朝日の昇る丘



10



  それは、初めて感じた恐怖であった。
  今まで、いつも、知らないうちに守られてきたのだと、初めて本当の恐怖というものを味わって、サララは今更ながらに思い知った。
  誰かに助けられなくても、自分一人でなんとかなるのではないか、と――本当の危険にさらされる前に、なんとかなってくれるだろうと、軽く考えていたのは自分で、それを誰かのせいにする事は出来ない。だから、サララは恐怖に支配されていて尚、取り乱すことはしなかった。
「大人しくしてください」
  まるで、決り文句のように男に言われて、サララは黙って従った。今、サララが暴れれば、男は悲しい顔をしながらも、躊躇いもなく自分に手をかけるぐらいはするだろうと、サララは本能で悟っていたのかもしれない。それが、誰かの命令であれば。
  恐怖で潤んだ瞳を、男には悟らせたくないとサララは男をにらみつけた。
  サララが大人しくしているのを見て、男は緊張を解いた。
「……大人しくしていれば、助けが来ます」
  男の声に、サララは驚いて目を見開く。そんなサララに、男は儚げな笑みを浮かべた。
「助けは、もう、すぐそこまで来ています。そうすれば、貴方も解放されるはず。……それまで、我慢して下さい」
  わかった、と言葉にすることは出来なくて、サララは一つ頷いた。
  男は、油断のならない相手ではあるが、信用できない相手ではない。自分を誘拐した張本人であるというのに――。
「ユーグ、お前は相変わらず甘いな」
  突然、別の男の声が響いて、サララはびくりと体を強張らせた。新しく姿を現した男は、目の前にいる男とは違い、真の恐怖をサララに与えてくる。顔を上げて、その男の顔を見上げることも出来ず、サララは思わず俯いた。
  そんなサララを見て、苦笑を浮かべながら、ユーグは現れた男――セラス――に目を向ける。
「これ以上はやめましょう」
  ユーグの声が僅かに震えていた。彼もまた、サララと同じように、セラスに対して恐怖を感じているのだろう。それだけの威圧感をセラスは持っているのだ。
「無駄な事です」
  ユーグの言葉に、セラスは口許を僅かに歪めた。
「無駄?無駄ではない」
  セラスはくつくつと喉をならしながら、サララの顎に手をかける。サララの体が恐怖ですくんだ。
「無駄なはずがない」
  添えられた手に力が入れられて、サララは顔を上げさせられる。深い深い闇色の瞳と、サララの瞳がぶつかった。
  どこまでも、深い闇の色。思考がだんだんとぼやけてくる。自分が誰なのか、どこにいるのかすら薄れかけてきた、その時、目の前に青い光が現れて、サララの体を包み込んだ。セラスが驚いて、サララの顎から手を放す。
「……セラス様?」
  忌々しげに舌打ちをしたセラスに、ユーグが恐る恐るといった体で、声をかけた。
「私の邪魔をするのは、どうやら一人だけではないようだ」
  セラスの右手は、僅かに赤く腫れている。サララは、驚いてセラスの右手を凝視した。
  何が起きたのか、サララには分からなかった。ただ、分かっている事は、セラスに触られても、何も起こらなかったというのに、サララが拒絶したと同時に、青い光がサララの体を包んだという事実。そして、その青い光が、セラスに襲い掛かったのだという事実のみだ。
  そんな力、サララは知らなかった。
「お前の言う通りだな、ユーグ」
  セラスはぺろりと自分の右手を舐めながら、サララに目を向ける。その瞳に宿る光は、嫌悪であり憎悪であり、そして、僅かな動揺であった。
  その瞳に宿る光を見とめて、サララは僅かに安堵する。その中の、一雫の動揺を読み取ることが出来たからだ。それどころか、僅かな動揺の裏に巧妙に隠されていたのは、畏怖に似た感情。
「お前の言う通り、ある意味、無駄足であったかもしれんな。……いや、それどころか――余計な人間を敵に回してしまったかもしれない」
  ぎりりと歯を鳴らして、セラスは告げた。その瞳は、真っ直ぐにドアの方向に向けられている。ユーグも、セラスに倣うように、ドアに目線を向けた。
「と、いいますと?」
  ドアに視線を固定したままユーグが尋ねるが、セラスは答えようとはしなかった。
  暫く沈黙があたりを支配した。サララは、その空間に口出しする事も出来ず、体を縮こめて、自分が解放される、その時だけを思った。
  やがて、沈黙を破ったのは、セラスの一言であった。
「殺せ」
  感情を瞬時に消して、セラスはユーグに視線を向ける。
「誰を……ですか?」
  ユーグが尋ねると、セラスはふと視線をサララに移した。その視線に捕らわれて、サララが息を飲む。縋るように彷徨わせた視線は、ユーグの視線とぶつかった。
  視線がぶつかったのはほんの僅かな時間。けれど、その瞳には強い光が浮かんでいた。それは、決して嫌なものではない。
  どうして、そんな瞳をするの、と問いかけようとしたその言葉は、言葉にはならずに消えていく。ユーグの言葉を思い出したのだ。
――助けは、もう、すぐそこまで来ている。
  彼は確かにそう言った。助けは、すぐそこにいるのだ。サララを助けに、ここへやってくるのも、時間の問題だろう。
「……人殺しは、大きな罪です」
「この世界に捕らわれる必要はない。……お前の世界では、私が法律だ」
  ユーグは躊躇うように、剣を抜いた。セラスを背に、サララにその切先を向けてくる。サララがじっとユーグを見つめていると、ユーグはちらりとドアに視線を流して、口許に微苦笑を浮かべた。
「もう一度、お尋ねします。……誰を殺すのですか?」
「その女だ。……私の探す人は、この女ではなかった」
「……ですが、セラス様。……時間が足りません」
  ユーグの言葉に、セラスが驚いたようにドアに目を向けた。その表情が、序所に険しいものとなっていく。
「ユーグ、今回は引くぞ」
  遠くの方から、複数の足音が響いてくる。セラスは小さく舌打ちをして、ぱちんと指を鳴らした。ぐにゃり、とセラスの体が曲がって、別の空間に飲み込まれていく。サララは、呆然とその様子を眺めていた。
  セラスの体が、その場から姿を消して、ようやくユーグは剣を鞘に収めた。そっと息をつき、サララの目線にあわせるように、腰を落として苦笑を浮かべる。
「私はセラス様には逆らえません。……それでも、貴方を殺したくはなかった」
「ありがとう……」
  思わずサララが言うと、ユーグはふわりと微笑む。
「ありがとう、はおかしいですよ。きっと、今度はごまかしきれないので」
「だけど、結果的には私を助けてくれたじゃない。だから、ありがとう」
  ユーグはもう一度微笑んで、立ち上がった。
「……攫われた子供達は、いずれ戻ります。眠っているだけですから」
  サララは一つ頷いた。それ以上、かける言葉はない。
  ユーグはサララに向けて、頷いて、自らの胸にゆれるペンダントに右手を添えた。紫の光がペンダントから溢れ出してきて、ユーグの体を包む。その光が一際明るく輝いて、その眩しさにサララは、思わず目を瞑った。
  眩しさから抜け出して、ようやくサララがその瞳を開けた時には、すでにその場からユーグの姿は消えていた。
――きっと、悪い夢を見たのだ。
  サララは、ふと思う。それは、全て悪夢だったのだ、と。だけど、ユーグの最後に浮かべた笑顔を――悲しい程に優しい笑顔を――忘れる事は出来そうにもなかった。