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Al-Qaida
アル・カイダ

アルカイダとは、当時ソ連と戦っていたアフガニスタンで設立された”義勇兵の募集および訓練のための組織”が転じ、ユダヤと十字軍(キリスト教徒)と戦うことになった組織です。

その組織力はすさまじく、世界最大のイスラーム組織ネットワークを持っていると言われています。アル・カイダはアメリカからテロ組織に認定されたため、スポンサーであるイスラーム国も表立ってのバックアップは出来なくなりました。(アメリカが怖いから)

アル・カイダはイスラエルとそのバックにいるアメリカを敵としています。敵対している理由の1つとしては、第1次湾岸戦争の時、異教徒であるアメリカ軍がサウジアラビアに駐留したことが、イスラームとしては許せないという事があります。

異教徒でも旅行者ならサウジアラビアに行っても問題無いでしょうが、軍隊ではそうはいきません。聖地のあるサウジアラビアに異教徒の軍隊とはまったくもってけしからんという訳です。イスラエルに対しては、やはり聖地エルサレムを占領している事が許せないという訳です。

こういう訳で戦う相手をソ連からアメリカ、イスラエルに変更したアル・カイダは、ゲリラ闘争を行うことになるのです。以下はアル・カイダが関与していると思われる大規模な攻撃です。

1992年12月、イエメンでアメリカ兵を狙って爆弾攻撃
1993年2月、ニューヨークの世界貿易センタービル爆破(倒壊はしなかった)
1998年8月、タンザニアとケニアのアメリカ大使館爆破 ・・・詳しくはここをクリック
2000年10月、イエメンのアデン港に停泊中のアメリカ海軍デストロイヤー(駆逐艦)”コール”爆破
2001年9月、世界貿易センタービルおよびペンタゴンへの神風ストライク

アル・カイダは通常攻撃声明を出しませんが、アメリカはアル・カイダが犯人であると決め付けて、本拠地であるアフガニスタンに報復攻撃を行っていました。そして、911で完全に頭にきたのでしょう。ついに侵攻作戦を行ったのです。

この戦争によってアル・カイダを庇護していたアフガニスタンのタリバン政権は崩壊しました。しかし、アル・カイダは地下にもぐり、タリバン残党も集めがんばっています。

隣のイスラーム国パキスタンは、かつてバックアップしていたタリバンとアル・カイダの掃討作戦を行っています。この裏切りは、アメリカに対しての駆け引きの結果なのですが、兵隊さんの士気は上がるのでしょうか・・・。

 

■ カイダの人々
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オサマ・ビン・ラディン師 Sheikh Osama bin Ladin
サウジアラビア人の大金持ちで、アル・カイダを設立した人です。アメリカ軍は躍起になってラディン師を探していますが、いまだ見つかっていません。

バイオグラフィー Biography
ラディン師はサウジアラビアで大金持ちの息子として生まれました。もちろんイスラーム教徒(ワッハーブ派)です。そして、世界が平和であればラディン師も大学を卒業して父の会社へ就職して働いていたでしょう。しかし、そこへソ連によるアフガニスタン侵攻が始まったのです。

ここで男を見せなければと思い立ったラディン師は、その資金とともにアフガニスタンへ飛び、ムジャヒディンの戦士となったのでありました。

さてさて、ムジャヒディンとはいえ銃で戦うだけが戦争ではありません。ラディン師はこのときにアル・カイダを設立し資金集めや傭兵(失礼!聖戦士)の募集および訓練などをしておりました。

そうした活動が実り、ソ連をアフガンから撤退せしめたのです。そして、ムジャヒディンも解散となり、ラディン師はサウジアラビアに帰還しました。湾岸危機の1年前でした。

ラディン師がサウジアラビア帰還の後、湾岸戦争が始まります。このときアメリカ軍はサウジアラビアに駐留しましたが、イスラームの2聖地がある神聖なこのサウジアラビアに異教徒の軍隊が侵入してきたのです。

これがラディン師にはショックであったようです。しかも、それはイスラームの聖地エルサレムを占領しているイスラエルのバックについているアメリカ軍であったのです。

もともと、イスラームの友人を救うためムジャヒディンになるような人ですから、こういうことをされては黙っているはずがありません。そして、ラディン師は第2の聖戦を始めるのです。ラディン師にはムジャヒディン時代に作ってきたイスラーム・コネクションがあります。元ムジャ・ヒディンの兵隊達を呼びよせ、アル・カイダはCIAの認定によるテログループとなったのです。

こうしてついに、ラディン師は名前の頭に"Sheikh"をつけて呼ばれるようになりました。つまり、ラディン"師"と言うことです。この後、ラディン師はアメリカに対する無差別攻撃による聖戦をしてゆくのです・・・。

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アイマン・ザワヒリ Ayman Al-Zawahiri
エジプト人でエジプトのイスラーム原理主義組織”ジハード”を設立した人です。そして、ラディン師の側近中の側近、つまりアル・カイダNo.2です。

バイオグラフィー Biography
1951年、カイロ生まれのザワヒリは医学の道へ進み、大学を卒業しました。しかし、ちょうどその頃、イスラエルとエジプトが和平協定に合意したことに憤慨し、ゲリラ組織ジハードを設立します。
ジハードはエジプトのサダト大統領を暗殺したグループです。当然、ザワヒリも当局に逮捕されました。しかし、証拠が不十分であったため、別件による刑で3年間刑務所に入ったのみでした。

釈放後は、パキスタンに渡り、ソ連と戦っているアフガニスタン義勇兵の軍医として働いていたようです。この頃、ラディン師と知り合ったのかもしれません。ソ連が撤退するとザワヒリはアル・カイダと行動を共にしていたようです。

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アブ・ムサブ・ザルカウィ野戦司令官 Abu Musab al-Zarkawi
ヨルダン人のムジャヒディンでアフガン帰りです。現在はイラクに派遣された国際旅団”イラク・ジハード・アル・カイダ”を率いています。

バイオグラフィー Biography
ザルカウィ野戦司令官はソ連が撤退したアフガニスタンからヨルダンへ帰還すると、イスラーム原理主義によって国家を運営する事を目的に反政府活動を開始します。

しかし、ヨルダン政府に逮捕され投獄されました。釈放後はヨルダンを離れ、ヨーロッパで活動していた模様です。このため、ヨルダンは欠席裁判でザルカウィ野戦司令官に死刑を宣告しました。

その後、ザルカウィ野戦司令官はアフガニスタンに再び訪れ、そこを拠点にアル・カイダよろしくゲリラの訓練基地を設立し、メンバーを集めていました。この頃、アル・カイダとの関係を作ったと思われています。

しかし、その訓練基地はアメリカ軍によって発見され、ミサイル攻撃を受けてしまいます。この攻撃でザルカウィ野戦司令官も片足を失うという重症を負います。

そして、ザルカウィ野戦司令官はこの基地を放棄し、2001年にはすでにイラクに入っていたと思われます。

ちょうどその頃、イラク(クルディスタン)では本家アル・カイダによってアンサル・イスラームが設立されたため、ザルカウィ野戦司令官もそこへ身を寄せていたと思われます。ザルカウィ野戦司令官はイラクで連合軍やその協力者に対し攻撃を行っていますが、海外の攻撃も彼の関与が疑われています。(スペインの列車爆破やトルコのシナゴク爆破など)

2006年6月7日、アメリカ軍の空爆によって、イラクのバグダッドで戦死したと伝えられました。

 

■この項にて出てきた用語解説
ムジャヒディン・・・ソ連の侵攻を受けているアフガニスタンへ、コーランに基づいてイスラームの友人達を救うため各国のイスラーム信者達が義勇兵として出征しました。彼らはムジャヒディン(聖戦士)とよばれました。アフガン帰還兵の通称はアフガニー。

タリバーン・・・アフガニスタンからソ連が撤退すると今度は内戦が始まりました。この内戦に勝利したのはパキスタンのバックアップを受けたイスラーム原理主義組織のタリバーンでした。イスラームの宗主国であるサウジアラビアはすぐにこの政府を(例え原理主義であろうとも)承認しました。

 

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