朝日の昇る丘






  マスクォール王国とカルゼアン王国の間には、広い荒野が広がっている。「命の森」人々はその地をそう呼んだ。大古のむかしには広大な森が広がっていたというその地に、再び命が戻ってきてくれる事を願って、森、と呼ぶのだ。
  確かに、その名残か、荒野には多くの枯れ木が転がっている。時折強い風が吹き荒れる不毛の大地には、地元の人間が香樹とよばれる強い香りを発する枯れ木を集めに足を踏み入れる他は、滅多に人は近寄らない。マスクォールとカルゼアンの交流も、荒野ではなく海伝いに進められる程なのだ。
  その荒野で、馬を走らせながら、少女は短く息をついた。
  一体何時からつけられていたのだろう。少女はちらりと後方に目を向けて考える。少なくとも、マスクォール側にいた時には、誰の姿もなかった。けれど、荒野を半分程過ぎた今、自分は確かにつけ狙われている。
「けれど、生憎、能無しバカどもに捕まるのは、私の趣味じゃないのよね」
  とはいえ、全くの恐怖がないわけではなかった。立場上、誰かに狙われたりする事も多く、それらの対処法は知っていても、所詮、少女はまだ十になったばかりだ。いつもは、誰かが助けてくれた。でも、今は違うのだ。
  相手の目的がわからない以上、下手に動くと危険だ。周りには何もない荒野である以上、相手の動きは手にとるように分かる。しかし、それは同時に少女の動きも相手には丸見えなのだ。
  せめて、カルゼアンに入れば……。少女は僅かに焦っていた。それは、付け狙われている恐怖だけの為ではない。自分に課せられた、カルゼアンに来た目的を遂行しなければならないという、強い義務感からだ。
「こんなところで足止めを食らっている暇なんてないのよね」
  だって、相手は自分が来る事を知らないはずだから。
  いつもならば、彼女の兄がこっそり抜け出して、彼と会っていたのだ。こっそりとはいえ、周りの人間は知っていて黙認していたわけだから、抜け出すという表現は正しくないかもしれないが、しかし、黙認しているとはいえ、兄が彼にあう事をよくは思わない人が、周りには多かったのだ。
  無論、少女が兄の代わりを勤めることは周りの人間はおろか、当の兄にまで反対された。それでも、断固として譲らない少女に、お供をつけるという約束で最終的に許可してくれたのも、兄であったが。
  もっとも、そのお供の人間は今ごろ慌てて少女の後を追っているのだろう。今は、お供の人間を振り切った事を少々後悔している。もし、誰か別の人間がいれば、彼女はここまで焦る必要はなかっただろう。
  ようやく、カルゼアンの最もマスクォール側にある村落が見えてきて、少女は安堵のため息を漏らした。と、同時に後方で小さな悲鳴があがる。
  ふと、後ろを振り向くと、一人の子供が捕らえられている姿が目に飛び込んできた。少女は軽く舌打ちをした。
  目的地は目前。けれど、自分よりも幼い子供を見捨てる事なんて、自分には出来そうにもない。しかも、恐らく子供は自分を捕らえることが出来なかった為の代わりなのだ。
  目的地は、本当に目前。けれど、大声をあげて届く距離ではない。助けを呼ぶにも中途半端な距離なのだ。少女はもう一度舌打ちをして、馬の手綱を引いた。そのまま、くるりと回り右をして、後方に駆け出す。
(能無しに捕まるのは私の趣味じゃないけど……)
  誰かが自分の姿を目撃して、誰かに伝えてくれる事を心の底から望みながら、
(見捨てるのはもっと嫌なのよね)
  少女はため息をついた。

******

  チャルは自分の愛馬をいたわるように軽く叩きながら、眼下に広がる広大な荒野にため息をついた。荒野を挟んだ向かい側には、隣国マスクォール王国の姿がうっすらと見える。
「チャストル様?」
  そのため息を聞きとめてか、チャルの隣に自らの愛馬を並べて、男が怪訝そうな表情を浮かべる。チャルは、何でもないと右手を振った。
  チャルと共に、荒野を見下ろしている男はリゼット盗賊団の幹部の一人。名をアザードという。盗賊団の人間というよりも、むしろ騎士と呼ぶ方がしっくりとくる彼は、事実、自らをリゼット盗賊団と名乗る事はない。そして、チャルをチャストル以外の名で呼ぶこともなかった。
  ――そういうところがいいんじゃないか。とはカールスの談だ。堅物で融通の利かないアザードを、カールスは高く評価していた。だからこそ、彼をチャルのお供につけて、凶悪なまでのまぶしい笑顔でカールスは言うのだ。チャル一人だと心配だから、ようは保険なのだ、と。
  チャルにしてみれば、心配なのはむしろカールスの方だ。彼が内心、何を考えているのかわからないからこそ、何をするのか心配になる。カールスと長く付き合っていると、どうしても彼の不自然さが目立ってくるのだ。
「アザードはカールスの目的を知っているか?」
「は?」
  唐突な問いかけだったからか、アザードは間抜けな声を発して、考え込むように遠くを見つめた。
「いいえ、存じません」
  やがて、ぽつりと答えが返ってくる。チャルは苦笑した。答えはもとからわかっていたのだ。
「俺も知らない」
「だったらわかるわけないじゃないですか」
  呆れたように言うアザードに、チャルは苦笑を返した。
  今のカールスの事は、おそらくチャルが一番よく知っている。その知っている事実は、あまりにも薄っぺらいものではあったが、それでも一番なのだ。だからこそ、カールスが自分には己の目的を話さないという事もわかっている。カールスはチャルの立場も、そして目的も知っているのだから。
「でも、俺はカールスが何かの目的に向かって走っているような気がするんだ」
  それは復讐だろうか。それとも、今の世界からの逃亡かもしれない。その考えをチャルは知らずに口にしていたのだろう。ふと、アザードに目を向けると、アザードは蒼白した様子でかぶりをふった。
「復讐なんて……そんな事……」
「つってもなぁ。カールスの目的が何かわからないんじゃあ、そう思ったって仕方ないだろ」
「あなたは、昔のカールス様をご存知ないから」
  アザードは溜め込んだ息を吐き出すように呟いた。その言葉に、チャルは僅かに眉をひそめる。
  昔のカールス様、と言われて知っているはずがない。カールスは昔の事や家族の事を話したがらなかったし、基本的にリゼットはカールスの事では口をつぐんだ。チャルが副頭領であろうと、彼らはカールスの事だけを一番に思うのだ。
「カールスの目的は俺にもお前にもわからない」
  チャルは、ふう、と息を吐き出した。
「けど、俺のやろうとしている事は間違っているか?やっている事は間違っているか?」
「それが、貴方様のお立場なれば……」
  アザードは視線を、遠くに見える小さな村落に目を向けた。そこが、チャル達の目的地である。
「それも仕方のない事かと」
  アザードは思案するように呟く。チャルも、アザードと同じように、村落に目を向けた。
「それでも、俺はそういうやり方しか知らないから……」
  だから、誰一人として味方にはならなくても……。チャルは自嘲めいた笑みを口元にのせ、アザードを勢いよく振り返った。同時に、愛馬の手綱に手をかける。
「とりあえず、目的地へ急ごう」