ケンブリッジ大学を優等で卒業、21歳の若さでロンドン・スクール・オヴ・エコノミックスの教員になり経済学の講座を担当。左翼系のエリートで、66年4月には、市民教育を通じた社会変革を目指すロンドン・フリー・スクールの設立に関与。 66年6月、マーキーで行われたイベントで、ピンク・フロイドのライヴをはじめて見て、刺激を受ける。まもなくピンク・フロイドのマネジャーに名乗り出て、友人のアンドリュー・キングと、ブラックヒル・エンタープライズというマネージメント事務所を設立。大学を辞して、マネージメント業に専念することに。その後約2年間、ピンク・フロイドをサポートしたが、68年4月のシド・バレットの脱退とともに、ピンク・フロイドと袂を分かつ。
引き続きブラックヒルの経営を続け、ソロになったシド・バレットをマネージしたほか、ティラノサウルス・レックス、サード・イヤー・バンド、ロイ・ハーパー、ケヴィン・エアーズなどを担当。
音楽を無料で提供するというヒッピーの精神にのっとって、68年6月に、ハイド・パークで最初のフリー・コンサートを企画(ピンク・フロイド、ティラノサウルス・レックス、ジェスロ・タルなどが出演)。以後70年代までたびたび実施、69年7月にはローリング・ストーンズも参加した。
その後、クラッシュ、イアン・デューリー、ロビン・ヒッチコックなども担当。プロデューサーとしては、シド・バレットのソロを一部手掛けたほか、ロイ・ハーパーの一連の作品を手掛けている。
今もシンシア・マネージメントという社名で、マネージメント業を続け、現在担当しているのは、ビリー・ブラッグ、エディ・リーダーほか。
また、マネージメント業界の活動にも積極的に関与、現在は国際的なマネジャー協会であるIMMFの事務総長と、イギリス音楽家協会(AURA)の理事を務めている。
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