朝日の昇る丘






  結界、とアザードが隣で呟く気配を感じて、チャルはこくりと頷いた。
  今、魔法という存在は絶えて久しい。けれど、それは決して伝説ではなく、確かに存在していたものなのだ。だから、結界、という存在にぴんとこなくても、そんなもの存在するはずがないとは言い切れないようだった。
「チャストル様、女性を口説くのはお好きでしょう?」
  しばらく黙って、あたりに視線を彷徨わせていたアザードが、チャルの背をとんと押した。
  チャルはぎょっとしてアザードに目を向けるが、アザードはそれに動じた様子もなく、ただ真剣な顔でチャルを睨み付けてきた。
「口説くの、お上手じゃないですか」
「それは、嫌味か?」
  とはいうものの、アザードの言う通り、チャルは女性を口説くのが下手なわけではない。今まで、百パーセントの確立で、成功しているのだ。
  しかし、だからといって、自分が全てのものに好かれる人間だとは、チャル自身、思ってはいなかった。確かに、口説きの成功率は百パーセント。しかし、それは、チャルに百パーセントの自信がある時のみにしか口説かないからだ。
「俺は、負ける戦いはしないんだよ」
  くい、と口の端を歪めて言うと、自慢できる事ではないですね、とアザードが返してくる。
  それだけの軽口がたたけるなら安心だと、チャルはがっしりとアザードの両肩をつかんで、優しい笑みを浮かべた。
「お前の犠牲は無駄にはしないっ!さあ、囮となって華やかに散れ!」
「チャストル様っ!」
  軽い口調でチャルが言うと、アザードが慌てて声をあげた。よほど、生身ではない人間の存在が怖いらしい。目に見えることが出来ないから怖いのだろうか、と対して恐怖を感じないチャルは内心首を傾げる。
  何にせよ、これ以上アザードで遊んでいても、時間の無駄だ。チャルはそれまでの、ふざけた気配を消して、真剣な表情を顔面に貼り付けた。
  相手が危害を加えるタイプではないと、頭で理解はしていても、容易に近づくのは危険だ。そうして、寝首を掻かれた人間は、それこそ星の数程存在するのだ。
「ここは、慎重にいくか」
  伊達に、幼いころから、常に死の危険と隣り合わせに生きてきたわけではない。ほんの僅かな気の緩みが、全ての崩壊につながる事を知っているからこそ、これまで以上に慎重にならざるを得なかった。
「けど、他に道はなし。いい加減、サララを助けてやらないと、あいつの事だ……自分で脱出しようとしかねんしなぁ」
  呟きながら、ちらりとアザードに視線を向けると、アザードは蒼白して、囮は嫌だとかぶりを振った。
  わかっている、とチャルは手で合図する。それにほっとしたような表情を見せて、そのままアザードはチャルの後方を見たまま、固まった。
「どうした?」
  そんなアザードの様子に疑問を感じて、チャルは問う。
「気配を感じます。先ほどとは違う、何かの気配を」
  アザードはチャルの瞳を真っ直ぐ前から受け止めて、一言答えた。
  アザードは、人の気配に敏感だ。それは、先ほどからの事でも証明されている。先ほどとは違う、とわざわざ付け足しているとこからすれば、アザードが感じた人の気配というものは、おそらくは生身の人間のものなのだろう。
「そりゃ、人間だっていたっておかしくはない」
  チャルがアザードの感じたという人の気配を探ろうと、ぐるりとあたりを見回すと、違うんです、とアザードはかぶりを振った。
「人の気配は、確かに人の気配ではあるんです。けれど……」
  上手い言葉が思いつかないのか、アザードは困惑した表情でかぶりを振りつづける。何故、説明が上手く出来ないのか、アザード自身が一番焦りを感じているようだった。
「例えば……例えば、ここに貴方様がいらっしゃるのに、それは本当の貴方じゃないような……言葉には出来ない違和感があるんです」
「俺が、俺じゃないような……違和感?」
  そうです、とアザードはこくりと頷く。
「それは、確かにそこに存在しているのに、本当は存在してはいけないような……」
「離魂の術、というやつか?」
  耳にした事のある、一つの術の名前を口に出してみる。それは、俗に言われる生まれ変わりの術だと言われてはいるが、本当の所はわからない――文献でしかお目にかかれない、古の術なのだ。
「離魂……。いえ……きっと、そんな難しいものではなくて……」
「……洗脳、ですか?」
  突然、背後から声が掛けられて、チャルとアザードは飛び上がった。くるりと振り向いた先にいたのは、マスクォールに帰らせたはずのシストであった。
「驚かせてしまいましたか?」
  シストは、気まずげに頭をかく。
「当たり前だろう!どうして、お前がここにいるんだ!」
「マスクォールへ戻る途中で、上手い具合に後発隊と落ち合えまして……。彼らには、このアジトを取り囲んでもらっています」
「そうじゃない!」
  チャルは思わず怒鳴り声を上げた。
「俺が言いたいのは、どうしてここがわかったんだ、って事だ」
  シストは、少し考え込んで、にっこりと笑った。この笑みは、誰かに似ていると、チャルは漠然と感じる。どこかで見たことのある笑い方だ、と。
「それは、マスクォールの企業秘密、としておきましょう」
  今はまだ知る必要のない事ですから、とシストは付け足して、再び微笑む。
  その笑みを見て、ようやく誰の笑みに似ているのか、チャルは理解した。
  それは、カールスに似ているのだ。カールスが自分には話せない事を、笑ってごまかすときの笑みと同じなのだ。
「お前もカールスも、隠し事ばかりだ」
  思わず呟くと、シストは、仕方がないでしょう、とふわりと笑む。チャルがそういう立場なのだから、と。チャルも、その事は理解していた。
(でも、俺がそういう立場じゃなかったら……カールスは俺を見なかっただろう?)
  どんなに優しい声をかけても、どんなにカールスの気をひこうと頑張っても、カールスはチャルを見なかったはずだ。
  ただ、困ったような笑みを浮かべて、やんわりとチャルの存在を拒否したはずだ。
  沈み込んだチャルの背中を、シストはぽんぽんと軽くたたいた。驚いて顔を上げると、シストは黙って微笑んでいる。
「俺の事、嫌いなんだろう?」
  つい言葉に出して言うと、シストは苦笑した。
「どうでしょう。でも、カールス様の事で落ち込んでいる貴方の事は、きっと嫌いじゃありません」
  すっと、シストは右手を上げる。同時にガラスの割れるような音がした。
  チャルは、その音に、我にかえって前方に目を向ける。その場から、少女の姿は消えていた。――その気配すら残っていない。
「シスト……。それも、企業秘密か?」
「いずれはお分かりになりますよ。チャストル様も」
  わざわざ、チャストル、という名前を強調してシストは言う。チャルは、しばらくシストをにらみつけていたが、やがて、諦めて視線をそらせた。
「私は、後方から援護いたします。アザード様とチャル様は、どうぞお進み下さい」
「わかった。……頼む」
  お任せください、とシストは頼もしい笑みをチャルとアザードに向けた。