図書館の正面にある建物です。この庭園というか、ただの広場というか、ゆったりとした、のびやかさだけは、存分に味わえます。やっぱ自由の国アメリカの大学だ?

(話の続き)

この例は極端だったかもしれませんが、キリスト教社会での自由というのは、神の教えを守った上で、許される行動の自由というのを感じます。

もう一つ別の自由観も感じます。

「フリーズ」を「プリーズ」と聞き間違えて、日本人留学生が射殺された痛ましい事故がありましたよね。

刑事事件としては無罪になったと思います。

あの事件では、アメリカ人の100%近くが痛ましい出来事だと考えたようです。

でも陪審員の決断は無罪でした。

キリスト教の「汝殺すなかれ」という教えに背いています。

クリスチャンの陪審員は、とても心中複雑だったと思います。

神の教えに背いてまでも、無罪の評決をしたわけです。

その評決のために、陪審員自身が神の裁きで、地獄に落ちるかもしれないというリスクを犯したわけです。

この苦しみは、私のような無神論者には理解できません。

八百万の神様に、守られていると考えている日本人も、私と同じように理解できないでしょう。

(次の写真に続きます)