渡来したユダヤ人集団

 古代中国で、漢に滅ぼされた秦(しん)の一族は、朝鮮半島を経て、紀元280年頃日本に渡来した。後に「泰(はた)」氏と名のり、京都に住み着いたこの一族は、文字や絹織などの技芸を日本人に教えたのじゃが、どうも彼らは、元々ユダヤ人の一族だったようなのじゃ。
 彼らは、京都の太秦に広隆寺という寺を建てたが、幕末の国学者は「寺という名はついているが、仏教の寺ではない」と言っておる。実際、もと寺の境内だった場所にある井戸の名は「いさら井」(伊佐羅井)というが、これは漢語でイスラエルの意味だそうじゃ。また、そのすぐそばにある「大避神社」は、もとは「大辟」と書いたが、中国では古代イスラエルの王ダビデを「大辟」と呼んでおったのじゃ。そして、毎年そこで行なわれる「牛祭」も、ユダヤの儀式、「アザゼルのやぎ」を思い起こさせる。
 泰一族は、京都・太秦を本拠地に、今の滋賀、三重から、山梨や関東各地にまでその勢力を広げていたようじゃ。伊勢神宮には、イスラエルのしるしである「ダビデの星」を刻んだ石灯篭があることで有名じゃろ。これも泰氏の影響と考えられておる。当時の人口の1%を占めた彼らは、高度な文化と技術によって、古代日本の文化と政治に多大な影響を与えていたのじゃ。
 紀元794年、都が京都に移された。「平安京」と呼ばれるこの都を造成したのが、泰氏の首長・泰河勝じゃ。この都の名前も、イスラエルの首都エルサレムを思い起こさせる。ヘブル語で「イェル・サレム」とは、「平和(平安)の都」という意味なのじゃ。
 「日本人には聖書は無関係」と思っとったら大間違いじゃぞ。日本文化の形成のために、ユダヤ人集団の一族が、はたらかはったんじゃからな。

参考:「3〜8世紀の日本にユダヤ・小王国があった!?」(月刊『レムナント』第 号)


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