3
時を刻む音がする。
逃げ出したくなる程大きく――縛り付けるように強く。けれど、それはどこか儚い響きも含んでいる。
これが、時の音だ。自分が、今、を生きている音なのだ。
リシャはため息をもらした。そのまま、固まっているカールスに自分の瞳を向ける。
「これ……直したのか?」
直さなくてもよかったんだ。言葉の中に、そんな響きをのせて、カールスが呟く。リシャは、うん、と頷いた。
「壊れたままだと、私が嫌だったんだ」
そう、とカールスは複雑そうに顔を顰めた。
うん、とリシャは再び頷いた。
「チャル様にきいた。わざと、時計を止めてたんだってな」
カールスはリシャに瞳を向けて、軽く肩をすくめた。それは明らかに肯定を示している。
もっとも、カールス自身隠すつもりなどなかったのだろう。――チャルが言っていたように。ただ、話しにくかっただけなのだ。
カールスは何でもそつなくこなせるくせにどこか不器用で、いつだって自分の気持ちを押し殺している。負の感情を他人に与えない事は、確かに大切かもしれないけれど、それにしてもカールスはそれらの感情を隠しすぎなのだ。
「カールスって、いつ本気で笑うんだ?」
リシャはふと尋ねた。カールスが眉をひそめる。
「カールスは満面の笑顔を見せてはくれるけど、それが真実の笑顔なのか、それとも演技なのかわからなくなる時があるんだ」
リシャに向けてくれる笑みは、完璧すぎて――笑顔を向けてくれる事は嬉しいけれど、時折不安になる。完璧な笑みは、きっとすぐに崩れてしまう位、脆いもので。
「カールス、私はカールスに似た人を知っている」
リシャは僅かに笑みを口元にのせた。
「知っている……。だから、分かるんだ」
過去形なのにな、とリシャは言葉を紡ぎながら思わず自嘲する。過去形にしなければならない言葉だ。けれど、唐突に口から出てきたのは現在進行形で、リシャは苦笑をもらした。
とっくの昔に終わった事なのだ。それでも、忘れる事が出来ない。
本当は、カールス以上に時を止めたままでいるのはリシャなのかもしれない。
「そのままだと、きっと耐え切れなくなる。逃げ出したくなるはずだ」
――そして、自分を置いて行く。
言葉には出さないで、ただ心の中で付け足す。
あの人に似ているから、あの人のように――。
問えば、カールスは自分の望む言葉を返してくれるだろう。あの人がくれなかった、自分の欲しかった言葉をいつもくれる人だから。
「ごめん……私は卑怯だ」
リシャは両手で顔を覆った。カールスに偉そうな口を叩きながら、本当に卑怯なのはリシャだ。リシャはカールスに大切な人を重ねて見つめているのだから。
本当に大好きだった。忘れる事なんて、出来ないのかもしれない。そんなリシャがカールスに何を言えると言うのだろう。
「カールス、私には好きな人がいたんだ」
悲しいわけでもないのに涙がこぼれた。この涙は何の為に流しているのだろう。冷静な自分が涙を流している自分を見つめながら、漠然と思う。何の為に、誰の為に涙は流れているのだろう。
「本当に好きな人だったんだ」
分かっていた、とカールスの声がした。その声は限りなく優しい。
「ごめん、ごめん……私はカールスの優しさに甘えている」
いいよ、とか細い声がした。見上げると、カールスが微笑んでいる。どうしてカールスが他人にこんなに優しくなれるのか、リシャは不思議だった。
リシャの知る限り、カールスはリシャよりもずっと――時を止めてしまいたいと、現実を拒絶してしまう程――辛い過去を背負っていて、それでも笑っていられるのは何故なのか知りたかった。
きっと、カールスの優しさは、そして笑顔は彼の強さではない。きっとそれは、カールスの脆さだ。ともすれば、無くしてしまいそうな自我を、そうする事によって保っているのかもしれない。
『――リシャ、笑顔はね、時には鋭い刃ともなるんだよ』
昔、言われた言葉を思い出して納得する。笑顔は虚構を作り出すには一番いい仮面であるのだから。
「でも……」
リシャは精一杯の勇気を振り絞る。自分も変わらないといけない。そんな思いを言葉に込めて。
「もしかしたら、吹っ切る事が出来るかもしれない……」
「うん……」
「一緒に……頑張ってみよう?私もカールスを好きになれるように……努力する」
リシャの言う好きは、恋人としての好きで、今カールスに対して持っている好きという感情とは違う。恋人の好きという感情が不安なものではなくなるぐらい、強い感情に変える事が出来るかもしれないから。
そう告げると、カールスは曖昧に微笑んだ。
「ねぇ、リシャ。頑張るのは結構なんだけどね、一つ覚えておいて」
リシャはきょとんと顔を上げる。
頬に残る涙の跡に手を走らせて、カールスはいつもの笑みを浮かべた。
「リシャは私の笑顔が演技なのか真実なのかわからない、と言ったよね?」
うん、とリシャは頷いた。
「少なくとも、リシャに向ける笑顔だけは真実の笑顔だよ。……正直言って、私は人を好きにはなれないと思っていた。……リシャ、君に会うまでは。好きになれるのは、きっとこれからもリシャだけだろうから」
恥ずかしいカールスの言葉に、リシャは頬を赤く染める。カールスはそんなリシャに優しく口付けた。
「何のつもりだっ――!」
突然のキスに、文句を言おうと顔を上げて、リシャはそのまま固まった。カールスが本当に甘く、優しく、そして嬉しそうに微笑んでいたからだ。それは、紛れもなく演技ではなくて、自然なもので――
「突然、キスなんてするな!」
そんな笑みに見とれてしまった自分を自覚したくなくて、リシャは飲み込んだ文句を再び口から吐き出した。
もしかすると、全てカールスの計算だったのかもしれない。カールスの笑みを目にすると、思わずそんな事すら考えてしまう。それほどまでに、先程までの脆さを感じさせない、はっきりとした笑みだったのだ。
「だったら、突然じゃなかったらいい?……例えば、『今からキスします』と宣言してからキスするとか……」
からかい半分本気半分で尋ねるカールスに、リシャは拳を握り締めた。
「それとも、事後報告とかでもいいのかな?」
「なんなんだ、その変わり身の早さは!」
「だって、嬉しかったから。リシャが好きになる努力をすると言ってくれたろ?」
そんな事で舞い上がっているのか……。
リシャは頭痛を覚えて、握り締めた拳を解いて、カールスに背を向けた。
(まあ、いいか……)
それでも、顔が綻んでしまうのは仕方がない。カールスは笑っていてくれる方がいい。その想いが、カールスに対するものなのか、リシャにはまだわからないけれど、何かが変わるはずだ。
「きっと、変わるはず……」
リシャはカールスに背を向けたまま、自分に言い聞かせようと呟いた。その呟きは、力強い時計が時を刻む音に消されて、舞い上がっているカールスには届いていないようだった。
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