■ ヨルダン王国の誕生 1922年
第1次世界大戦でオスマン・トルコ帝国から中東の覇権を奪ったイギリス帝国は、以前からくすぶっていたパレスチナでのユダヤ人とアラブ人の争いを収めて中東での地位を固めるべ画策しました。まさに帝国主義!そして、同じく中東に領地を確保したフランスをけん制するため、アラブ独立のためゲリラ部隊を組織していた元メッカの太守フセイン・アリーの3男アブデュラに領地を与えパレスチナアラブ人の国を作りました。この国はトランスヨルダンと名づけられました。
国をもらったアブデュラ王でしたが、実際は軍隊さえもイギリスの統制下にあり事実上は傀儡政権みたいなものでした。イギリス帝国中東作戦統括本部はエルサレムにありました。
■ ヨルダン独立 1946年5月25日
イギリスの委任統治を終わらせて独立国となりました。
■ 第1次中東戦争 1948年5月14日
イスラエルが誕生すると、アラブ諸国と一緒にイスラエルに対し宣戦布告し攻め込みました。戦闘の結果、念願のヨルダン川西岸地帯(West Bank)をイスラエルから取り上げる事に成功し、1950年トランスヨルダンと言う国名をヨルダン・ハーシム王国に改めたのでした。
アブデュラ陛下は住民にヨルダンの国籍を与えます。しかし、この併合はアラブ諸国から非難されました。もちろん占領地ですので国際法でも認められません。
■ アブデュラ陛下暗殺 1951年7月21日
エルサレムでアブデュラ王が暗殺されてしまいました。犯人はなんとパレスチナ・アラブ人でした。これは親イギリス帝国の王に対しパレスチナ人の不満がつのり暗殺されてしまったのです。
まあ、パレスチナ人はまだ領土が足りないのにイギリス帝国の讒言にのって穏健な態度を取る陛下が許せなかった、と言うことでしょう。
後任に長男のタラール王が王位についたのですが、1953年病気を理由に退位し、タラール王の長男フセイン王が王位につきました。
■ 第3次中東戦争 1967年6月5日
当初ヨルダンは、この戦争に加わっていませんでした。しかし、戦争の第一報を聞いて、飛び上がらんばかりに驚いたフセイン王陛下は、王国の身の振り方を迷います。アラブの一員として戦争に加わるべきか、さりとてイスラエルに勝つ自信があるわけでもないし、準備も出来ていない。
しかし、エジプトのナセル大統領からの強い要請でついにフセイン王陛下は参戦を決意しました。ナセル大統領はさんざんに負けているのに『大進撃中だ』などとウソをつき、『テル・アビブで会おう』などと勇ましいことをいいヨルダンの参戦を促したのでした。
結局はナセル大統領の口車に乗ってしまいヨルダンは参戦し、敗北してしまうのです。この結果ヨルダンは命より大事なウエストバンクとエルサレム全市を失いました。詳しくはここをクリック
■ ブラックセプテンバー事件 1970年9月6日
PLOが保護者であるヨルダンの国内で暴れまくり、フセイン国王はついに決別の決断をしました。詳しくはここをクリック
■ 第5次中東戦争 1973年10月6日
エジプトとシリアがイスラエルに攻め込み、前線から”ワレ、奇襲ニ成功セリ”との無線が発せられました。
ヨルダンはと言いますと、こちらもまた奇襲されていたのです。つまり、ヨルダンはこの作戦からはずされていたのです。フセイン国王陛下はイスラエルとの戦争に辟易しており、話に乗ってこないばかりか、情報がリークするとこまるので、知らされていなかったのでした。
しかし、いったん戦闘がはじまるとアラブの一員として協力しないわけには行きません。が、実際この作戦からはじかれた事に対する意地もあり、兵力を派遣することで協力姿勢をみせて、イスラエルとの直接戦闘は行いませんでした。
■ 湾岸戦争 1991年
フセイン王陛下は同じアラブのイラクを攻撃することはできないとして、多国籍軍への参加を拒否しました。フセイン王陛下の毅然とした行動でした。すばらしい。
■ オスロ合意を受けて 1993年9月13日
イスラエルとPLOの秘密会談の後のオスロ合意を受けてフセイン王陛下は一度決別したPLOとの関係を元に戻し、パレスチナ暫定自治政府を承認します。そして、PLOの元事務所をパレスチナ大使館としました。
■ イスラエル、ヨルダン平和条約 1994年10月26日
イスラエルとヨルダンは二度の直接戦争がありましたが、両国の関係はなかなかよいものでありました。とはいえヨルダンはエルサレムの権利を譲りたくなく、平和条約も遅々として進みませんでした。つまり、イスラエルが戦争で占領した、エルサレムを返して欲しいと言うわけです。
しかし、パレスチナ暫定自治政府の発足の後、イスラエルとの平和条約を締結します。
■ フセイン陛下崩御 1999年
フセイン陛下が崩御しました。次の国王にはアブデュラ二世皇太子が就任しました。 |