
自由の効かない右手で呼び鈴を鳴らす。手首に痛々しい包帯を巻かれた腕の先の感覚は鈍磨していた。
二度目の呼び鈴を鳴らした時、ドアが開いて花形が顔を見せた。こちらの不意の訪問に驚いて、継いで迷惑そうな顔をした。何も云わず、皺を刻んだ眉の顔を俯けてドアの背後に身体をよけて、藤真に中に入るよう促した。藤真も何も云わずに三度目の訪問をした。
花形が先に立って居間へ進んだ。室内にはステレオから、美しくも哀しいピアノの旋律が聞こえていた。花形はステレオに歩み寄り、レコードの針を上げた。音楽は止んだ。そして振り返って戻って来た時に、花形は確かに藤真の異変に気がついたようだった。藤真の右腕の包帯と、その先にある細い指先が硬直したように無様に醜い恰好をしていることに気付いた。だが、何も云わないし、表情も変わらない。ただそのまま藤真の横を通り過ぎ、テーブルの上に乗っていたいくらかの雑誌と、そこに挟まっていたいつか見たコンクールのパンフレットを藤真の目に見えない場所へ隠しただけだった。
花形に促されたので藤真はソファに腰掛けた。花形は飲もうとしていたのか、側に用意してあった赤ワインのボトルとグラスを二つ取ってテーブルに置き、栓を抜いてしまうと透明なグラスにそれを注いだ。血のように赤い液体。一方のグラスを藤真の前に進めた。藤真は差し出されたグラスを最初に受けようとした手を引っ込めて、思い直したように左手で受けた。
花形はそれを見ていた目をつと反らして、眼前に置かれた赤ワインのグラスを見つめた。それから立ち上がるとテラスへ向かい、しかしすぐに背後のピアノに視線をやって、そのまま固まったように動かなくなった。
藤真はグラスに入った赤い液体を通して室内を見ていた。センスの良い清潔な家具も、液体を通して眺めると皆不気味で暴力的な印象に変わった。一息にそれを飲み干して立ち上がり、ピアノの側へ寄る。
花形は立ちながらにして意識を失っているかのように、表情もなく、ないというよりは寧ろ、そこに浮かぶものは全て死んでいた。藤真は椅子に腰掛けて深紅の覆いを退けて、鍵盤を見た。それから、右手に巻いてある包帯を取り払って、黒々とした穴が覗く手首をさらして、その不格好な指先を鍵盤に乗せた。
左手は熟練者の趣を漂わせて鍵盤に触れていた。しかし右手の有様は醜くかった。それはピアノを弾く資格を剥奪された手だった。藤真は先程花形が聴いていたところの、かつて自分を震撼とさせた調べを奏で始めた。美麗で涙を誘うバラードは、耳障りな不協和音として室内に響いた。左手が奏でる正式な音階を無視して、右手は和音を奏で、時には調子を外し、時には間延びした旋律を弾いた。テンポは狂い、リズムは失われ、まるでピアニストが弾いている横合いから、小さな子供が面白半分に指を出して鍵盤を叩いているかのようだった。
何の気配もなく花形が脇へ寄り、聴いていられないというように黒い重々しい覆いを閉じた。そして藤真の右手がいつまでも鍵盤の上を彷徨っているので、そのいかにも名残惜しそうにしている右手を掴んで、鍵盤から無理矢理に離してしまうと、短い間だけかつての面影を全く失ったその指先を眺めやり、腕を離して背を向けてしまった。
そのままソファに背を見せた恰好で腰掛けると、考え込んだような鬱ぎ込んだような態度で、両手で頭を抱えてしまった。
じっとりとどす黒い血液の滲む包帯を見下ろしてから、藤真は花形の方へ向かった。
頭を抱えているその人物の目の前にまで来て、藤真は彼が考え込んでいるのでもなく、ましてや頭痛を耐えているのでもなく、ただ泣いているのだということに気付いた。
花形は泣いていた。藤真はそれを見ても顔色を変えなかった。それどころか、平静よりも更に冷めた眼差しを送った。しかしその実、藤真は感動していた。花形が涙を流せるのだということが、藤真を感動させた。花形はいつでも何かしら冷たく、気難しげで薄情そうだった。自分本位の強引さと、気紛れな怒りと悦びを振り回している人物だった。その花形が今、声もなく涙を流している。そしてそれは紛れもなく自分の為ではないだろうか?
ここへ来てから、花形は無表情を通していた。彼の無表情は凍てつくような冷たさと、傲慢さで塗り固めてあるのが常だった。
花形は憤慨しているのだと思った。腹を立て、自分を見限ってもう自分に対して何の感情も、嫌悪さえ抱かないのだと感じた。事実、花形の表情はそれを信用させるに十分なものがあった。
細く長い眉はいつでも顰められ、その下にある眼裂の長い瞳は無感動だった。酷薄そうな印象を醸す薄い唇と、狡猾そうな細く尖った顎。何もかも冷たく無慈悲だった。
しかし彼にも涙というものがあったらしい。
そしてそれは、自分の為に流すのではなく藤真の為に流せるような涙だったのだ。
花形は傷ついたに違いない。おそらくは自分のせいで藤真がこのような真似をしたと考えていることだろう。責める言葉も、突き放す態度も何もなかった。もうそれは今更遅いことなのだ。藤真の両手が不快な騒音を奏でている間、花形の脳裏にはかつて初めて店で聴いた藤真のピアノが蘇り、そこに含まれていた才能の煌めきや、人を感動させる名曲を損なわずに表現し得る技術が、今はもう、そして今後永久的に戻らないことを考えたのだろう。
藤真がそれを哀しむ代わりに、一切の悲嘆と絶望を花形が背負って身代わりとなったのだ。
不快なメロディー、途切れたり間延びしたりする和音。何もかも醜く、台無しにする。
それは花形の言葉と同じだ。
支えたり間違ったり、調子を外したりテンポが噛み合わない花形の口調。
それと、同じなのだ。
しかしながら藤真は、その花形に対していくらかの憐憫を感じたろうか?
彼の不幸を哀しみ、その為に流す涙が、藤真の中に存在しただろうか?
藤真は花形の前に跪き、幼子のように身体を丸めて嗚咽している花形を包み込むような具合に抱き留めた。花形が自分の不幸に心を痛めたと知った時に、藤真もまた花形の不幸を哀しいと感じた。
花形は藤真の腕を取り、右腕にぽっかりと深淵を覗かせる黒い洞穴を見つめて、何か言葉を云おうとした。それはきっと藤真ではなく、自分自身を責める言葉であろう。
しかし藤真は、それが罵倒であれ恨みであれ、悲嘆であれ、感傷であれ、聞きたくはなかった。今現に流している涙の、その美しさや尊さを僅かでも損ねるのは言葉なのだと藤真は考えた。どんなに巧みで感動的な言葉であれ、花形の流している涙に比べれば、それは全くその価値を汚すものでしかないと藤真は思った。
何も云わなくていい。口に出せば、それは全て嘘になるから。
花形が見つめる自分の右手で花形の髪を掴んで、花形に言葉を云わせないよう藤真はその唇を自らのそれで塞いだ。花形は何も云わなかった。自分の気持ちを表現するのは言葉ではなく、もっと別のものだと気付いたように、二人は唇を重ねたままソファに倒れ込んだ。
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