名字帯刀御免3頁目
打掛(うちかけ)3襲(かさね)を持って、但馬の中治院家から、播州の
丸尾家に嫁いできた10代丸尾太右衛門浅七の妻津多(つた)は、彼
女の長男襄太郎がが11才のとき明治維新を迎えた。
いまやすべてが変わったのである。生家の中治院家は明治34年に
甥の精逸が借財のかたに家屋敷すべてを売って京都へ去り、婚家川口
屋丸尾は藩札償還と、数次にわたる火災によって完全に逼塞し終って
いた。
津多は、もと使用人の住居であったと伝えられる小さな、いまの川口屋
の納戸で、ひっそりと彼女の80年の生涯を終えた。ときすでに但馬の
故郷に生家はなく、婚家の亭主浅七もずっと以前にみまかっていた。
人も羨む栄耀に育ち、幸せに嫁いで、ひとたびは但・播二国の名家の
深窓に生きた 津多という女性は、維新と称する男たちの争いの波間
に翻弄され続けて、その儚い一生をいまの市川町神崎の小さな農家で
終わったのである。
津多が亡くなったその日は、ちょうど明治大帝ご葬儀の日であったと、
94才でいまなお美しく存命中の孫の千代栄が、彼女の小学校一年生
の日の記憶を語る。 千代栄は、津多の長男襄太郎の娘で、いま神戸
で華道清心流の家元を継いでいる。
ここで一つ断っておきたいことがある、中治院家没落のその後について
である。
院家(息長家第三十一代加都郷地頭茨垣入道貞任なるものが広大な
観喜院を建立し、その院内に居住[延久四年死去]したが、その系統を
院家とよんだ)の先祖は、人皇第九代開化天皇の末裔息長(おきなが)
王家、という古い伝承がある。(図は観喜院を中心とした上古加都郷の古地図という)
史実として信憑性があるのは、織田信長の将明智光秀に追われ自刃し
た丹波八上城主波多野秀治の、弟秀尚が但馬加都村に逃れて中治家
を継ぎ、息長宿禰王42代こと中治院家第12代太兵衛嘉秀を名乗り、
遺品として乗馬の鞍と鐙(あぶみ)が残っているという話である。
そうした名家の21代精逸氏が家財を蕩尽してしまった、とは言うものの、
この風流人,、ただの遊冶郎ではなかった。県立豊岡師範学校第一期の
卒業生で、伊由校および加都小学校長を務めたのち、学区取締を命ぜ
られ、明治初期の教育に力を尽くした。
欧米文化の輸入に努め、西洋果樹野菜の移植にも多額の金を費やすか
たわら、和歌、謡曲、写真術、書画道、茶華道、弓術にいたるまで、あら
ゆる遊びの道を極めた、いわゆる数寄者であった。
天母教の開教と、台湾随一の高級住宅地「天母」
こうした優性遺伝をかさねた名家の後裔は、そうむざむざ市井に埋没し
ない。
精逸の息子、院家22代稔郎は朝来郡竹田小学校訓導ののち、明治3
5年叔父西山敏陸軍中佐を頼り渡台。 生野義挙援助の縁による沢宣嘉
子爵の口利きで、神道13派の扶桑教管長壬生伯爵の援助を得て、
台湾人教化のため、扶桑教の一派
「天母(てんも)教」 を台北に
開教し、自ら 天母教教祖権大教正 を名乗った。天照大神と中国の
媽祖を合祀した天母教は、台湾総督府の応援もあって順調に発展し、昭
和8年には、台北市北郊士林の山峡9万坪に本部および神殿を移転、
併せて同地に温泉付き大高級住宅地を建設した。
「媽祖(まそ)」は中国の女性の神様で、一説にはマリア様の中国化した
ものともいわれているが、明朝のころ福建省甫田附近の農家に生まれ、
実在した女性らしい。
中国本土のみならず、東南アジア一帯の華僑の間で普遍的に尊崇され、
祭られている。
生誕地の甫田近郊には立派な廟があり、世界中から参詣客が来る。
わが天母教 教祖中治稔郎氏もまた、開教のときはそこへ詣で、ご神体
を分けて貰って帰ったと伝えられている。
甫田は、台湾の真西、福建省福州から南に向かって2時間ほど、立派な
高速道路の途中にあり、いまは台湾からのケミカルシューズ工場群が、
道路の両脇に、延々と近代的高層建築を連ね、さながら西欧都市の様
相を呈している。 高速道路脇に競合して営業するたくさんのガソリンス
タンドは、派手なネオンサイン装飾で飾り立てられ、夜になるとキャバレ
ー街に見紛う。 この特殊な景観と、古風な「媽祖」の故郷との対照が面
白い。
扶桑教の富士山こと天照大神と、中国でもっともポピュラーな神様「媽祖」
と、二つ併せて祀ったわが天母教が、戦前の台湾で、新興宗教として大
当たりしたのは、土地柄として当然といえば当然のことかも知れない。
しかし終戦でそのすべてを放棄、こころならずも中治一家は日本へ帰る運
命となる。
しかし天母教本部として開いた幽邃の地は、台湾にやってきたアメリカ進
駐軍家族たちに認められ、外人のみならず、台湾政財界の名士たちが住
む台湾最高級の住宅地に変貌し、もとの士林街三角甫の地名も改められ
て天母(てんも)となり、天母公園、天母温泉とともに今日に至っている。
筆者がかって台湾で事業をしていたころ、現地法人の代表者たちが、住
みたいところとして先ず第一に「天母(テンモ)」の名を挙げていた。いわば
それは、関西の芦屋、東京の田園調布のようなイメージの地であった。
一風変わったこの「天母」という地名の謂れをたずねたが、当時のわが現
地法人社員のなかには、知る者はいなかった。
異国には不思議な地名があるものだなぁ、たぶん中国風だろう、というの
が、そのころの筆者の感懐であって、まさかそれが日本の、しかもわが縁
故に繋がるひとの命名とは知る由もなかった。
手元の台湾観光案内をみると、台北市北郊地図の中に、故宮博物館と
陽明山の中間どころ西よりに、天母公園というバス停のしるしがついて
いる。
いまあらためて台湾yahoo(雅虎)で
http://www.cccnet.com.tw/chris/temu1.htm を呼ぶと、
天母地名的淵源。日拠時期、当地的神棍勾結了日本神棍斂財、謀設神
壇、於是塔蓋了一門小廟、供奉他門所謂的天媽、給人膜拝、日本人因
為不慣”天媽”的”媽”字、乃改称為天母。此廟後来被斥毀。 従前有一
家日本人経営的天母温泉。近年来天母已経脱変成高級住宅区高楼櫛
比、今之視昔、蒼海桑田、令人嘘乎!
天母。今中山北路7段底天母公車站一帯。民42年、日人中治稔郎在
此地興建天母宮祀日本天母波婆神等称為天母教、内面設有温泉、称
為天母温泉――未幾、就有「天母」地名之称。台湾光復後、神社斥除、
所祀神像移祀天玉宮
の記事があリ、わが中治稔郎氏の名も記されていた。
天母波婆神とは天照大神のこと。
内容を和訳すると、「いまこれを昔に見れば、蒼い海変じて桑畠となり、
人をして嘘かと思わしめるなり」
となっているが、まさにその通りである。
というようなことで、わが中治院家は零落の後、なお台湾に、「天母」とい
う花を咲かせていたのである。 立派というべきではないか。
今に残る、台湾で撮った明治末年ごろと推定される家族写真によれば、
伊達男中治精逸は縁なし眼鏡にタキシード風、和服姿の夫人は伝えら
れる通り絶世の美女である。
そしてそれとは別に、天母教教祖権大教正中治稔郎の、威儀を正した
衣冠束帯姿の写真も残っている。
明治維新と川口屋の没落
さて、福本藩銀貸川口屋太右衛門家が、明治維新になぜ没落したの
か。 伝えられる通り、福本藩々札の交換に起因するのだろうか。その
可能性もじゅうぶん考えられる、今に残る川口屋保管の、旧藩札の束
がそれを証明する。 しかしたぶん、理由はそれだけではないだろう。
万延元年福本藩主から知行十五人扶持の墨付きをもらい、さらに文久
三年には、市川と円山川を福本藩領で繋ぐ工事に乗り出した西国一の
銀貸(ぎんがし)近藤文蔵が、大名貸しの回収不能によって、明治十年
には暖簾を下ろしている。
記録によれば、近藤の最後のあがきは、播州竜野藩の興浜造成資金
の回収不能であった。
返金をせまる近藤に対して旧竜野藩は、代替として、造岸中の石材を
持ち帰ることを示唆した。
石材引き取りのため廻漕した近藤の箱船数十隻と、興浜の農漁民
に争いが起き、姫路県の訴訟に持ち込まれ、それはとりあえず近藤の
勝訴に終わった。
が、しかし、あちこちの大名貸しが回収不能になっていた近藤は、その
ときすでに満身創痍であった。
「市場の近藤 阿弥陀か釈迦か御前通れば後光がさす」 と、里謡に
唄われ、岩倉新政府の銀主方とまで噂された近藤も、維新動乱には
勝てず、明治10年には完全に暖簾を下ろしていた。
そうした危急の折り、大富豪近藤の市川筋の代理店であった、いわば
微々たる川口屋など何条たまるべき、まさに「一木支え難し大廈の傾
くを」 である。
藩札の回収があろうがなかろが、もはや川口屋の事業そのものに終わ
りが来ていたと、考えるべき時代であった。
応神天皇以来の中治院家が消えた。西国一の近藤文蔵が暖簾を下ろ
した。
福本藩は解体し、そのあたり一帯は、いっとき遠く日本海にある「鳥取
県」の一部として組みこまれ、福本藩を挟んだ南北二つの分家、旗本
池田槍三郎の屋形村三千石と、同じく池田貞之助の采地吉富村一千
石は、すぐ北隣りの銀山とともに「生野県」になった。
まさにすべてが疾風怒濤の変革を迎えたのである。
そんな時代に、いつどこから来て、なぜ栄えたか、実のところそれすら
はっきり判らないわが川口屋が、暖簾を下ろすのに何の不思議があろ
う。
明暗を分けた明治維新の人々
(大富豪原六郎および男爵北垣国道 と 朝来護国神社)
しかし反対に、維新を踏み台にのし上がった人も、福本藩関係者の中
にはいくらか居る。
その一人がすでに述べた原六郎こと進藤俊三郎である。朝来町佐中
の豪農の6男として生まれた進藤は、若くして尊攘運動に加わり、
平野国臣と親交を結び、維新に先駈けて蜂起し失敗した生野義挙に参
加(このとき弱冠21才)、器械買入方(武器調達係)を勤め、京都まで
出張して買い集めた武器を大八車に積み、夜陰にまぎれて持ち帰って
いる。
敗れたのち幸いにも幕府の追捕を逃れ、長州藩兵に加わって再び討幕
に参加した、というちゃきちゃきの農兵志士である。
つぎに彼の名が出るのは、ご一新の直後、旧鳥取池田藩が派遣した
海外留学生二人のうちの一人、つまり旧鳥取藩士としてである。
旧藩を捨て、親元鳥取藩を頼って海外行きを選んだ旧福本藩主池田徳
潤とともに、不思議なことに進藤こと原は、有為の青年として鳥取藩か
ら推薦され英国に留学している。
洋行した旧藩主 池田徳潤青年の名はこれ以後、復爵運動の請願書に
はともかく、社会的にはほぼ消え去り、われわれの調べ得るかぎりでは、
明治17年兵庫県少書記官、同19年長崎県書記官転任の、兵庫県会
記録で終る。 晩年は福本へ帰り、昭和初年まで生きたと伝えられる。
だが、もう一人の方の進藤青年は名を原六郎と改め、英国に留学して
銀行論を学び、明治10年帰国、翌年第百銀行を創立し頭取、6年後に
は横浜正金銀行頭取に推された。
その間、日銀および台湾、勧業,興業など各銀行の創立に参加し、山陽
鉄道(いまのJR山陽本線)の筆頭株主となり、東洋汽船、横浜ドック、
帝国ホテルの設立に名を連ね、渋沢、安田、大倉、古河とともに、明治
実業界の5人男と、もて囃やされた。 (いまのJR播但線、福知山線、
阪神電鉄なども、かれが大きく関与して設立された。)
但馬の山あいに生まれた農家の子弟としては、まことに運のいい、そし
て華やかな出世男である。 よほど才覚があったのだろう。
長命をかさねて昭和8年まで生きた。
かれの生誕地旧山口村佐中は、播但線新井駅から西へ神子畑川を溯
って数キロメートルの辺鄙な山中にある。
生野義挙に敗れた進藤青年こと原六郎は、おそらく勝手知ったわが庭、
神子畑川の支流佐中川の河川敷を辿って、州留ケ峰を尾根越えに、さ
らに明延鉱山の北東をかすめて、大屋市場から関宮への猟師みちを縦
断、そこから因州に逃れ、さらに遠く長州へと走ったと推定される。
他国から生野入りした脱藩浪人組の生野義挙同志には、土地勘がな
く、たいてい北と南と東に向かって逃げたが、北は豊岡藩、東は出石藩
それに南は姫路藩に押さえられて、ほとんどがあえない最後を遂げてし
まった。
うまく逃げおほせるには、手薄の西北へ落ちる、その道を、よそ者の志
士たちは知らなかったのではなかろうか。(非業に死んだ志士たち32
人を祀った神社がある。朝来町護国神社といい、いまなお土地の人々
に尊崇されている。)
もっとも、戦が始まる前夜、いちばん先にずらかった総帥澤主水正
(さわ もんどのしょう)宣嘉卿とその取り巻きたちは、誰に教わったのか、
神子畑(みこはた)川を西行して福地川から揖保川へ出、倉敷経由四
国に、うまく脱出している。
四国へ行ったのは、お側役の二人が四国浪人だったからであろう。
澤宣嘉卿は、日本史上有名な「七卿長州落ち」のなかの一人で、長州
三田尻に到着したとき、三条実美卿を生野義挙の総帥に仰ぐべく、頼み
に来た平野国臣に、三条卿の代りとして担がれたのであった。
維新後は子爵に叙せられた。
21歳の進藤青年(のちの原六郎)は、若さと土地勘にまかせて佐中
川から、あるかなきかの林道をひた走りに走って因州ヘ出、それが成
功して長州軍に加わったと考えていい。 ときは文久3年11月18日
(この日はすでに資料によって特定されている)の午後。
その同じ日に、一足先にほぼ同じ谷川の道を駆け抜けたもう一人の青
年がいた。 (もしその日に、二人を見かけた猟師でも居れば、なんとま
ぁ今日は不思議な日だと思ったに違いない。)
北垣晋太郎という義挙の同志で、進藤の佐中村(現朝来郡朝来町)の、
すぐ北隣に位置する建屋村(現養父郡養父町)の、同じく豪農の倅であ
った。
福本藩に直接関係がないのでくわしいことは省くが、北垣は生家の村
を北流する建屋川を下って八鹿へ出た。ついで同じく因州に逃れ、戊辰
戦争には鳥取藩士として従軍。
明治になってから官界に入り、出世をかさね、京都府知事、北海道庁
長官、男爵、貴族院議員、後の名は北垣国道である。
(京都の名所インクラインの碑には彼の名が刻まれている。)
革命に明暗はつきものだが、異例の出世をとげた原六郎と北垣国道に
比して、朝来護国神社の32烈士の最後はあまりにも哀れである。
同じく志して生野義挙に参加し、かたや顕官富豪として世にときめき、
かたや山中の祠にひっそりと忘れ祀られるのみ。
数というべきか、運命のしからしむところか、はたまた個々の才覚の結
末であったろうか。
いま試みにインターネットで検索してみるに、東京では原美術館の「秋
の展観」広告があり、北海道開拓歴史博物館に北垣の名が大きく現れ、
そして朝来町ホームページには烈士の名とともに護国神社の写真が
貼り付けられている。 明暗、時を同じくしてインターネット上で見る、
これも時代の流れであろうか。
前にも述べたが、いったいどのような縁で、原六郎こと進藤青年と、池
田徳潤御曹司が一緒に、共に旧鳥取藩籍の官費で、明治になって洋
行留学したか、不思議といえば不思議である。
生野にもっとも近い藩である福本藩は、生野義挙のときに討伐軍を出
している。 つい先ほど戦った敵と味方の青年が、手を取り合って、しか
も鳥取藩からの進貢留学生として洋行したというのは、いっけん奇妙な
ことである。
池田徳潤が鳥取藩から洋行するのは、役得で顔を利かせたのであっ
て、驚くに当たらぬ。
しかし進藤は生野銀山領佐中〔佐嚢〕村の豪農の倅で、福本藩士でも
なければ鳥取藩士でもなかった。(もっとも生野義挙に失敗して逃げた
ときは、いっとき、勤皇方の鳥取藩に匿われた。)
(後註:生野義挙挫折の直後、かれは佐中の生家のすぐ裏にある日蓮
宗寺院に隠れ、追っ手の幕吏を避けて山越えに因州へ逃れ鳥取藩に
匿われた。
のち遠く萩へ走り、原六郎と変名して長州兵に加わり鳥羽伏見の戦に
従軍。 そののち新政府に差し出された因州鳥取藩軍に参加、第一回
天覧観兵式に大隊長として兵の指揮まことに見事なりと絶賛された、
との記録がある。
したがって、かれ原六郎が鳥取藩士になったのは、明治維新以後のこ
とである。
佐中のかれの生家、「千年家」と呼ばれる豪壮な萱葺き屋根は無住の
ままいまに残ってい、辺り一帯からJR新井駅にかけての畳々たる山林
は「日本土地山林」なる原家の会社が経営している。
余談ながら、戦後日本航空会長を務めた故原邦造氏は原六郎の養嗣
子とのこと。)
もう一人、正真正銘 福本藩出身で出世した人がいる。
第二次大戦後の幣原内閣に列し、新憲法制定に関与した法学者松本
丞治博士の父、松本荘一郎は、幼名泰蔵、嘉永元年に福本藩士の
倅として粟賀村に生まれる。
12才で出阪、池内塾を経て箕作麟祥の門に入り、秀才を謳われ、美濃
大垣藩士上田肇の推挙で大垣藩士となり、明治3年米国留学。
土木学を修め、同9年帰朝、政府の道路・鉄道・都市計画などを担任した。
明治21年、わが国初の工学博士となり、26年鉄道庁長官。明治36年
没、 資性恬淡、生活質素を極めた。
福本藩士では海外留学させてもらえず、美濃大垣藩士として洋行し
たと、柳田国男は、息子の松本丞治から聞いたという。柳田と松本
丞治は東大法科で一、二位を争った親友だから、松本の父が洋行の
ため大垣藩士になったという話は信憑性がある。(異説では、金が
無く、明治になってから大垣藩に召し抱えられ、ようやく勉学をつづ
けられたともいう。)
松本丞治の話を信じれば、しからばなぜ、松本が大垣藩士として偽
って(?)なら洋行し得たのだろうか。 当時、各藩選抜の留学
生は、大藩のみに限定されて、福本のような小藩には割り当てがな
かった。しかも本藩鳥取藩の枠はすでに池田徳潤と原六郎の二人
が押さえている。やむを得ず、縁故を頼って大垣藩に名を借りた可
能性もある。
藩侯池田徳潤、原(進藤)、松本と、そのころ旧福本藩近辺の青年
の間で、新政府制度による洋行話が話題になり、よりより謀議され
ていたような気もする。
(明治6年ごろの記録では、海外留学は表向きすべて政府派遣で、
文部省が320人、大蔵省が20数人、あと小人数が各省であった。)
教育投資を怠った川口屋丸尾家
残念ながら、わが川口屋は維新以後、子弟の教育に熱心でなかった。
したがってこれという人材も輩出せず、10代太右衛門浅七の長男、つ
まり11代襄太郎が明治、大正、昭和にかけて、鶴居村会議長を勤め、
地方自治功労者として表彰された程度にとどまる。
それと、ささやかながらわが丸尾でもう一人。丸尾別家三代を名乗る
鉄之助が、明治16年から18年にかけて神西郡選出県会議員を務め
たことがある。
既述のように9代太右衛門浅孝が、別家初代太治平を名乗ったが夭
死。 あとを継いだ別家2代寅蔵朝篤もまた若くして亡くなり、但馬の
中治院家から太兵衛嘉貞の次男 鉄之助を別家3代として迎えた。
わが祖母の記憶では、鉄之助は足が悪く、びっこを引いたが、颯爽とし
た美男子で、旧鶴居村の女性のあこがれのまとであった、という。
丸尾一族大騒ぎのうえ県議選挙に打って出、目出度く当選したが、30
才過ぎにまたしても夭死、まことに残念だったとのこと。
かの詩人サー・バイロン卿が片足を引きずりながら、赤いマントの裏を
ひらめかせてロンドンの街を闊歩し満天下の女性を騒がせた、というよ
うな感じでもあったろうか。
鉄之助が県会議員に打ってで出たのが明治16年。金も要ることだし、
ひょっとしたら川口屋はまだそのころ、完全に逼塞し終わったわけでな
かったかも知れない。 終
中村 健
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