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第六次中東戦争
− レバノン戦争 −


レバノン : 地図提供 CIA

■ 第六次中東戦争 レバノン戦争 1982年6月6日

 イスラエル国防軍、SLA、レバノン・フォース
                             V.S.
                                   
PLO、シリア軍、イスラーム民兵

イスラエルはレバノンにいるPLOからの越境ゲリラ攻撃を防ぐため、レバノンに直接攻め込みPLOを掃討する作戦に出ました。もちろんレバノンには正規軍があります、しかし、レバノン政府には軍を動かす力などなかったのです。

これこそ、”レバノンに群雄割拠し、イスラエル南部を取る”というところです。レバノンの運命はどうなるのでしょう・・・。

 

■ レバノンに群雄割拠する

レバノンは独立時に、キリスト教とイスラーム及びその他の教徒達が暮らし、その住民の比率で国会の議席が決まるという法律を作り、宗主国であったフランスは撤収しました。

それまでは、キリスト教が多く大統領はキリスト教徒でした。しかし、徐々にイスラームの人口が増え、比率が変わったのです。

それではと、比率に基づいてムスリムの代表が大統領になるべきなのですが、実際問題そうはならなかったのです。そして、内戦、PLOとシリア軍の進入、国内の混乱でレバノンは群雄割拠状態になりました。

この時点のレバノン軍閥は異端キリスト教マロン派のレバノンフォース、イスラームの民兵アマル、PLO、南レバノン軍、シリア軍などです。そして、国家は無政府状態になっていました。

 

■ アリエル”The Dozer with Computer”シャロン国防相

1981年、共に?内戦を戦っていたレバノン・フォースとシリア軍が仲たがいを起こし、戦闘が発生します。

シリア軍に噛み付いたレバノン・フォースでしたが、所詮は民兵連合であり、さすがにシリア正規軍を支えかねてしまいます。そして、イスラエルから派遣されている軍事顧問に国防軍の出動を願い出ます。

イスラエルは例えそれが、裏切り者のキリストを仰ぐ切支丹であろうが、敵イスラエルにとっての敵”シリア”と戦っている人たちであれば積極的に支援するのです。そして、イスラエル国防軍は、すぐさまレバノンとの国境を越え、シリア軍と交戦します。

これに対しシリアのアサド大統領はレバノン駐留のシリア軍を増強し、イスラエルとの本格的な戦闘に備えます。PLOもシリア軍に呼応するかの様に、イスラエルに向けてさかんにカチューシャ・ロケットを撃ち込みます。これに対してもイスラエルはベイルートのPLO本部オフィスを含む拠点を爆撃することで応戦します。

国境を超えてきたイスラエル空軍機に対して、レバノン軍は攻撃をしなかったのかって?無政府国家にそのような力はないのです。

そして、PLOとイスラエルの報復合戦はいたちごっこの様に終わりが見えませんでした。そんな状況の中、アルエル・シャロン国防大臣はPLOの完全なる掃討のため、レバノンへの本格的な侵攻作戦を立案します。

しかし、この侵攻作戦は参謀本部の賛成を得られるにいたらず、お蔵入りとなるはずでした。あの事件までは・・・。

 

■ その事件”駐ロンドン、イスラエル大使狙撃”

1982年6月3日、ロンドンに駐在するイスラエルのシェロモ・アルゴブ大使が、元PLO(アブ・ニダル)のテロリストに襲われました。撃たれた大使は重症を負い植物状態となりましたが、命は助かりました。

やばい!と感じたPLOはすぐさま事件との関わりを否定します。モサドのつかんだ情報からもPLOは関っていないという事がはっきりしていました。

しかし、シャロン国防大臣にとって必要だった事は、事実ではなくきっかけでした。この事件によってイスラエルの国内世論も高騰しました。今や機は熟したのです。

 

■ ガリラヤ平和作戦

1982年6月6日、イスラエルはレバノン侵攻作戦を開始しました。イスラエル国防軍の大部隊が国境を越えてレバノンに侵攻したのです。目標はPLOの基地や拠点です。PLOはロケットや大砲を保有しているとはいえ、ゲリラです。ゲリラ部隊の装備では正規軍にかないません。

イスラエル国防軍の侵攻作戦には、レバノン人のSLAレバノン・フォース、そして一部のアマルも加わり、PLOは北へ北へと追いやられていきました。この戦闘間、レバノン・フォースはPLOを支持するイスラーム民兵とも戦います。

内戦の延長上なので仕方のない事なのですが、レバノン・フォースは一般イスラーム市民まで容赦なく殺戮してしまうのです。この行動はさすがにイスラエル国防軍の兵士を困惑させましたが、他国の事情であり静観するしかありません。

ある時、イスラエル国防軍の兵士がイスラーム民兵を捕虜にし、(イスラエルには関係ない捕虜のため)レバノン・フォースの指揮官に対処を聞きました。すると、指揮官は『そのようなこと、いちいち聞くんじゃない!』と無作法に返します。つまり、処刑しろと・・・。もちろん国防軍には他国の市民を処刑する権限はありません・・・。

さらに戦闘もたけなわとなり、イスラエル国防軍は最前線のパレスチナ難民キャンプで、民家に立てこもるPLOと銃撃戦を行っていました。かなり撃ち合いましたが、敵を沈黙させる事ができません。

そして、指揮官は空爆を要請します。すぐさま、上空にクフィール攻撃機が飛来し、ターゲットはどの家だ?と無線で聞いてきました。

しかし、敵からの銃撃が激しく、頭も上げられない状態で確認する事ができません。クフィールは再び『ターゲットの建物はどれなんだ!』と聞いてきます。地上の指揮官は『全部だ!』と答えます。

クフィールからは了解の返事、そして爆弾は一帯の民家に落とされました。この攻撃で銃撃も収まり、部隊は前進を続けます。しかし、この爆撃で家に隠れて身を縮めていた一般人も犠牲になってしまったのです。

6月13日、イスラエル国防軍はPLOの本部があるベイルートに到達しました。そして、PLOに退去を迫り、砲撃で威圧したのです。

ところが、なんと味方であるはずのアマルがイスラエル国防軍と戦闘を行ってしまいました。南部のアマルとベイルートのアマルでは考えが違ったようです。

そしてアラファト議長は粘りに粘り、ベイルートの包囲は2ヶ月におよびました。この時、レバノンはもはや自国を犠牲にしてまでPLOを保護する事の無益を悟っていました。そして、アラファト議長に退去を要請したのです。

1982年8月21日、ついにアラファト議長はアメリカの仲介でベイルートを放棄を決定します。これで停戦となり、平和維持軍が上陸してきました。

1982年8月30日、アラファト議長は自らが殿(しんがり)となりベイルートを脱出し、PLOはベイルート以南から掃討されたのでした。

しかし、この時点ではPLOとイスラエルが停戦したのみで、レバノン内戦はまだ終了していませんでした。レバノン・フォースは元々PLOやPLO支持のイスラーム武装組織と戦っていたのですが、この作戦が終了した後も戦闘は続きました。そして、罪のない一般イスラームの人々もその犠牲となったのでした。

この戦争中にフセイン・ムサウィ Husayn al Mussawiはアマルから独立しイスラミック・アマルを設立します。パスダランの完全バックアップを受けたこの組織は、1983年レバノン国軍の兵士を襲撃し、攻撃声明を出した事で有名となりました。

 

■ つづく内戦とイランの工作

1982年9月14日、PLOを追い出したあと、新たに大統領になったレバノン・フォースバシール・ジェマイエルがシリア情報部の工作員によって仕掛けられた爆弾で暗殺されました。

この事件の犯人を捜索するためサブラとシャティーラという2つのパレスチナ難民キャンプに進入したレバノン・フォースは、これまた罪のない人々を虐殺してしまいます。この時点でまだレバノンにいたイスラエル国防軍は虐殺を止められなかった責任でシャロン国防大臣を解任しますが、結局は内閣の辞職を招きます。レバノンに平和はまだこないようです。

☆ この時のレバノン戦国大名たち
停戦後も居座っているイスラエル国防軍、南レバノン軍レバノン・フォース、アマル、平和維持軍のアメリカ軍、フランス軍、イタリア軍、そしてパスダラン(イラン革命防衛隊)、イスラミック・アマル、シリア軍など。

この後に、PLOと代わってイスラエルに越境攻撃をかける事になるヒズボラも、イランが送り込んだパスダランによって組織されました。

アマルもヒズボラもシーア派です。このため両者はライバル状態となり、アマルはイランからの援助を断り、またもシリアに接近したのでした。

■ アメリカ大使館、アメリカ海兵隊駐留地とフランス空挺部隊キャンプにカミカゼ突入
1983年4月18日、ホメイニ師に言わせると悪の枢軸国であるアメリカの大使館(ベイルート)に、中東初のカミカゼが突入しました。この自動車爆弾特攻攻撃で63人が死亡し、120人が重軽傷を負いました。

イラン人テロリスト(パスダランとしか考えられない)が犯行声明を出しました。しかし、犯人(計画した人間。実行犯は死んでいます・・・。)は捕まりませんでした。

アメリカは戦後、40年が経ってまたしてもカミカゼの攻撃を受けたのです。しかも、カミカゼ突入は一度では終わらなかったのです。

1983年10月23日午前6時30分、アメリカ海兵隊の駐留地ににもカミカゼが突入しました。このアメリカ海兵隊を攻撃も、メルセデスのバンに満載した爆弾を爆破させたのです。

特攻隊員はバンで検問を突破し、空港に侵入します。空港の駐車場を二度ほど回り、ターゲットに狙いをつけます。そして、司令部のあるビルに突入したのです。この攻撃で241人が死亡しました。

同様にフランス空挺部隊もカミカゼの攻撃にさらされました。これで、アメリカ海兵隊とフランス空挺師団の兵舎が吹き飛び297人が戦死しました。

■ アメリカ軍とシリア軍の交戦
1983年12月3日、シリア軍がアメリカ軍機に発砲します。これに対してアメリカ軍は、次の日に地中海上からF−14トムキャットを飛ばし、シリア軍に攻撃を加えました。しかし、対空砲で反撃を受け、空母ジョン・F・ケネディと空母インディペンデンスから発艦した2機の戦闘機が撃墜されてしまいました。

アメリカ軍は1984年2月26レバノンから撤退します。これは、決してレバノンが平和になったからではありません。アメリカ軍が攻撃を受けて犠牲が発生し、嫌になったからでした。

これにつづいてフランス軍とイタリア軍も撤退し、レバノン内戦はまだまだつづきます。

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