盗まれた月




 カールスはしばらく黙り込んでいた。ルトアも沈黙を守っている。
「叔父上」
 ようやく、カールスは口を開いて立ち上がった。言葉がわずかに震えている。本当は任務をまっとうなどしたくない。それでも、国王に逆らうわけにはいかないのだ。どんなに優しくて、そして自分にとって大切な人であっても、国王が命じれば、その人物は逆臣となる。
「叔父上、何故……」
 何故、国王に嫌われるような事を?言外で尋ねると、ルトアはわずかに笑った。とても穏やかな笑顔で、逆に泣きたくなってくる。
「君は兄上に似ているね。きっと、多くの矛盾を抱えているのだろう」
 確かに自分は多くの矛盾を抱えている。大切なのに大切な人を傷付けなくてはいけなくて、自分自身の事なのに自由に動けない。どこまで進めば、自分は解放されるのだろう。この混乱した世界から。
 頬を暖かい涙が伝った。
「叔父上、私はあなたを殺したくない」
 それでも、自分の仕事は国王に逆らった逆臣を討つ事なのだ。ルトアが逆臣だと判断されたその瞬間に、カールスは暗殺者となった。
「逃げてくれ、なんて優しい事は言わないでくれよ。君の仕事はそうじゃないだろう?」
 ルトアはそっと手を伸ばし、自らの剣を抜く。呆然とルトアを見詰めるカールスに、ルトアは柔らかい笑顔を向けるとその剣を地面に置いた。
「さあ、私は抵抗はしない」
 だから、剣を抜きなさい、とルトアは優しく諭すように言う。しかし、カールスはただかぶりを振った。
 逃げろ、とは言えない。それは、国王から命じられた事ではないのだから。だから、せめて抵抗はして欲しかった。抵抗せずに殺される事を受け入れないで欲しかった。
「昔話をしようか」
 動けないカールスを見詰めて、ルトアは笑う。死を目前にした人間が作り出す笑顔とは思えない程の優しい笑顔だ。
「初めて会った時、君はまだ四つだったっけ。義姉上が亡くなって、私のところへきたのだったね」
 遠い昔を思い出すように、ルトアは遠くを見詰めた。目の前にいるカールスではなく、遠い過去の情景の中にいる幼いカールスを見詰めているのだろう。
 カールスは、その日の事をよくは覚えていない。母親が死んで、ようやく死の意味を理解していた時で、頭の中が混乱していたのだ。ただ、あの日、自分は泣いていたように思う。大切な人と別れたばかりで、それが辛くて、カールスは泣いていた。
 あの時、慰めてくれたのは目の前にいるルトアだ。泣いているカールスの頭を優しく撫でてくれて、母親の事を忘れなくてもいいのだと教えてくれた。辛い事は忘れなさい、と言う父親ではなく、忘れなくてもいいんだ、という叔父の言葉が嬉しかった。それで、カールスはようやく母親の死を乗り越える事が出来たのだ。
「君がリブレスへ帰ったとき、私は寂しかったんだよ。私はずっと独身を貫いてきたからね」
 自分だってそうだ、とカールスは心の中で呟く。ようやくルトアとの暮らしにも慣れ、それが楽しいと感じた矢先のことだったから、寂しいのは同じであった。だが、父親とようやく一緒に暮らせるのだという期待も大きく、結局すぐにその寂しさもどこかへ消えてなくなってしまった。
「あの日、あの雨の日、私は君を迎えに行った。兄上と約束をして。兄上は、君をリブレスの裏の仕事に関わらせたくないと言ってね。けれど、私が行くよりも前に君は――君は、国王に……」
 ルトアは辛そうに目を伏せた。カールスは、そんなルトアを呆然と見詰める。父親の死は、カールスに新しい世界を与えた。父親の仕事を継ぐのだと言われて、妙に嬉しかった。しかし、それは父親の望んでいた事ではないのだと、ルトアは言う。だったら、自分は何の為に国王の命令に従っているのだろう。
「けれど、覚えておきなさい、カールス。後悔はしてはいけないんだ。過去を振り返って後悔するのだけはしてはいけない。信じる道がないのなら、今は流されてもいい。でも、何か選択を迫られたなら、どちらを選んでも後悔してはいけないよ」
 カールスの心の中を理解したかのように、ルトアは言葉を紡ぐ。
「そしてね、今は選択するときではないよ。君がする事はたった一つ。私を討つ事のみ」
 ルトアはカールスの腰から剣を抜き、カールスの右手にしっかりと握り締めさせる。カールスは自分の右手に目を落として、唇をかみ締めた。
 もう、逃げ道は残されていないのだ。
「私は後悔していない。このような最期を迎えようと、後悔はしない。後悔してしまうと、私は今までの人生を否定してしまう事になるから」
「叔父上。私も後悔はしません」
 それが、散っていく叔父に約束できる最初で最後の事なのだ。結局、カールスは叔父を助ける事はできない。どんな結果が待っていようと、後悔しない事がルトアに対する弔いなのだ。
「ありがとう。――ごめん。結果的に君を置いていく事になってしまって」
 カールスは剣を握り締めなおすと、かぶりを振った。右手の中で、自分の剣が静かにその存在を主張している。剣が討つべき敵を探している。カールスは黙って剣を構えた。
 せめて苦しまないように、一撃でしとめなくてはならない。その先でルトアを待ち受けているのは、カールスが望んで止まなかった一人になる事に怯えなくてもいい世界だ。もう、寂しいと感じる必要はなくなる。
 死は解放なのだから。
 剣先が銀色の弧を描く。赤い鮮血が、あたりに飛び散り、カールスの銀の髪が赤く染まった。
 しばらく、カールスはルトアと呼ばれていたものを見下ろしていたが、やがて踵をかえし部屋の外へと向かった。これ以上、ルトアを見下ろしていたくなどなかったのだ。
 扉を閉めると、涙が溢れて来た。もう何度も人の命を奪ってきたというのに、今更涙が溢れてくるのが不思議で、現実を確かめるようにカールスは両手に目を落とした。両手は真っ赤に染まっている。目が覚めたような気がした。
 自分の心は、あの日――父親が自分を残して死の世界へ行ってしまったあの日から凍り付いていたのかもしれない。父親が笑いながら、遅くなってごめん、と帰ってきてくれるのをずっと待っていたのかもしれない。だから、どんな人間の死を見ても、辛くはなかったのだ。現実から目をそらしていたのだから。
「これが、現実……」
 両手に目を落としたまま、カールスは呟く。そう、これが現実なのだ。ルトアは死んだのだ。その昔、自分にとって大切だった叔父との世界を、自分の手で壊してしまったのだ。
 自分の居場所を見つける事の出来ないまま、自分もこの世から去っていくのだろうか。永遠に、一人のまま――また、置いていかれるのだろうか。

エピローグ


 青い月の光の中に佇む、一人の男性の姿を見つけた。美しい銀色の髪は、今は赤く染まっている。両手に目を落としたまま微動だにしないその顔は、月の光以上に青ざめて見えた。
 リシャはゆっくりと、カールスに歩み寄る。生気の感じられないカールスに恐怖を覚えた。
――あいつは壊れるかもしれない。もともと、不安定なやつだから。
 そうリシャに言ったのはチャルだ。その言葉と、今のカールスの姿が重なって、否が応でも不安をあおる。カールスは、死にたがっているのだろうか。死に救いを求めているのではないだろうか。
「近付かないでくれ」
 小さな呟きが、リシャのもとに届く。壊れそうな程儚い呟きに、リシャは思わず足を止めた。
「君に、今の私の姿を見てもらいたくはない」
 リシャは再び歩みを進めた。カールスが驚いたように顔を上げる。
「近付かないで欲しいんだ」
「後悔しているのか?」
 リシャはカールスの横に並んで、カールスを見上げた。そのまま、血にまみれたカールスの両手をそっと握り締めてやる。カールスは戸惑ったようにリシャを見詰め、両手を振りほどこうともがいたが、やがてそっと息をついた。
「後悔はしない。もう、後悔はしないんだ。後戻りは出来ないのだから」
「だったら、いい」
 リシャの一言に、カールスは小さく頷いた。カールスは、もう両手を振りほどこうとはしない。むしろ、一層強くリシャの両手を握り締めてきた。
 カールスはリシャに縋ろうとしているのだ。現実を受け入れる為に。リシャは心の中で安堵のため息をついた。死を望んでいるわけではないようだ。必死に生にしがみ付こうとしている。
 ルトアとカールスの関係を、リシャはまだ知らなかった。しかし、カールスにとって大切な人だったというのは、今のカールスを見ていればわかる。そして、国王が命じた仕事というのも――チャルは説明しなかったが――わかってしまった。
 一体、どれぐらい昔からカールスは一人で苦しんでいたのだろう。たった一人の親友であるチャルにすら、縋りつくことは出来ないで。隣に立つカールスは、今にも折れてしまいそうな程脆くて、リシャはカールスから目を背けた。ただ、つないだ両手からカールスの体温を感じる。
「お前は生きているんだな」
 リシャは思わず呟いた。
「死んだら、私はお前と一生会えなくなる」
「それは、嫌だな……」
 カールスの言葉に、リシャは赤面した。今、自分が口に出した事は、まるで告白のようじゃないか。恐る恐るカールスを見上げると、カールスはわずかに微笑んでいる。それで、リシャはなんとなく安心してしまった。
 好きになったつもりはない。気にしているのは、もっと別の次元で、決して恋心が芽生えた、というような単純な理由ではないはずだ。それでも、カールスが沈んでいるよりも、嬉しそうに笑ってくれている方が断然いい。
「私もお前と会えなくなるのは嫌だ」
 チャルがカールスの元を去った後も、カールスには笑っていてもらいたいから。チャルの代わりになれるとは思えないが、少しでもカールスの支えにはなりたいと思うから。
 どうして、そんな事を思うのだろう。リシャは自問する。答えは出てこない。カールスと共にいれば、いずれ、その疑問の答えはわかるのだろうか。  リシャの言葉を聞いてカールスは嬉しそうに微笑んでいる。もしかすると……
「お前から、盗んでいないからな」
自覚のないまま、好きになりはじめているのかもしれない。
「もう、盗まれている」
 カールスが小さく呟いた。しかし、その言葉は隣にいたリシャにも届かない程、小さな呟きだったらしい。聞き返すリシャに、しかしカールスはかぶりを振って、リシャに一歩近付いた。そのまま、両手を解き背中からリシャを抱きしめる。
「もう暫く、ここに居てくれないか?その後は、好きにしていいから」
 ふいに抱きしめられて、リシャはたじろいだ。しかし、カールスの力は強く、身動きすら出来ない。リシャはため息をついて、カールスの返り血で赤く染まった前髪を見上げた。
「カールスの気が済むまで、ここに居てやる……」
 カールスの腕の中で、リシャはそっと瞳を閉じた。