linkbanner Updated on October 24, 2003

 

Joe Boyd
ジョー・ボイド


The Man in Brief
イギリスのフォーク・ロックの確立に大きく貢献した裏方。

インクレディブル・ストリング・バンド、フェアポート・コンヴェンション、サンディ・デニー、ニック・ドレイクなどを見出した。もともとは、フォーク・リヴァイヴァル世代のアメリカ人で、ジェフ・マルダーやトム・ラッシュとは若い頃からの仲間。ボイドの人脈は、イギリスのフォーク・ロックの発展に間接的に役立った。マリア・マルダーのデビュー作も担当。

活躍はフォーク畑にとどまらず、ピンク・フロイドの最初のシングルを手掛けたことは有名。また、映画「ジミ・ヘンドリックス」の監督も務めている。80年代半ば辺りからワールド・ミュージックの発掘に力を入れ、現在も精力的に活動している。

生まれ: 1942年 プリンストン(米国ニュージャージー州)

主なパート: プロデューサー、マネジャー、レコード会社社長

担当アーティスト: トム・ラッシュ、ジェシー・フラー、インクレディブル・ストリング・バンド('66-'70)、ピンク・フロイド (''67)、デイヴ・スウォーブリック、フェアポート・コンヴェンション('67-'70)、ニック・ドレイク('67-'70)、ジョン・マーティン、パープル・ギャング、リチャード&リンダ・トンプソン、ジェフ&マリア・マルダー、マリア・マルダー、ケイト&アンナ・マッギャリグルほか多数

Major Works
※ジョー・ボイドのプロデュース作品などの情報は、こちらのページへ。
Biography
兄ウォーウィックの影響で、早くから戦前物のジャズやブルースを収集し始める。地元の友達だったジェフ・マルダーなども加わって、レコードの情報を交換し合う生活を過ごす。ハーバード大学の英文科に進学し、ボストンに移る。

大学を1年休学して、ロサンジェルスのコンテンポラリー・レコーズで働き、レコード制作の現場を経験する。復学後、ルームメイトで収集仲間だったトム・ラッシュのマネージメントを引き受け、ラッシュのギグのブッキングなどを受け持つ。まもなく、ジェシー・フラーライトニン・ホプキンズをはじめ、黒人ブルースマンのギグの世話も担当。同じ頃、クラブ47の経営陣で、プレスティージ・レーベルにいたポール・ロスチャイルドと親交を深める。

1964年、ニューポート・フェスティヴァルを主催していた興行主ジョージ・ウェインと縁ができ、「フォーク・ブルース&ゴスペル・キャラヴァン」(出演はマディ・ウォーターズ、サニー・テリー&ブラウニー・マッギーほか)と題された興行のツアー・マネジャーとして雇われて、64年4月初めてイギリスを訪問。

帰国後、ポール・ロスチャイルドとともに、ジョン・セバスチャンを中心としたエレキ・フォーク・グループを構想するが、途中で頓挫。まもなくシカゴでポール・バタフィールド・ブルース・バンドを発掘し、ポール・ロスチャイルドに紹介、彼らのデビューのきっかけを作った。65年6月、ポール・バタフィールド・ブルース・バンドとボブ・ディランも出演したニューポート・フォーク・フェスティヴァルでは、プロダクション・マネジャーを務めた。

65年11月からエレクトラ・レコーズのロンドン事務所代表を任せられ、66年春エリック・クラプトン、スティーヴ・ウィンウッド、ポール・ジョーンズが加わったプロジェクト、パワーハウスのプロデュースを担当したほか、インクレディブル・ストリング・バンドなどと契約した。この頃から、ロンドンのサウンド・テクニックス・スタジオを多用し始める。

1966年暮、方針のずれからエレクトラを辞める。67年1月、ピンク・フロイドのデビュー・シングル「アーノルド・レイン」をプロデュース。同じ時期に、ロンドンのサイケ・シーンを牽引したUFOクラブの運営に加わり、67年秋の閉鎖まで常駐DJとして関与。

67年、独立レーベルとしてウィッチシーズン・プロダクションズを創業、アイランド・レコーズと配給契約を交わす。フェアポート・コンヴェンションニック・ドレイクなどをデビューさせ、イギリスのエレクトリック・フォークを定着させた。また、67年には、無名時代のジョニ・ミッチェルをロンドンに招き、かつ彼女の曲をフェアポート・コンヴェンションに録音させた。

71年、レーベルの権利をアイランド・レコーズに売却して米国に拠点を移し、ワーナー・ブラザーズ・レコーズの音楽フィルム部門を担当、1973年にはジミ・ヘンドリックスのドキュメンタリー映画を制作した。ワーナー時代には、幼友達のジェフ・マルダーの組んだジェフ&マリア・マルダーや、マリア・マルダーのソロ、ケイト&アンナ・マッギャリグルなどに関与する。

1980年、アイランド・レーベルの支援を得て、新たにハンニバル・レコーズを設立。旧知のリチャード&リンダ・トンプソンなどと契約。また、80年代半ばには、R.E.M.10,000マニアックスなどの作品をプロデュース。

91年にハンニバル・レコーズがライコディスク傘下に移った後も、社長として、旧譜の再発を指揮するほか、キューバやブルガリアの音楽をはじめとするワールド・ミュージックを積極的に紹介している。

Latest News
フェアポート・コンヴェンションの結成30周年記念コンサートの模様を収めた3枚組アルバム The Cropredy Box が発売に(amazon.co.jp)。ライヴの冒頭の挨拶でジョー・ボイドが登場。(3/1999

19997月、ラウドン・ウェインライトIII2年ぶりのアルバム Social Studies が発売に(amazon.co.jp)。ジョー・ボイドとジョン・ウッドがプロデュースを担当。(7/1999)

タジ・マハールがアフリカのマリ出身のトゥマニ・ディアバテと共演したアルバム Kulanjan が発売に(amazon.co.jp)。プロデューサーはジョー・ボイド。(8/1999

2001125日、2000年制作のオランダ映画 "A Skin Too Few: The Days of Nick Drake" がイギリスで初上映された。48分のドキュメンタリー映画で、故ニック・ドレイクのマネジャーだったジョー・ボイドも出演。(1/2001)

マーク・ボランの全キャリアを網羅した4枚組ボックスセット 20th Century Superstar が発売に(amazon.co.jp)。1967年にジョー・ボイドがプロデュースしたティラノサウルス・レックスの未発表音源も収録。(10/2002)

2003930日、ジェフ・マルダーが、ジェフ・マルダー&フューテュリスティック・アンサンブル名義で新作 Private Astronomy: A Vision of the Music of Bix Beiderbecke を発表(amazon.co.jp)。これは、1920年代に活躍したコルネット奏者ビックス・バイダーベックにトリビュートしたもの。マルダーと親友のボイドは、エグゼキュティヴ・プロデューサーとして名を連ねている。(9/2003)

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英語サイト

Hannibal Records @ Rykodisc: ジョー・ボイドが社長を務めるハンニバル・レコーズを傘下に収めるライコディスクの公式ページ


Joe Boyd

英国フォーク・ロックを育てた
アメリカ人プロデューサー


 

 

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