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Iran Iraq War
イラン・イラク戦争

さて、ホメイニ師が革命を起こしたイランに対して危機感を募らせている君主制イスラーム周辺諸国でありましたが、もう1人このイランの影響力を危惧している人物がおりました。

そう、隣国イラクのサダム・フセイン大統領です。中東の覇権はイラクが取ると言うフセイン大統領は、粛清により弱体化したイラン軍に目をつけ、1980年9月、時期は今!とイランに攻め込みまし た。これこそ、イラン・イラク戦争の始まりでした。

 

■ 元イラン帝国国防軍の実情
革命前のイラン帝国はアメリカと仲がよかったため、アメリカ製の最新鋭兵器を供与されていました。しかし、それを運用する技術要員がいないという事で、技術者もアメリカ人でありました。

ところが、革命でアメリカと手を切ったので技術者は国外退去し、兵器の保守部品も手に入らなくなり、空軍のグラマンF−14ペルシャン・キャット(アメリカ製戦闘機)にいたっては稼動機数が数機といった始末でした。

これに目をつけたフセイン大統領は短期決戦をもくろみ、一気呵成にイランを攻めたのです。しかし、 世の中とは面白いもので、ここにイスラエルが登場してきます。

イランもイラクも敵国であるイスラエルですが、なんと、イランに対しアメリカ製兵器の保守パーツ及び技術の供与を行なったのです。

これには、イスラエルとアメリカの利益の一致があったのですが、イランも背に腹は変えられないと聖地エルサレムを占領している!イスラエルと手を組みました。そして、補給が確保できたイランはイラクと正面から対決することが出来たのです。

しかし、やはり軍事大国イラクに対して兵器の絶対数はかなわないイランでは、前線で国民(子供や老人も含む)が正規軍のために生身の防塁となり、戦線を支えるということもありました。

子供や老人はイラクの地雷原に集団で突入し、地雷を踏んで自爆。その後ろを正規軍が進むという事がありました。イランは最初にレバノンで自爆を行なったシーア派が多数で、殉教姿勢が強かったというのもあります。

■ 革命防衛隊派遣
イランはイスラーム少数派シーア派の国です。レバノンにもいるシーア派のゲリラが自爆攻撃を行なった事で、その殉教姿勢が顕わとなりました。

そんな時、イスラエルによるレバノン侵攻が始まり、イランはイスラエルと極秘軍事協定を結んでいるにも関わらず、レバノンにホメイニ師の親衛隊パスダランを送り込み、対イスラエル工作を始めます。

このパスダランはナチス・ドイツでいうSS武装親衛隊にあたり、ホメイニ師直属のエリート・イスラーム戦士でした。このパスダランは後のレバノン・ヒズボラ旗揚げに大きく関わってきます。

そんなパスダランによる革命の輸出を恐れたアラブ諸国は、イ スラーム原理主義をつぶしておきたかった事もあり、イラクの味方をしたのです。ただ、リビアとシリアはイランの味方をしました。アメリカは裏からイランに武器を供与していました。(イラン・ コントラ事件)

クウェートなどは後の運命も知らずに、イラクに対しかなりの援助を行なっていました。このため、イランはクウェートも攻撃対象にしましたが、クウェートのタンカーにはソ連の護衛がついていました。

さらに、 ここでアメリカが寝返った!?イラン・コントラ事件が国民にバレてしまったアメリカは悪いのはイランだと逆ギレし、イランによるクウェートへの攻撃を決して許さず、タンカーへは星条旗を揚げさせアメリカ軍艦の護衛を付けました。

■ イラク化学兵器の使用
さすがにここまで孤立してしまうと停戦を考慮に入れた外交戦略をはじめたイランですが、相手のフセイン大統領としては、停戦に持ち込まれるとイスラーム原理主義国家殲滅と言う思惑が外れてしまいます。

そこで、フセイン大統領は新型地対地ミサイル”アル・フセイン”でイランの首都テヘランなどの主要都市を無差別爆撃、さらにイランのバックアップによってイラク国内で活発に活動するクルド人に対し化学兵器によるジェノサイド(民族抹殺)を行なったのです。

これでイラン将兵の士気は落ちた。この機に乗じイラク軍は攻勢にでると、イランは戦線を支えきれず敗走を重ねてしまいます。化学兵器が人間に与える心理効果と言うものが絶大であったと言うことです。

■ イラン降伏
そして、イランは1988年8月20日、どうにか降伏の手前で無条件ではありますが停戦に持っていく事ができました。これにより、長かった戦争が終わり、イランは経済の建て直しを行なうのです。

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