盗まれた月




 リゼット盗賊団は盗賊の集まりである。しかし、彼らにはもう一つの顔がある。盗賊団の上層部のみが知る、もう一つの顔。盗賊団の上層部は全て国王に仕える人間なのである――頭領がリブレス伯爵という国王の配下であるのと同じように。そして、彼らは優秀な武官でもあった。
 彼ら以外に、リゼット盗賊団の頭領がリブレス伯爵である事を知る人物はいない。もともと、リブレス伯爵の「仕事」をサポートするために存在するリゼット盗賊団だが、その仕事に直接関わらない一般の団員達には、知る必要のない事実だからだ。
 長い回廊にカールスの足音だけが響いていた。差し込んでくる月の光りに、銀の髪は静寂に支配された青い世界で一筋の光の線を描く。
 本来ならば女官たちなどの姿があふれているに違いない屋敷内に、今、人の気配はしない。人の一番少ない時間を見計らって、盗賊団の上層部の人間達が屋敷に押し入り、女官たちをさらったのだろう。いや、さらったという表現は正しくない。立ち退いてもらった、と表現する方がむしろ近いのかもしれない。
 カールスは、やがて一つの扉の前で立ち止まった。他の扉に比べ、特別豪華で目をひく扉だ。青い塗装に、ルトア伯爵を示すグリフォンの絵が銀色で描かれている。その扉の中に、この屋敷の主がいるはずだ。カールスは、唇をかみ締め扉に手をかけた。
 少し軋んだ音がして、ゆっくりと扉が開く。おそらく、扉の手入れが行き届いていないのだろう。そういえば、前回ここに訪れたときも、同じように扉の軋んだ音がしたような気がする。もともと、そういう事が気にならないカールスではあるが、今回ばかりは、それが妙に気になる。
 国王に逆らう事は許されていない。だから、今回も逆らいはしない。国王の命令とあらば、何をおいても遂行するつもりだ。カールスは深く息を吸い込み、ポーカーフェイスを装う。
 扉の中に、屋敷の主の姿が見えた。

              
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 リゼット盗賊団のアジトの中が騒がしい。おそらく、大きな仕事があったのだろう。リシャは、その喧騒の中夜空に浮かぶ満月を見上げていた。
――ファーストキスだったのに。
 カールスの髪と同じ、銀の光をたたえる月を見詰めていると、昼間のことを思い出す。リシャは自分の右手をそっと唇にあてた。
 リシャとて、ファーストキスの理想がなかったわけではない。確かに、カールスの整った顔立ちは、リシャじゃなくとも惹かれるものはあるだろうし、正直、彼の顔は好みである。しかし、彼は貴族なのだ。それに、あんなキスは自分の理想ではない。
 リシャは息をつき、前髪をかき乱した。どうして、カールスの事でこんなに悩まないといけないのだ。忘れよう。リシャが立ち上がりかけると、一人の青年の姿が目に飛び込んできた。きょろきょろとあたりを見回しているところをみると、誰かの姿を捜しているに違いない。滅多に姿を現さない頭領の代理となると、いろいろと忙しいのだろう。
 やがて、彼はリシャの姿を見つけ、まっすぐにリシャに向かって歩いてくる。リシャは小首を傾げた。
「リシャ、ここにいたのか」
 長い間探していたのに、と言外でいう青年に、リシャはわずかに肩をすくめて見せた。もしかして、言いつけを破ってリブレスに入り込んだのが彼の耳に入ったのだろうか、と不安になる。
 しかし、彼の表情は怒っているようには見えなかった。かといって、笑っているようにも見えない。表現するとするならば、彼は疲れていた。
「どうかしましたか?チャル様」
「ああ。……ルトアに行ってもらいたい」
 ルトア……その名を知らないわけではない。王都の一角にある大きな屋敷。その主がルトア伯爵なのだ。
「それは、盗みで……ですか?」
「いや、まったくの私事で恐縮なんだが。……カールス……知ってるな?」
 リシャはわずかに警戒する。そんなリシャに、チャルは手を振って引きつった笑みを向けて見せた。
「別にリブレスに手を出した事をどうこう言っているわけではない。リブレス伯爵ではなく、カールスを知っているな、と問うてるんだ」
「はい、知っています」
「ルトアにカールスがいる。……カールスのところへ行ってやってくれないか?」
 チャルに言われて、リシャは不安げに瞳を揺らした。何故、カールスのところへ行かなければならないのか。どうして、チャルが知っているのか。疑問が頭の中を支配する。
「きっと、カールスは苦しんでいる。お前はきっと、あいつの支えになってやれる」
「どうして……私、なんですか?」
 チャルは優しく微笑んだ。
「俺はカールスを昔から知っている。その中で、あいつから近付いていった人間はリシャだけなんだよ」
 リシャは混乱を隠せずに、チャルを見た。チャルの微笑みの中に、小さな憂いが含まれていて、リシャは思わず目を伏せる。
 チャルは――チャルとカールスの関係は知らないが――本当にカールスの事を心配しているのだろう。リシャは困惑した表情で、地面を睨みつけた。リシャの頭上で、チャルのため息のもれる音がする。
「カールスは、リゼットの頭領だ。お前の慕う前頭領の息子でもある。俺は、カールスの補佐にして、監視なんだよ」
「監視?……頭領?」
 驚いて顔を上げるリシャに、チャルは頷きを返して見せた。
 カールスはリゼットの頭領なのだという。そして、チャルはそんなカールスの補佐をしながら、国王の私兵と同じ位の力を持つリゼット盗賊団を統制するカールスが国王に牙をむかないように監視する役目を国王から受けているのだと、チャルは説明した。
「カールスは俺のそんな立場を知っている。だから、本当に辛いとき、あいつは一人で消化しようとする」
「だから、私に?」
「本気だ。カールスは」
 何が、とは言わないが、リシャにもその言葉の意味することがなんとなく理解できる。途端に顔が真っ赤に染まった。
「お前の思う程、器用な人間ではないからな。頼む、行ってくれないか?」
「私には無理です」
 なおも食い下がるリシャに、チャルはすがるような目線を向ける。思わず言葉に詰まったリシャに、チャルはため息をつきながらかぶりを振って見せた。
「あいつは壊れるかもしれない。もともと、不安定なやつだから」
 どこか演技じみたチャルに、しかし、リシャは何も言えなかった。それが、まるっきりの口からでまかせだとは思わなかったからだ。
 リシャは、頭領代理としてのチャルを知っている。彼は、問題ないと感じた事柄に関わる事は滅多にない。チャルがここまでカールスを気にしているという事実だけで、カールスがどこか危険な事に巻き込まれているという事を示していた。
「私が行ってどうにかなる事なのですか?」
「なる」
 チャルは即答した。
「少なくとも、俺が行くよりは支えになってやれる。国王が命じれば、俺はカールスを置いていかなくてはいけないから」
 リシャは再び言葉をなくした。

               
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 カールスはルトアの目の前に立って、息を整えた。ポーカーフェイスは、ルトアを目にした途端に儚くも崩れ去ってしまった。整えようとした息は、再び荒い息にかわる。
「叔父上……」
 カールスはルトアの目の前に膝をついた。その頭を、ルトアが優しく撫でてくれる。随分昔に見た情景だ。こうしていると、昔に戻ったような気がする。
 母を亡くして、忙しい父親にかわってルトアが父親代わりになってくれていた時期がある。恐らく、ルトアは父親の仕事を知っていたのだろう。自分が継ぐこととなった、父親の裏の仕事を。
「君にはいつも辛い思いをさせてしまうね。私も、亡くなった君の両親も、そんな事を望んでいなかったのに」
 ルトアの言葉に、カールスは小さくかぶりを振った。ルトアは、全てを受け入れているようだった。