■ 同時多発ハイジャック
1970年9月6日、PFLPが4機の民間航空機を同時にハイジャックしました。まずは、ドイツのフランクフルト発TWA航空機と、スイスのチューリッヒ発スイス航空機がハイジャックされ、ヨルダンにあるイギリス空軍用のドーソ
ン基地に着陸させられました。
■ 女性テロリスト レイラ・ハリド
同時刻、ニューヨーク発、テルアビブ行きのエル・アル航空機でもハイジャックが発生します。これは男女のカップルを装った犯人により行なわれました。飛行機がイギリスに近づいた頃、テロリストは行動を開始します。
2人は機内に持ち込んだ銃(!?)を取り出し、チーフ・アテンダントに突きつけ、ロックされたコックピットのドアへと近づきます。手榴弾を持っているテロリストを見てチーフ・アテンダントはコックピットに対しドアを開けるよう要請します。
しかし、ハイジャックと気付いたパイロットが、咄嗟に操縦桿を前に倒します。それにより、飛行機は急降下を開始し、犯人達は足をとられて転びました。
そして、犯人の男が手榴弾を投げようしましたが、コックピットに近い座席に待機しているエル・アル・セキュリティーが、銃を抜くや数発撃ちこみ倒しました。
もう1人の女性テロリスト、レイラ・ハリドは乗客に取り押さえられます。エル・アル航空機はロンドンへ緊急着陸し、女性テロリストのレイラはイギリス当局に身柄を拘束されました。
この女性テロリスト、レイラはモサドによる暗殺をからくも逃れた直後でした。
■ 4機目のハイジャック
次のハイジャックはオランダのアムステルダム発、ニューヨーク行きのパン・アメリカン航空機でした。
このハイジャック計画では、すべての航空機をヨルダンのドーソン基地に着陸させる予定でしたが、パン・アメリカン機はボーイング747(いわゆるジャンボジェット)であり、ドーソン基地の空港に着陸するには滑走路が足りないと言う事が分かったのです。
目的が達せられないとわかったハイジャック犯は、目的地を変更し、飛行機をエジプトのカイロ国際空港に着陸させ、乗客を降ろした後、この機を爆破しました。
■ 5機目のハイジャック
さらに、ボンベイ発ベイルート行きのBOAC航空機(イギリス)が乗っ取られ、ドーソン基地へ着陸させられました。これは、PFLPの行動に呼応して過激派が実行したのでした。
■ 革命飛行場
そうこうしている内に、PFLPはこのドーソン飛行場を革命飛行場と名づけ、各国に対する要求を発
表します。
それはドイツ、スイス、イスラエルに収監されている”フェダイーン”の闘士たちの釈放、およびイギリスに収監された(逮捕はされていない)、レイラの引渡しを付け加えます。
ハイジャック発生から6日後の9月12日ドイツ、イギリスおよびスイスはこれを受け入れ、収監しているゲリラ達を釈放します。これに応じてPFLPもほとんどの人質を解放しました。
しかし、イスラエルからは回答がありません。PFLPは挑発するつもりで、乗客乗員を降ろした後、3機の飛行機を爆破しました。
■ フセイン国王の決断
この行動にキレたのは、イスラエルではなく、ヨルダンのフセイ
ン国王でした。フセイン陛下は、PLOに王国内で勝手な行動を取られ、これ以上パレスチナ過激派の保護は無益だと悟ったのです。
実はフセイン王陛下は、PLOが発足した当初は全面支持をしており、訓練基地などもすぐに用意していたのです。しかし、この年の6月9日には、パレスチナゲリラによる襲撃もあり、陛下は無事でしたが、もはやPFLP(PLO内でも過激なグループ)の行動で我慢の限界がきたのです。
■ 親衛隊出動
9月14日、フセイン王陛下はパレスチナ人である首相に戒厳令を布くことを命令されます。そして、国王親衛隊のベドウィーン兵に出撃を命じました。まずはアンマン市街地で撃ち合いが始まり、大規模な戦闘へと発展します。同時に、ヨルダン国内にあるPLOの基地へも攻撃を開始しました。
フセイン王陛下のよみはあたりました。PLOは基本的にゲリラ戦を想定しての武装なので、市街戦をふくむ正規の戦闘にはやはりヨルダン正規軍の火力は圧倒的であり、PLOは次第に追い込まれていきます。
そして、ヨルダン軍は一気にPLOをヨルダン川へ追い落とすかに見えたのですが、このチャンスを逃すまいとシリアが介入します。PLOのようなゲリラ部隊が装備するはずのない戦車がパレスチナのマークをつけて現れたのです。
これは明らかにシリアの介入と悟ったアメリカは、シリア対ヨルダンの戦争に発展することを危惧し、地中海第6艦隊を派遣しシリアをけん制しますが、無視されます。そしてアメリカはイスラエルに対処を依頼しました。
イスラエルはこれを受けると、国防軍をシリアとの国境であるゴラン高原に終結させ、牽制しました。さすがに今イスラエルを相手にする気はないシリアは、ドサクサにまぎれてヨルダンぶん取
り作戦を中止し、撤退しました。
これで、戦闘の決着はつき、PLOは一気にたたかれ、ヨルダン川を渡ってイスラエルに降伏する者さえ出たのです。それはPLOの勝手な行動を苦々しく思っていたヨルダン兵による虐殺のせいでした。
事件の方はエジプトのナセル大統領が仲介に入り停戦となり、PLOは受け入れに同意したレバノンへと落ち延びてゆきました。
そして、ヨルダン国内からPLOは排除され、事務所も立ち入り禁止となって、フセイン王陛下は一安心でした。しかし、このヨルダンの行動はPLOを支持している他のアラブ諸国からこっぴどく非難されました。まあ、それは覚悟の上だったのですが・・・。
PLOはといいますと、このヨルダンの裏切りをブラックセプテンバー事件と呼び、後にアル・ファタが
イスラエル以外の国でテロを行う場合の国際世論の隠れ蓑として作ったグループの名前に、このブラックセプテンバーを冠したのです。バックアップはリビアでした。 |