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ガシャン、と大きな音を立てて、書棚から置時計が滑り落ちた。それがきっかけだったように、今度はバサバサと本の束が落ちてくる。リシャはなす術もなく、本や時計の落ちる様を情けない顔で見つめていた。
「また――派手にやったね」
含んだ笑いと主に、リシャの背中に声がかけられる。誰の声だか、わかってはいたが、確認の意味も込めてリシャはため息まじりに顔だけで声の主を振り返った。
「悪かった。落とすつもりじゃ……壊すつもりじゃなかった」
カールスはちらりと時計に目を向けて、ゆるくかぶりを降る。それでも、困惑と恐縮の入り混じった表情を、リシャが浮かべていると、カールスはそっとリシャの背中に抱きついてきた。
リシャは突然のカールスの行動に、一瞬だけ体をすくめる。けれど、カールスの腕の中は暖かくて、やがて、リシャはカールスのなすがまま、カールスの腕に体を預け、瞳を閉じた。
カールスは度々突然リシャを抱きしめた。それは、恋というよりも、幼い子供が大切なものがその手の中にあるのだと確認するように、リシャを抱きしめるのだ。最初こそ驚いたものの、今ではすっかり慣れてしまったのか、カールスのこういった行動は嫌ではない。それどころか、その暖かさが心地よく感じる位だ。
きっと、自分はカールスを意識している。うっすらとした自覚はある。それでも、リシャはどうしてもカールスの「好きだよ」の言葉に同じ言葉は返せなかった。それが、カールスに対する感情なのか、それとも別の誰かに対する感情なのか、それがリシャには判断がつかないからだ。その判断がつかない以上、カールスに対する感情の全てが錯覚ではないと、言い切る事は出来ないのだから。
それに、もしも、本当にカールスに恋をしてしまったら、引き返せなくなる。これから、カールスといつまでも一緒に居れるとは限らないのだ。だから、リシャは、カールスは大切な友人なのだと、言い聞かせる。そうすれば、いつか彼が自分を忘れて、どこかへ行ってしまっても、きっと大丈夫。楽しい思い出だけが、心の中に残るだろう。
「リシャ、私は君の事が好きだよ」
「知ってる」
だから、リシャはカールスの言葉に、いつもと同じ返事を返す。それ以上
、自分の気持ちが暴走しないように慎重に。
リシャの頭上で、カールスが苦笑したのを感じた。彼は答えを望んでいるのだろうか。
「もう、あの時計は駄目だな……」
リシャが何も言わないからか、ややあって、カールスがぽそりと呟いた。その声に、リシャは自分が落とした時計に目を向ける。時計は無残にも、ばらばらの状態で床に転がっていた。バネやネジが広い範囲にわたって転がっている。
リシャは身をよじってカールスの腕から逃れると、壊れた時計に歩み寄った。
「ごめん……」
そっと時計に手を伸ばし、カールスに顔を向ける。カールスは柔らかい笑みを浮かべて、大丈夫だよ、といった。大丈夫、高価なものではないから、と。
カールスの言葉にリシャは思わず俯いた。カールスの言葉が嘘なのだとわかっていたからだ。
確かに伯爵であるというのに、カールスの持ち物に高価なものは少ない。しかし、この時計だけは素人目に見ても、高価な代物としか映らなかった。それに、きっと、この時計はカールスにとって特別なものだったに違いない。とても大切にしていたはずなのだ。
「本当に、リシャは心配しなくてもいいから」
俯いたままのリシャに声をかけて、カールスは乱雑に散らばる本を、慣れた手付きで棚に片付けていく。リシャは顔をあげて、カールスを見つめた。
「本当は、もっと前に捨てようと思っていたんだ」
本を戻す手は止めずに、カールスは呟くように言う。やがて、全ての本を棚に収めると、何もなくなった床に何気なく目を向けて、カールスはリシャの広い損なった歯車に手をのばした。
「その時計ね、ずいぶん前から時を刻んでいなかったから、壊れても何の問題もないんだよ」
カールスはリシャに、拾い上げた歯車を渡す。リシャは黙ってそれを受け取って、腕の中の時計に視線を落とした。時計はすっかり壊れてしまって、うんともすんともいわない。だから、カールスの言葉が本当なのか嘘なのか、リシャにはわからなかった。
どちらにせよ、カールスの言葉に迷いはない。全てが嘘というわけではないのだろう。
「でも、カールスにとっては大切な物だ」
他の真実はともかくとして、その事実だけはわかっていたから、リシャは断言した。時計を抱きかかえたままカールスを上目遣いに見上げると、カールスの困ったような笑顔が目に飛び込んでくる。
「大切だった――。過去形だよ。私にとって、大切な物だった」
「過去形なのは、私が壊した所為なのか?」
カールスは困惑したような表情を浮かべ、やがて静かにかぶりを振った。ふわりと細い銀色の髪が宙を舞う。
「壊れるずっと昔に、大切ではなくなったんだよ」
どうして、と問う事は出来なかった。カールスはいつものような穏やかな笑みをリシャに向けている。それでも、リシャがそれ以上をカールスに問う事が出来なかったのは、その穏やかな笑みの裏に深い闇を見たからだ。
リシャは、同じような闇を持っていた人物を知っていた。その人物との思い出が、自分の感情がよみがえってくるような錯覚に捕われる。
(考えちゃ、駄目……)
リシャは心を落ち着けようと、僅かにカールスから目を逸らし、軽く息をついた。それだけで、心の中から不安は消えていく。心が落ち着くと、リシャはもう一度カールスの瞳をまっすぐに見上げた。
「もらっていい?これ」
「壊れているよ、それ」
「これがいい」
しばらく、カールスは何も答えなかった。それでも、カールスの瞳には、先程のような闇はない。その事実に、僅かに安堵して、リシャは黙ってカールスの答えを待った。
やがて、カールスは苦笑を浮かべた。リシャには敵わないな、と呟きつつ、いいよ、と答える。
「好きにしていいから」
「ありがとう」
リシャが笑顔をプラスしてカールスに言うと、カールスは満面の笑みを浮かべた。その笑顔を見ていると、リシャもつい嬉しくなってしまうのだ。そのおかげか、最近、笑顔を振り撒くことが昔程、嫌ではなくなってきた。カールスに会うまでは、笑顔の作り方を忘れてしまうほど、笑顔を作ること自体が稀だったというのに。
リシャは笑顔を苦笑にかえて、カールスに視線を向けた。
(条件反射だ)
リシャは心の中で呟く。カールスと共にいると、理由もなく嬉しくなってしまうのは――考える必要もなく、笑顔がこぼれてしまうのは――条件反射のせいだ。それ以外に理由なんてないんだ。
そう考えることは、きっと正しい事なのに、リシャの胸が締め付けられるように痛みを訴える。まるで無視された心がリシャを苛むように主張するそれに、思わずぎゅっと時計を持つ手に力を入れると、冷たい機械の感触がリシャの心を落ち着けてくれた。リシャは密かに安心して、ほっと息をつく。
(そう、これは錯覚なんだ。……あの人にどこか似ているから、条件反射を起こしているだけなんだ)
繰り返して呟けば、それは真実になるだろうか。どれぐらい経てば、遠い記憶はどこか彼方へと消え去ってくれるのだろう。どこまでも、自分を捕らえて離さない感情に、リシャは遠い過去を思った。
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