれた人物に出会った。
「彼の名前は、カウント・グラスコ・ラシニョ。彼は私の過去の全てを理解してくれた初めての人だったんです。結局、私たちは恋に落ち、そして、驚いたことに、彼は、私に結婚して欲しいといったんです。」
それを実現するためには、裁判によって英国の法律を変えなければならなかった。チューラのパスポートには彼女が女性であると書かれているが、出生証明書には彼女が男であると記載されたままなのだ。英国では性転換手術のために健康保険を使えるが、政府は術後の患者を結婚ができる女性として認定はしない。さらに複雑なことに、年金は女性としての率で請求されるが、年金を受け取るのは65歳になってからである。(女性は60歳)。もし、彼女が犯罪を犯したなら、男子刑務所に投獄させられるだろう。イタリア人のフィアンセの応援もあって、7年間に渡る訴訟を開始することになった。英国の政府からは拒否されたがストラスバーグでのヨーロッパ人権裁判所に持ち込んだのである。グラスコとは結局、別れてしまったが、結婚への望みは金持ちのユダヤ人のビジネスマン、エリアス・ファタールによってかなえられた。エリアスとチューラは1985年に出会った。別の仕事につくために彼女はロンドンで東洋医学の指圧の勉強を始めた。エリアスはリューマチを患っていてそこで治療を受けていたのだ。結局彼らに恋が芽生え1988年のバレンタインデーに彼は彼女にプロポーズした。しかし問題があった。彼女はエリアスに、医学的な問題で子供が作れないと告白したが、性転換については話さなかったのだ。彼の反応が怖くて、彼女は自分の本を渡し、読んで欲しいと頼んで、去ろうとした。しかし、彼は彼女を引き留め、彼女のいる所で本を読んだ。
「彼が最後のページを読み始めたとき、私の手を握りしめて言ったの。私が求めていたものが手に入ったと」エリアスの言葉はそれだけだった。
ウェディング姿
「てっきり、プロポーズした気持ちを変えると思ったら、彼は私にユダヤ教に改信するよう求めてきたの」とチューラ。そして彼女は9ヶ月間、ヘブライ語の勉強をしながらユダヤ人の歴史と伝統を学んだ。これはスペイン・ポルトガル系ユダヤ人であるエリアスの両親が、彼がイラクから英国へ行き異教徒との結婚を望んでいなかったためである。
「性転換者であることを両親に告白することは、すぐにはできなかった」とチューラは説明する。「まずは彼らに会って、それからはっきりと話すつもりだったの。私のお姉さんか女友達に代理妻になってもらってエリアスの子供を育てたいという望みもありました。」結婚式をどこで行うかの問題などがあって、ファタール婦人が息子のフィアンセ(義理の娘)に会ったのは3ヶ月後のことである。チューラは家族と友人だけの質素な結婚式を望んでいたが、ファタール婦人はロンドンのサボイホテルでの豪華な結婚式を主張した。婚約届けには出生証明書が必要なかったので、最初のハードルは飛び越えることができた。一方、ストラスバーグ裁判所での判決は1989年5月9日に10対6の票を得て勝訴した。エリアスとチューラは5月21日、ロンドン、セントジョンズ・ウッドの協会で結婚式を挙げた。そして、チューラの希望により3週間、アカプルコとジャマイカで甘いハネムーンをおくった。
「私たちは、ティーンエイジャのカップルのようだったわ。ラス・ブリサスではプライベート・プールで、朝から夜まで一日中、裸で愛しあったの。もう、それは最高! しかし、旅行から帰ってくると、母さんと姉さんが空港で待っていて(父親は1年半前になくなっている)、私を見つけるとあわてて近づいてきたの。それで、わたしは“どうしたの?事件?私の車が事故に遭ったとか?”って聞いたら、姉さんは“ノー”って言って、母さんは泣きながら私に新聞をわたしました。」
 わたされた『ニューズ・オブ・ザ・ワールド』誌の第1面には「性転換女性が結婚する」の見出しが書かれていた。
「エリアスはあわてて、彼のお母さんに電話して、それとなく新聞を読んでないことを確認しようとしたんだけど、遅かったの。それで彼は、これから一緒にお母さんのところへ行こうというんだけど、私は精神的に傷つけられるのが怖くていけなかった。でも、彼一人をお母さんのところへ行かしたことが、いま思えば、最大の間違いでした。」
 「結局は、彼が家族に逆らえないってことを私は分かっていたわ。でも、悲しいことに、彼は私のことを、まだ愛していてくれているの。ほんの5分で嫌いになることなんてできないわ。」
2冊目の著書
 エリアスが発ってから1、2ヶ月で彼女はようやく立ち直ることができた。新聞の記事のため、イタズラ電話や、自分のメルセデスベンツのブレーキに細工されるなどの事件があったが、警察に報告してからは嫌がらせはなくなった。事態を回避するため、彼女は2冊目の本『My Story, by Caroline Cossey』を英国で出版し、モデルの仕事に戻ることにした。彼女のマネージャー、イボンヌ・ポールの勧めにより『Playboy』誌にもヌードを披露した。
「ヘフナーさんにお会いしたとき、彼は『Playboy』によって人々の私への関心を変えるだろうと、いってくれました。性転換者がこれだけセクシーな女性になれたことを私は読者に見てほしかったの。けっして毛深い毛などを呪文で消したわけでないことを知ってほしかったの。私、主張したかったのよ。」 Playboyでも彼女に興味を示し、有名な写真家のバイロン・ニューマンに撮影を依頼した。彼女はアメリカに来て、ドナヒューのインタビュー番組にも出演した。1990年9月27日ストラスバーグでの人権法廷で最終判決が出た。10対8の僅差で、彼女の出生証明書の変更が拒否され、結婚も認められなかった。
「ヨーロッパ共同体に英国が加わったら、問題提起の機会が訪れると思うわ」チューラはランチを食べながら話す。
「いくつかのヨーロッパの国では性転換が認められてるから、すべての国で認められるようになってほしいわ。」

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