1982年6月6日、イスラエルはレバノン侵攻作戦を開始しました。イスラエル国防軍の大部隊が国境を越えてレバノンに侵攻したのです。目標はPLOの基地や拠点です。PLOはロケットや大砲を保有しているとはいえ、ゲリラです。ゲリラ部隊の装備では正規軍にかないません。
イスラエル国防軍の侵攻作戦には、レバノン人のSLAとレバノン・フォース、そして一部のアマルも加わり、PLOは北へ北へと追いやられていきました。この戦闘間、レバノン・フォースはPLOを支持するイスラーム民兵とも戦います。
内戦の延長上なので仕方のない事なのですが、レバノン・フォースは一般イスラーム市民まで容赦なく殺戮してしまうのです。この行動はさすがにイスラエル国防軍の兵士を困惑させましたが、他国の事情であり静観するしかありません。
ある時、イスラエル国防軍の兵士がイスラーム民兵を捕虜にし、(イスラエルには関係ない捕虜のため)レバノン・フォースの指揮官に対処を聞きました。すると、指揮官は『そのようなこと、いちいち聞くんじゃない!』と無作法に返します。つまり、処刑しろと・・・。もちろん国防軍には他国の市民を処刑する権限はありません・・・。
さらに戦闘もたけなわとなり、イスラエル国防軍は最前線のパレスチナ難民キャンプで、民家に立てこもるPLOと銃撃戦を行っていました。かなり撃ち合いましたが、敵を沈黙させる事ができません。
そして、指揮官は空爆を要請します。すぐさま、上空にクフィール攻撃機が飛来し、ターゲットはどの家だ?と無線で聞いてきました。
しかし、敵からの銃撃が激しく、頭も上げられない状態で確認する事ができません。クフィールは再び『ターゲットの建物はどれなんだ!』と聞いてきます。地上の指揮官は『全部だ!』と答えます。
クフィールからは了解の返事、そして爆弾は一帯の民家に落とされました。この攻撃で銃撃も収まり、部隊は前進を続けます。しかし、この爆撃で家に隠れて身を縮めていた一般人も犠牲になってしまったのです。
6月13日、イスラエル国防軍はPLOの本部があるベイルートに到達しました。そして、PLOに退去を迫り、砲撃で威圧したのです。
ところが、なんと味方であるはずのアマルがイスラエル国防軍と戦闘を行ってしまいました。南部のアマルとベイルートのアマルでは考えが違ったようです。
そしてアラファト議長は粘りに粘り、ベイルートの包囲は2ヶ月におよびました。この時、レバノンはもはや自国を犠牲にしてまでPLOを保護する事の無益を悟っていました。そして、アラファト議長に退去を要請したのです。
1982年8月21日、ついにアラファト議長はアメリカの仲介でベイルートを放棄を決定します。これで停戦となり、平和維持軍が上陸してきました。
1982年8月30日、アラファト議長は自らが殿(しんがり)となりベイルートを脱出し、PLOはベイルート以南から掃討されたのでした。
しかし、この時点ではPLOとイスラエルが停戦したのみで、レバノン内戦はまだ終了していませんでした。レバノン・フォースは元々PLOやPLO支持のイスラーム武装組織と戦っていたのですが、この作戦が終了した後も戦闘は続きました。そして、罪のない一般イスラームの人々もその犠牲となったのでした。 この戦争中にフセイン・ムサウィ Husayn al Mussawiはアマルから独立しイスラミック・アマルを設立します。パスダランの完全バックアップを受けたこの組織は、1983年レバノン国軍の兵士を襲撃し、攻撃声明を出した事で有名となりました。 |