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リシャは壊れた時計を抱えて、一つの部屋を目指していた。広い屋敷には、まだ慣れないものの、屋敷の地図は大体頭の中に入ってくれた。それでも、防犯対策の為なのか、酷く入り組んだ回廊に、無数の扉が並んでいると、何処に居るのか分からなくなってしまいそうで、不安になる。
そんな、無駄に長い回廊を右へ左へと曲がりながら走ったせいで、普通に走るよりも余計に体力を消費してしまった。だから、ようやく目当ての部屋の扉が見えたとき、リシャは心底ほっとした。
あまり、走ってきたという事を悟られたくなくて、リシャはその場で息を整えつつ、リシャは扉を二回ほどノックした。
ほどなく扉が開けられて、リシャは驚いた顔の部屋の主に迎え入れられた。
「リシャが来るとは珍しい事もあるもんだ」
部屋の主であるチャルは苦笑を浮かべる。その表情とは裏腹に、どうやら彼はその事実を楽しんでいるようだった。
確かに、リシャがチャルの部屋に訪れる事はほとんどない。その必要がない、というのも一つの原因ではあるが、チャルはリシャにとっては、あくまでも盗賊団の副頭領なのだ。私室に足を踏み入れるなど、恐れ多くて簡単には出来ない。
戸惑って、立ち尽くしているリシャに椅子を勧めると、チャル自身はベッドの上に腰をおろした。
チャルの部屋は、若干リシャの部屋よりも狭い。しかし、物を殆んど置いていないせいか、実際の広さよりも随分と広く感じた。
「リシャ、何の用だ?」
言いながら、チャルはリシャの腕の中に目を向けた。僅かに顔が歪められる。
リシャは、そんなチャルに苦笑を向けた。
「私が落として壊してしまいました」
「書斎のか……」
それは訊く、というよりも確認だったので、リシャは何も口にせず、ただ一つ頷いた。そのまま、その時計をチャルに渡す。
チャルは、リシャからその時計を受け取って、思わず、といったように苦笑した。
「こりゃまた酷い有様で……。時計っつうよりも、残骸だな」
リシャは体を小さくして、俯く。チャルの言う事は正しかったので、何の反論もする事はできなかった。
(わざとじゃないんです)
つい、心の中で言い訳をしてしまうが、自分に日があることは誰の目から見ても明らかだ。リシャは、反論を諦めて、ため息をついた。
「これ、直ると思います?」
かわりに、まじまじと時計を見つめているチャルに問い掛けてみる。
チャルは難しい表情を作り出して、わからない、と答えた。
「それよりも、これってさ……カールス、直さなくてもいいと言ってなかったか?」
リシャは頷いた。はっきりと直さなくてもいいと言われたわけではないが、必要ないと言ったのだから同じ事だろう。
それよりも、どうしてそんな事を訊くのだろう、と僅かに首をかしげると、チャルが軽く呆れたようなため息をついた。一瞬、そのため息が自分に向けられたと思って首をすくめたが、チャルはどこか遠くを見つめている。どうやら、チャルのため息は、今、ここにはいないカールスに向けられていたらしい。
「……これは、カールスにとって大切な物のはずですよね?」
「そうだな。大切にしていたな」
「過去形ですか?」
カールスが、過去形だよ、と言っていたことを思い出して、リシャは尋ねた。そんな事を突っ込まれるとは思っていなかったせいか、チャルは僅かに目を見開く。やがて、その表情は薄い笑みへと変わった。
「――少なくともカールスはそう言っただろう?」
どうしてはっきりと話してくれないのだろう。リシャは思わず眉を潜める。それを見てか、チャルはもう一度笑顔を見せた。
「別に話したくないわけじゃないぞ。その理由ってのを」
チャルは手の中の時計であったものを見つめた。
「話しにくい事ではあるけどな。――隠しているわけではない。俺もカールスも、な」
もっとも、カールスは本気で気にしていないのだろうけど、とチャルは苦笑を浮かべた。
リシャには、話しにくい事と隠している事の違いがわからない。どちらも同じようなものに思えるのだ。もっとも、チャルやカールスにとって、それは同じではないのだろうけど。
「これは、カールスの物ではない」
「と、おっしゃると?」
リシャが即座に訪ね返すと、そういうと語弊があるな、とチャルは顔を顰めた。どうやら、しっくり来る言葉が見つからないらしい。しばらく、言葉を捜すようにゆっくりと宙に瞳を彷徨わせて、やがていい言葉が思い浮かんだのか、チャルは薄く笑った。
「つまりだ、これは、本来カールスが持つ物ではなかった」
リシャは思わず眉をよせる。
「同じ事じゃないですか」
違うんだよ。チャルは右手を軽く振った。
リシャはますます眉をよせる。
「今、は、カールスの物なんだ」
「今は……ですか?」
「カールスの母親の物だったんだ。……そう聞いている」
そういえばカールスの家族の話を聞かないな、とリシャは漠然と思う。自分だって、カールスにはリゼットの団員である事以外話していないのだから、同じかもしれないが、何故だか少し気になった。
「カールスの母親って……」
「ああ、すでに亡くなってる。俺も会った事のない昔だから……いくつの時だったかな」
最後は自分に問い掛けるように小さくなって、思い出したように顔をあげた。
「多分、4つかそこらだな。カールス自身にもほとんど思い出なんてないんじゃないか?」
リシャは軽く頷いた。
4つといえば、自分が両親を亡くした年齢とほぼ同じだ。自分の記憶を辿って、リシャはもう一度頷いた。
両親の記憶はほとんどない。周りに沢山の仲間達がいてくれたから、寂しいと思った事はなかったけれど、それでも両親の揃っている子供を見ると、羨ましく感じた事もある。
「それじゃあ、時計は形見ですか?」
「いや、違う……と思う」
うん、と答えるだろうと尋ねた言葉は、チャルの言葉で否定された。
訝しげなリシャに気付いてか、チャルは気まずそうに頭を掻いて、小さくため息をついた。
「昔は形見、今は……ただの置物だな。だから、動かさない」
存在があるだけでよかったんだ。チャルは苦笑した。
「時を止めていたいのだろうな……カールスは」
なんとなく、カールスの思いが分かったような気がした。
リシャも、時間をとめたいと感じた事がある。それではいけないのだ、と何度も前を向いて歩こうとして、それでも、やっぱり出来なかった。
リシャにとって、両親の死は過去に起こった出来事で、その時間を引きずっているわけではない。けれど、自分から離れていった人はいるのだ――両親ではなく、もっと自分に近かった人が。
カールスにとって、両親の死は今に繋がるものなのかもしれない。
「そういえば、ルトアでカールスを見た時――」
リシャが俯いて呟くと、チャルが顔を上げた。
「現実感のなさを感じました。――まるで、夢の中にいるような――」
ああ、とチャルは頷く。
「笑ってたからな」
やがて、ぽつりと呟かれたそれに、リシャは弾かれたように顔を上げた。そのまま、言葉の意味を探ろうと、チャルに瞳を向ける。
チャルはリシャの視線に僅かに困ったような笑みを向けた。
「あいつにとって、あれはただの仕事だから。……決して逆らえない命令だから、従うしかないんだ」
その仕事をするきっかけとなったのが、父親の死なのだとチャルはリシャに告げた。それを決して後悔しているわけではないだろう。しかし、その時からカールスの時間は軌道を変えてしまったのだろう、と。
「時計を止めたのは、カールス自身だから。……初仕事を終えたその日に、な」
チャルは悲しそうに笑った。
リシャは思わず言葉を無くす。人を初めて手にかけて、そして母親の形見であった時計を見て、何を思ったのだろう。
リシャの脳裏に、表情を無くしたまま、佇んでいる子供の情景が浮かんでくる。その、あまりにも寂しげな情景に、リシャは居たたまれない気持ちになった。リシャは僅かに口元を歪めた。ただの想像だというのに……。
リシャは想像を頭の中から追い払うように、頭を振る。
「……これ、直ります?」
リシャはそっとチャルの手の中の時計に触れて、もう一度尋ねた。
わからない、とチャルも同じようにもう一度答える。そのまま、にこりと笑った。
「けど、なんとかしてみる。……とりあえず、数日はかかるだろうけど」
チャルは、副頭領だけあって聡いから、リシャの思惑に気が付いたのだろう。リシャを勇気付けるように、もう一度笑みを見せて、そのまま時計に目を落とした。
直らないかもしれない。そこまで酷く壊れてしまっているから。けれど、何とか直って欲しいと心から願う。
「リシャが壊したのは、不幸中の幸いってとこかもしれないな」
「え?」
突然のチャルの呟きに、リシャは目をむく。チャルは茶目っ気たっぷりに笑った。
「俺が壊していたら、それが何であっても――きっと、ペン一本であっても――カールスはにこやかに怒っただろうからな」
にこやかに怒る、というチャルの表現がおかしくて、リシャは思わず噴き出した。
チャルは安心したかのように、ぽんぽん、とリシャの頭を軽く二、三度叩く。リシャが思わず顔を上げると、チャルはとても優しい笑みをリシャに向けた。
「時計は俺に任せとけ。絶対に――職人達を脅してでも、なんとかしてやるから」
はい、とリシャは軽く頭を下げた。
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