3
どうして、あんな事を言ってしまったのだろう。
回廊に足音だけを響かせながら、カールスは自嘲するようにため息をついた。その横顔に、先程のような暖かい笑みは浮かんでいない。ただ、そこにあったのは、何処までも無表情な、張り付かせた美貌だけだ。
どうして屋敷に人が居ないのだ、と問われて、殺してしまうから、と答えた自分の気持ちは確かに本心であった。誰にも見せたくなかった、そして誰にも見せなかった本心だ。
「チャルがいないからだ」
カールスは呟いて、もう一度ため息をついた。
チャルがいないからという理由で、精神的に不安定になってしまうような子供ではない。ただ、チャルがいれば自分の本心を隠しつづけることも可能だったとカールスは思うのだ。
基本的に、カールスはチャルを信頼はしていても信用はしていない。チャルがいれば、必然的に本心を隠さなくてはならない。しかし、今チャルはいないから、自分の感情を押し込める必要がないのだ。
「チャルがいたら、あんな事、口に出さなかったのに」
それは、悪戯に自分自身を苦しめることだと知っていたから――そして、案の定、今、カールスは深く傷付いている。
「カールス様」
突然遠くからカールスの名前が呼ばれた。目を向けると、前方に一人の男の姿が見える。カールスは口元に自然な笑みをのせた。いくらどんな感情か心の内に渦巻いていようと、カールスはその感情を表に出すことはない。無意識のうちに、その心の内を守るかのように優しい笑顔だけがカールスの顔に刻まれるのだ。
「どうかしたの?テイル」
テイルに近づきながら、カールスはふわりと微笑んだ。
テイルはリブレスに数少ない、カールスの使用人の一人だ。カールスが生まれる以前からリブレスの料理人をつとめており、カールスも彼の腕を高く評価している。とはいえ、テイルはカールスの事をよく知っているわけではない。カールスがリブレスの屋敷に戻ってくるまでの間、彼はルトアに仕えていたのだ。
「何か大切な用でも?」
いいえ、とテイルはかぶりを振った。
「リシャ様からお客様が見えられていると訊いたもので」
「ああ。……でも、夕食は特別に用意しなくてもいいよ。朝食もね」
不思議そうに首を傾げるテイルの横に並んで、カールスはくすくすと笑う。
「貴族の食事なんて、きっと食べないよ」
「はあ……」
カールスはそのまま前方に歩みを進めながら、テイルを振り返った。テイルは慌ててカールスの後を追う。
「それにね、彼にはあの特別な部屋を用意したんだ」
「あの、部屋を……ですか」
それは酷い、と言いたげなテイルの声を無視して、カールスは一直線に自分の私室へと向かっていた。今、リシャに会う気にはなれなかった。
やがて、テイルも諦めたのだろう。突然を歩みを止めて、カールスに目を向ける。
「それでは、そのように準備させていただきます」
「ああ。頼んだよ」
振り返らずに告げると、気配でテイルが頷いたのがわかった。声を出して返事をしなかったのは、カールスがそれ以上の会話を拒否していることに気付いたからだろうか。
しばらく、一心不乱に私室に向かって足を進めていて、カールスはふと立ち止まった。何気なく見下ろした窓の外に、明るい光を浴びた木々にあふれる中庭の姿が浮かんでいる。その先に、スコアに用意した部屋の窓が見えた。
特別な部屋、といってもカールスは、詳しくその部屋のことを知らない。ただ、事実として、あの部屋で一晩を明かしたものは、大抵顔面蒼白でリブレスの屋敷から出て行くという事のみだ。その部屋で一晩を過ごして、リブレスを離れなかったのは、チャルとカールス自身くらいのものであろう。
「……あの部屋、あの部屋って……あの部屋って……何があるんだろうな……」
テイルが居れば、わけもわからずにあの部屋を用意したのですか、と怒られそうな台詞をぽつりと呟いて、カールスは窓に手をかけた。そのまま、ひょいと窓を乗り越えて、一階分下の中庭にその身をおろす。大したショックもなく、中庭の大地はカールスを受け止めた。
そのまま、中庭に視線を彷徨わせながら、カールスは右手で近くの大木に触れた。かさかさの樹皮は冷たい。カールスはそっとその大木に視線を移動して苦笑した。
(なんで、飛び降りちゃったんだろうね)
本当に衝動的だった。風に揺れる木々を見つめていると、突然、その木々に触れたいという誘惑にかられたのだ。いざ触れてしまうと、その誘惑もバカのように消えてしまって、結局、後に残ったのは自分に対する呆れ、だけだったのだが。
カールスは、視線を二階にある一室の窓に向けた。スコアに用意した「特別な部屋」の窓だ。
(羨ましい……)
ふいに、カールスは思った。その感情はスコアに向けられている。
彼は何事にでも一生懸命で、それでいて素直だ。自分にはないいいところだけを持っている。自分が捨てざるを得なかった感情を、スコアが当たり前のように持っているのが、不思議な感覚だった。
彼はきっとこれからも変わらないだろう。自分のように、見なくてもいいものを見なくてすむだろうから。だからこそ、リシャの事が好きだ、と強く言い切ってしまえるのだろう。
はたして、自分はどうだろう。カールスは自問した。リシャの事はきっと好きだ――それが、恋と呼べるものなのだと思い込みたい。けれど、実際にその想いを自覚すると、自信がなくなるのだ。
それに、巻き込んではいけないと思う。リシャはどこまでも曲がっていなくて、自分の想いに、そして目的に彼女を巻き込んではいけないのだろう。けれど、だからといって、今更彼女を手放すことなど、出来そうにもなくて。
「バカだね……」
最初から、彼女は自分の事を好きではないと言っていた。好きになる努力はすると、約束はしてくれたけれど、それは確実なものではない。彼女の手前、それだけで喜んでみせはしたけれど、カールスとて、それが恋愛に変わる確率が百パーセントではない事を知っているのだ。
一目ぼれはしない、といつかチャルに言ったのと同じように、そんな確率の低いものに頼れるはずがない。カールスは全てを理解した上で、自分を演じた。
「自己嫌悪……」
カールスは自嘲を含んだ笑みを口元にのせて、瞳を閉じた。
自己嫌悪。誰を憎めばいいのか分からないから、結局自分を憎むしかなかった。マイナスの感情を他人にぶつけることが出来ないから、自分に向けることしか出来ない。
「……本当に自分が……嫌になる……」
カールスの呟きは、木々のざわめきと風のささやきに消されて、静かに時だけが過ぎていった。
|