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名字帯刀御免2頁目
 

上記に紹介した6通の文書は、神崎郡市川町字神崎の旧川口屋に、虫
食いのまま、公開もされず見る人もなく、平成11年の今日まで保管され
てきた。 市川町か、神崎町の教育委員会のような所で、郷土資料として
しかるべく保存されない限り、滅失は目前である。

ごく最近もこんなことがあった。
裏の納屋で薪割りに使われていたらしく、棟(みね)を金槌でさんざん叩
いた痕があるのに、刃こぼれのない鞘無し刃物を発見し、目釘を抜いて
みたところ京堀川の山城守国清の銘刀と判明した。
これなど、まさに廃棄の寸前であった。

 
さて小藩ながら、そして金の力とはいえ、こうした数々の文書を誇った播
州福本藩の川口屋なる商家が、いったいどこから来て、どんな事業で儲
けたかなどは、実のところほとんど判っていない。
いわゆる大庄屋豪農筋ではなく、商家であったことは間違いない。 
じじつ、明治10年頃までは、今に残る川口屋の屋敷跡にたくさんの倉庫
が建っていて、季節の替わり目には、大量の荷物が出入りしていたという
話を、筆者の祖母がしていた。
その荷物の内容が何であったかは、幼女のころの祖母の記憶にない。

だいたいこの辺り、というよりほぼ播州一帯に亙って、旧家・大百姓に類
するような家は、もとを探れば応仁・嘉吉の乱の赤松・別所・後藤の武
士団 が戦に負けて帰農し、いわゆる開発名主(みょうしゅ)になったもの
がほとんどである。
神崎郡など中播には、とくに後藤の系統が多い。
伊勢采女庄に始まるといわれる播州後藤が史書に現れるのは、太平記
強力無双後藤佐渡八郎基景が最初で、それは、のちに後藤の主筋
となった赤松よりさらに100年を溯り、大阪夏の陣の後藤又兵衛で武士
としてはほぼ終わりを告げる。 
帰農した後藤は、いまの神崎郡の姓でいえば、後藤、福永、中塚、大野
などである。
同じく太平記の赤松則村の系統赤松、三木、高橋などで、柳田国男
が有名にした福崎町の大庄屋三木家は、赤松の分家といわれる播州三
木別所長治の後裔とも、伊予河野氏の末流ともいわれている。

それが、いまここで話をしようとしている川口屋の「丸尾」という姓につい
ては、神崎郡では他にない、やや珍しい名字で、いったいどうした家系か
かいもく分からない。
ひろく播州一帯を探せば、有名な竜野の醤油産業の元祖円尾某氏や、
明石の丸尾カルシウムの社長さんご一家がれっきとして存在するが、こ
の方々とわが福本藩福渡村の丸尾とは、どうも関係が無いようである。
 
とすると、この福渡村の丸尾は、福本藩札を発行した太右衛門で8代目
ということになっているが、その先のご先祖が、いつ、どこからやって来
たのか。 それがさっぱり判らない。 
そこでためしに兵庫県じゅうの電話番号簿を片っ端から調べてみた。
すると、あるようでないようで、そしてわりあい普通に、どの局番の電話
局にも、ほんの僅かほどずつ丸尾姓の人がいらっしゃる。しかしまとめ
て10戸ほども丸尾姓の家々が集まっている町村は、県下で1個所だけ
だった。そこは市川を溯って源流の生野峠を越え、そこから反対に日本
海に流れている円山川の、ずっと遠方にある川沿いの町であった。さて
は、わが丸尾はそこから、南に山越えし下ってきて、いまの市川町に住
み着いたたか、と一時は思った。
ところがさにあらず。調べてみて、その町の丸尾姓の方々とはいちおう
無関係、と断定せざるを得ない理由があった。 
そこであらためて考え直して、むかしの姓というのは土着の地名からと
ったのが多いのに気づき、兵庫県小字辞典という本で「丸尾」という小字
の土地をひろって見ることにした。  
すると、あるはあるは、あちこち至る所に丸尾という小字が存在する。早
い話が、わが生まれ故郷福崎にも二個所ほど丸尾という小字がある。
とくに旧丹波国氷上郡、多紀郡に多い。  こんなにたくさんあっては、
小字名からの丸尾姓の源流追跡は、まず不可能である。
 
こまったな、と思っていた矢先、耳寄りな、いや目寄りな情報(?)を得た。
「朝来志」という明治32年に出版された生野周辺、つまり旧福本藩北隣
りの、朝来郡郷土史の本があり、その中に 「明治4年の飢饉のとき、丸
尾八右衛門ほか二名の生野代表が、久美浜県知事小松彰から救援米
970石を借用した」 との記述を発見した。当時、生野県知事は京都の
久美浜県知事が兼任してい、その生野県には、わが福本旧藩領もいち
ぶ含まれていた。  
生野の丸尾八右衛門は、さてこそわが福渡村丸尾のご親戚!と、意気
込んで朝来志を読み続けると、あるはあるはこの八右衛門さんという人
物が何度も登場する。どうやら生野の名士らしい。

そこで生野町の歴史に詳しい但陽信用金庫前理事長の桑田利文氏
照会してみた。 そして判ったのは、幕末の生野銀山には鉱山師(やまし
)、買い吹、掛屋(かけや)と、幕府指名の3職があり、丸尾は掛屋
(会計資材係)で、八右衛門氏は町の旅篭やからそこの丸尾家へ入った
養子である。 才、人に優れ、幕末には町年寄、維新後に戸長、つまり初
代町長を勤め、はやくに藍綬褒章を受けた生野第一の名士であった。  
生野銀山の掛屋丸尾家は歴代米屋八右衛門」を名乗り、戸長八右衛
門氏はその6代目。   実父は近隣森垣村の藤原長右衛門、7代目は
豊岡生まれの養子嗣 勳四等丸尾光春、8代目は大阪へ移住したが近
年物故、未亡人が阿倍野区に住んでいらっしゃるとかで、桑田氏は親切
にも大阪から過去帳の写しまで取り寄せてくださった。
生野随一の実業家、桑田氏とはもちろんご親戚の間柄である。

と、ここまで丸尾八右衛門氏のことは判ったが、さてこれだけでは、わが
福本藩の川口屋丸尾のルーツに関係があるかどうか、判らない。
先さまが立派な名家で、有名人であるだけに、こちらとしては何とか親戚
筋にしてしまいたいところだが、両家の関係がいまのところ定かでないだ
けに、親しそうな口をきくわけにもいかない。
ただ言えることは、維新当時の、わが川口屋当主9代太右衛門浅七と、
米屋6代八右衛門氏とは、おそらく、相互に面識があっただろう、というこ
とである。   

なぜなら、これは後述するつもりであるが、明治のごく初めごろに、わが
川口屋は、加東郡市場村の近藤文蔵家の代理人として、市川と円山川
を結んで瀬戸内と日本海を繋ぐ舟行計画の土木事業を企て、実際工事
に乗り出したことがあるが、そのとりかかった土木工事の現場は、福本
藩領生野銀山領にまたがっていたのだから、当時生野戸長だった米屋
八右衛門氏と、わが川口屋太右衛門とは、とうぜん何度か会合し、いろ
いろ打ち合わせをしたに違いない。
 「やぁ貴方が丸尾さんですか、わたしも丸尾です。お互い、わりあい少
 ない同じ苗字で、しかも隣同士とはまことに奇縁ですなぁ。ひょっとした
 ら先祖が同じかも知れないし、まぁ今後とも何分よろしく・・・」
と、いった程度の会話をした可能性は充二分にある、と考えたら楽しいで
はないか。

幕末に川口屋がどんな商売をしていたかを知るための、筆者は一つのヒ
ントを持っている。  筆者少年のころの思い出に、川口屋の裏木戸のつ
ぎ張りに「近藤様御回米始末」と、お家流に書かれた帳票の表紙があっ
た。 前を流れる市川で回漕業か問屋をしていたとも想像できる川口屋だ
が、大事そうに「近藤様」と墨書した、その大事な客はいったいどこの誰
であったろうか。 これがぼくには長い間判らなかった。
われわれの知るところ、市川流域に、いまも昔も、近藤という姓の殿様も、
大商人も、そして豪農も聞いた事がない。 

日本一を誇った加東郡の近藤家
そこで近年になって考えついたのは、市川よりもう一つ東よりの水域、つ
まり加古川の、いまの小野市市場村というところにあって、幕末に栄えた
近藤亀蔵(息子は文蔵)家である。
徳川後期に上梓された長者番付によれば、出羽酒田の本間家四十五万
両に対して播州加東の近藤家六十万両となってい、当時、名実ともに
本一の銀貸しは近藤であった。
この近藤は、東に淀川の改修工事を請け負い,西に四国丸亀藩へ多額
の大名貸しを行い、一説によれば九州辺りの大名にまで金を貸していた
という。

近藤への名字帯刀お許しは、地元の小野一柳藩は当然のこと、姫路藩
竜野藩、丸亀藩のみならず、幕府大目付からも日本全国に通用する墨
付きを頂いていたそうである。
加西・加東・多可3郡に亙って数千町歩の新田を開発し、丹波柏原から
播磨高砂港に至るまで、加古川流域の産米はほぼすべて近藤が押さえ
ていたとうから、その近藤がちょっと足を伸ばして隣の市川流域の福本藩
年貢米も扱った、と考えても不思議ではなく、その回米始末帳なるものが
旧福本藩御用の川口屋に、今日まで残っていても奇異でない。

念のため、阪大経済学部に寄託されている、二千通に及ぶ旧近藤家
文書」の内容をあたってみた。すると福本藩年貢米取り扱いに関する記
録はなかったものの、同藩に関連する別の二つの記録を発見した。
 
万延元年(近藤文蔵の代)福本藩より知行壱拾伍人扶持給与
市川筋掘削工事文久三年近藤文蔵円山川市川の水源を連
絡して舟行の路を開き、我が国交通運輸上大捷路を開通する
計画を立て、先ず市川筋の掘削工事に着手し、首として粟賀
及び飾磨の両方面より水路掘削を始めしが----灌漑その他で
苦情百出 遂に計画を放棄工事中止云々
 
これだけ見ればもう、川口屋の旧記録にある「近藤様」が、小野市場村の
旧「一柳藩」の近藤家であることは間違いない。貧乏に喘いでいた福本
藩池田家が、入ってくるであろう毎年の年貢米を担保にして近藤家から
借金し、そのお礼に近藤文蔵を士分に取り立てるという証文ともに、入っ
てきた福本藩の年貢米は、右から左へと川口屋の舟便で、近藤家の、
高砂港か、大阪堂島辺りの倉庫に運んだものであろう。
ということになると、わが川口屋は、さしずめ近藤家の市川流域における
代理店だった、というのが真相ではなかろうか。もともと少々の農産物
以外にはみるべき諸式物産とてない福本藩で、いかにわが川口屋に才
覚があろうと、ない品物の売買ができるわけでない。  
それが、日本一の近藤の代理店ともなれば、おこぼれに預かるだけで、
もう、一万石の貧乏殿様から名字帯刀お許しをいただける、という仕掛け
になるらしい。
播磨の市川は、但馬との国境、いまの生野町黒川ダム付近に源を発し、
南流して瀬戸内の飾磨港にそそぐ。但馬の円山川は、同じく生野町円山
に発して反対に北流し、城崎沖の日本海に注ぐ。生野の黒川村と円山
村は緯度において同じ、ただ東西に2キロメートル開いているだけである。
この間を繋いで舟航すれば、瀬戸内の荷物が馬関(下関)を回らずに日
本海へ送れる。 航路短縮のため、徳川時代には何度かこの間を繋ぐ計
画があったが、結局は成功しなかった。  現在考えると、とても出来そ
うにない荒唐無稽の計画に見えるが、加東郡市場村の近藤家は、淀川
改修の元請けとしての実績もあり、地元の加古川でも、播州灘の高砂
港から、アユの名所闘竜灘の岩盤をクリアして、遥かに溯って丹波国氷上
郡まで舟航させた、当時のわが国河川交通の超エキスパート。
市川・円山川を繋ぐ壮大な計画も、あるていど目算あってのことだったに
違いない。

といっても、加古川中流の市場村に拠を構える天下の大富豪近藤文蔵
が、播磨と但馬の国境である福本藩領と生野銀山にまたがる市川の上
流を、そう何度も自分で実地検分したり、業務打ち合わせに訪れたりす
る暇はないだろう。
電話やタクシーで直接連絡できる時代ではないし、しかもこれだけの大
事業ともなれば当然のこと、地元の市川流域で、すべてを取り仕切り、
福本藩庁や地権者・労務者などと交渉する代理人が必要になる。  

回米輸送のみならず、こうした近藤家本来の土木事業もふくめて、一切
合切の市川流域の業務を、わが川口屋が代行していた、と、じゅうぶん
考えられる。
さらに、市川と円山川を繋ぐような、いわば壮大な土木工事を誰が言い
出し、だれがプロモートしたか。 土地勘からしても、利害から言っても、
それは福本藩側の発案である可能性が大きい。
なにしろ、たかが一万石の貧乏藩、もしこの案が実現すれば、年貢米
の収入よりも、藩財政にもっと寄与する。
さいわい親しくしている近藤は天下に名を轟かす大土木業者だ。話を
持ち込んで、うまくいけば濡れ手で泡、と福本藩が考えそうなことであ
る。
あるいは、わが川口屋がたきつけたかも知れない。

別の話になるがここに一つ、まことに不思議な符合がある。  
市川掘削工事に乗り出した近藤文蔵の本拠は、現在の小野市市場町
であるが、ここの地名はもと太郎太夫村といった。

 「中古戦国時代に上市場に太郎太夫なる人居住せり。
 公共心厚く義侠的人物にして夙に部落開発に尽くせり。今の
 下市場は当時尚未開の荒地なりしかば、太郎太夫率先村人
 を督励し之が開墾に当たれり。(中略)尊敬敬慕し、太郎太夫
 を村名となすに至れり」 

という記録が、加古川流域の小野市に存在し、その子孫、次郎太夫なる
人が近年まで実在したらしい。  

それとそっくり同じ話が市川流域にもある。屋形に住んでいた太郎太夫が
福本藩分家の、いまの市川町屋形地区を統べていたというのである。 
加古川と市川は、播磨の国の真中どころを流れる、いわば隣同士の川で、
小野市も市川町もどちらも川の中流に位置する。

大化改新のころ、この地を統べ、その後650年間、代々太郎太夫を襲名、
荒蕪地原野を開拓して農耕を勧め、城砦を築いて他からの侵入を防いで
いたが、鎌倉末期に武家に統治権を奪われた。しかし長い間の徳政は、
いまなお残る太郎太夫という山の名と小字名、およびその遺跡に偲ばれ、
太郎太夫、次郎太夫の名は元文4年(1739)の石神神社拝殿棟札に残
っている。 そして屋形の村名の起源は、太郎太夫のお屋形である云々。

という話を、初代市川町長後藤丹次氏が、遺著「ふるさと屋形の歴史」
記されている。 
 
偶然の符合にしては話が合いすぎる。 加東郡市場村の近藤が往昔、
神崎郡屋形村まで開拓の手を伸ばし、それを知っていた後世の子孫、
文蔵が、維新のころにいたってなお、先祖に関係がある屋形村に関与し
たく、福本藩に特別の肩入れしたのではなかろうか。
 
念のために言えば、福本一万石の殿様も、実際ふところへ入るのが一
万石ではない。 
草高(くさだか)といって、支配する領地で産出する全部の米の収穫量
が一万石あるだけで、その収穫量の中から、4公6民とか5公5民とか
いって、百姓と殿様の間で折半した、その半分を殿様が貰うわけである。

一般に、池田氏のような外様大名は収奪が激しく、仮に6公4民としても
福本の殿様側の取り分は、屋形と吉富の両分家を併せてせいぜいが6
000石。  そのなかから藩士に扶持米を支給する。当然のことその扶
持米を藩士や家族が食べる。  
となると、福本一万石の実収穫米のうち、他所へ売れる米など、おそらく
2000石もなかったであろう。
しかし藩にもお金で支払うべき行政費が要るから、いくらかは売って換金
しなければならない。   
その換金米を近藤が買う。貧乏藩のことだから、おそらく先がねを貰って
いただろう。 収穫がすみ、年貢米が藩倉庫へ入れば、右から左に近藤が
取り上げる。 そして市川の高瀬舟で飾磨津ヘ送る。

おそらく米は、藩の外貿港的存在である屋形村または福渡村のわが川
口屋の倉庫に入れ、まあ一ヶ月か二ヶ月の間には、倉が空っぽになるま
で出荷してしまう。   
こうしたばあいの倉庫業と高瀬舟による回漕が、わが川口屋の家業であ
ったろう。
こう考えると、筆者の祖母がむかし言っていた話と一致する。

「毎年、ある季節がくると八棟の蔵が一杯になり、それがあるシーズンには
すべて出ていって空になる。いまでこそ浅瀬ばかりで想像もつかぬが、昔
は小さな舟が米を積んで前を流れる市川を下っていった」

と、いうのが祖母の回想である。 高瀬舟というのは、いわば笹舟で、5石
か、せいぜい10石程度の米しか乗せられない。かりに米5石乗せたとす
ると、俵にして12俵になる。それでも陸路荷車で飾磨津へ運ぶよりは、だ
いぶ効率がいい。 江戸期の荷車などは、1台でせいぜい3俵運ぶのが、
せい一杯だったから。

それが或る年、川口屋の蔵から荷物が出ていったまま、ついにかえって来
なかった。

「空っぽになった蔵の中の羽目板には、藁さし一文銭の銭型がこびりつい
ていて、それを、もみじのような手でなぞった記憶がある」

と、祖母は言う。
それからいくばくもなく、並んでいた蔵が壊され、跡に残ったのだだっ広い
更地に、小さな藁屋根の建物が、あちらにぽつり、こちらにぽつりと残るだ
けになった。


(旧川口屋跡  中央の建物は厩(うまや)だったという。 
手前の広い空き地に、むかしよく旅芝居の小屋掛けが
立った。 にわか雨が降ると観衆が大挙して軒先に入っ
てきたし、トイレ借りの客にも困ったが、最後の大旦那
襄太郎は愚痴一つこぼさなかった。) 

        
川口屋没落の原因は、維新になって福本の殿様が居なくなり、藩札の交
換を求めた人々が、まず最初の保証人である川口屋に押しかけ、それを
決済したからであるという。  支払いきれなかった分は、二番目に保証
した福本村の備前屋金兵衛が支払い、すべてが支払い終わった時点で
も、なお同家の資産は半分残り、それで備前屋こと鵜野金平家は、いま
なお続いている、という。真偽のほどは知らない。

明治新政府は流通中の藩札をすべて太政官の新紙幣と交換したことに
なっている。 天保以後発行の藩札は、たしかにすべて新紙幣と交換され
たが、それより前、つまり文政以前のものについては交換されず終いだ
ったことが公式資料にも残っている。
川口屋が、わが名義の文政五年藩札を自力で交換したことは間違いない
だろう。なにしろ肝心の殿様が、新政府の命令とはいえ、尻に帆を架けて
東京へ逃げてしまったのだから藩札を手にしたおおぜいの百姓たちに家
まで押しかけられたら、交換に応ずるしかない。 

もっともその殿様池田徳潤侯も、正五位男爵を貰ったまではいいが、所帯
を持ち切れず、おりから新政府が30万石以上の旧大々名藩に、各藩に
つき二人ずつ青年を欧米留学に派遣する制度を打ち出したのに便乗して、
福本藩は、じつは鳥取藩の一部でした」と、変更を申し出、自らは鳥取藩
大参事という肩書きに換わり、鳥取藩砲方というふれ込みの原六郎青年と
ともに、旧鳥取藩32万石からの推薦という役得で、さっさと欧州留学に出
発してしまった。   
もちろん、男爵の身分もふいである。 ふいになった男爵の身分が残念とて、
旧福本藩士たちは、徳潤侯の長男池田譲次砲兵大尉を擁して、大正に至
るも執拗に「旧藩主復爵運動」を続けたが、徒労に終わった。

逃げた殿様を慕う旧藩士の心根はいじらしいが、それはかのナポレオン
戦争の終わりに、ナポレオンに軟禁されたのをいいことにしてロアールの
城で放蕩三昧だったスペイン皇太子フェルナンドに、同情以上の思いを寄
せ、加うるに「神と祖国と王」の幻想絶ちがたく、帰国復位を熱望し、その
結果帰国できた極道者の専制フェルナンド新王にいたく煮え湯を飲まされ
たスペインの貴族連中、のみならず哀れなまでに王様好きだったスペイン
人民たちの愚昧な行動にも似ている。
スペインの王様好きはいまだに続いていて、いったん血を流して得た共和
国も、フランコ将軍によってもとに返され、あるかなきかの王政は21世紀
まで続きそうである。

みるべき殖産振興も企てず、王の庇護に寄生して栄耀していただけのス
ペイン貴族と同じように、のうのうと侍稼業を楽しんでいたわが旧福本藩
士たちも、明治が遠くなった後なお、俸禄を受けた旧藩主に愛情を捧げ
続けたのである。
第二次大戦後に彼らが出版した旧福本藩史には、侍たちの輝かしいかっ
ての身分を追憶する記事はあるものの、旧藩時代の農民の生活や、藩の
生産経済、流通などに関する記事は皆無に近い。
立藩以来最大の経済危機に直面し、当時としては珍しく重要な行政行為
だっと考えられる藩札発行について、半句の言及もない。

そうした不労特権武士の後裔たちが出版した旧藩史であるから川口屋の
藩札償還などは記憶にもないようだ。
旧藩の財政危機を救った丸尾太右衛門朝定の名もまた旧藩士リストに
記載されずに終わった。   
彼ら侍たちにとって川口屋は、所詮成り上がり町人、武士の名誉の外に
あったのだろう。   
 

ところがここに珍しくもひとつだけ、福本藩士丸尾なるものが出てくる本が
ある。 「1800年中治家の歩み加都郷」 というのがそれである。              
      
文政五年に藩札を発行し、同六年に名字帯刀を許されたときの川口屋
当主は、福渡村の吉兵衛こと第八代丸尾太右衛門朝定である。その
後を継いで9代太右衛門を名乗った長男の太治平朝孝は、のち別家し
て別家初代を名乗り、かれの弟の浅七が10代太右衛門を襲名する。
それゆえ、既述資料のとおり、9代も10代も太右衛門の名のもと、それ
ぞれ藩侯から小姓格に取り立てられて居る。

 

この10代浅七の妻多津(たず)なるものが、神功皇后の実家と伝えら
れる 息長宿弥(おきながのすくね)王家の第50代、または中治院家第
20代を名乗る但馬加都村(いまの朝来郡和田山町竹田字加都)の
治太兵衛嘉貞から嫁いできている。中治院家23代を名乗る中治赳夫
という人が私家版として 1800年の中治家の歩み加都郷」という家史
を上梓している。(加都は、カツ と読む)  そのなかに、

津多   嘉貞の姉広明院の長女
播州之名家丸尾太右衛門に嫁す
同家は金満家で全倉の構造奇で大邸宅広壮、他に類を見ない。
福本藩の家臣の列に入る。(71ページ)

祖父が有志として力を尽くしたる為、祖父の妹婿福本藩士丸尾某
なるもの来たり、頻りに祖父を諌め、聴かずんば妹を離縁すべしな
どと申せしことあり。 (117ページ生野義挙平野国臣の旗揚げ                                         に際し、謀議のために中治宅を貸したとき)

の記載がある。
旧福本藩史には無視された丸尾太右衛門の名が、ここに出てくる。 
しかし、但馬有数の名家を誇ったこの中治院家なるものも、
21代精逸氏が西洋かぶれの風流人で、あらゆる芸事にうつつを抜かし、
先代相続の3000石、金銀30万両、酒造2000石と、48棟あったと伝え
られる家屋敷のすべてをなくし、明治34年に京都ヘ移住。 いまもとの
加都村に残るは分家筋の中治本所家などであり、その本所家から初代
和田山町長中治太郎兵衛氏が出ている。                     
かって中治一統を支配した中治院家の、真偽のほどはともかくとして、
あったと伝えられた膨大な旧資産を、21代精逸氏の放蕩のみでなくした
とは考えられず、父親の20代太兵衛嘉貞が維新動乱に遭遇してなくし
たものの方が多かったのではなかろうか。
 

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