兄ウォーウィックの影響で、早くから戦前物のジャズやブルースを収集し始める。地元の友達だったジェフ・マルダーなども加わって、レコードの情報を交換し合う生活を過ごす。ハーバード大学の英文科に進学し、ボストンに移る。 大学を1年休学して、ロサンジェルスのコンテンポラリー・レコーズで働き、レコード制作の現場を経験する。復学後、ルームメイトで収集仲間だったトム・ラッシュのマネージメントを引き受け、ラッシュのギグのブッキングなどを受け持つ。まもなく、ジェシー・フラーやライトニン・ホプキンズをはじめ、黒人ブルースマンのギグの世話も担当。同じ頃、クラブ47の経営陣で、プレスティージ・レーベルにいたポール・ロスチャイルドと親交を深める。
1964年、ニューポート・フェスティヴァルを主催していた興行主ジョージ・ウェインと縁ができ、「フォーク・ブルース&ゴスペル・キャラヴァン」(出演はマディ・ウォーターズ、サニー・テリー&ブラウニー・マッギーほか)と題された興行のツアー・マネジャーとして雇われて、64年4月初めてイギリスを訪問。
帰国後、ポール・ロスチャイルドとともに、ジョン・セバスチャンを中心としたエレキ・フォーク・グループを構想するが、途中で頓挫。まもなくシカゴでポール・バタフィールド・ブルース・バンドを発掘し、ポール・ロスチャイルドに紹介、彼らのデビューのきっかけを作った。65年6月、ポール・バタフィールド・ブルース・バンドとボブ・ディランも出演したニューポート・フォーク・フェスティヴァルでは、プロダクション・マネジャーを務めた。
65年11月からエレクトラ・レコーズのロンドン事務所代表を任せられ、66年春エリック・クラプトン、スティーヴ・ウィンウッド、ポール・ジョーンズが加わったプロジェクト、パワーハウスのプロデュースを担当したほか、インクレディブル・ストリング・バンドなどと契約した。この頃から、ロンドンのサウンド・テクニックス・スタジオを多用し始める。
1966年暮、方針のずれからエレクトラを辞める。67年1月、ピンク・フロイドのデビュー・シングル「アーノルド・レイン」をプロデュース。同じ時期に、ロンドンのサイケ・シーンを牽引したUFOクラブの運営に加わり、67年秋の閉鎖まで常駐DJとして関与。
67年、独立レーベルとしてウィッチシーズン・プロダクションズを創業、アイランド・レコーズと配給契約を交わす。フェアポート・コンヴェンション、ニック・ドレイクなどをデビューさせ、イギリスのエレクトリック・フォークを定着させた。また、67年には、無名時代のジョニ・ミッチェルをロンドンに招き、かつ彼女の曲をフェアポート・コンヴェンションに録音させた。
71年、レーベルの権利をアイランド・レコーズに売却して米国に拠点を移し、ワーナー・ブラザーズ・レコーズの音楽フィルム部門を担当、1973年にはジミ・ヘンドリックスのドキュメンタリー映画を制作した。ワーナー時代には、幼友達のジェフ・マルダーの組んだジェフ&マリア・マルダーや、マリア・マルダーのソロ、ケイト&アンナ・マッギャリグルなどに関与する。
1980年、アイランド・レーベルの支援を得て、新たにハンニバル・レコーズを設立。旧知のリチャード&リンダ・トンプソンなどと契約。また、80年代半ばには、R.E.M.、10,000マニアックスなどの作品をプロデュース。
91年にハンニバル・レコーズがライコディスク傘下に移った後も、社長として、旧譜の再発を指揮するほか、キューバやブルガリアの音楽をはじめとするワールド・ミュージックを積極的に紹介している。
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