第一章
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第一章
四十年荒野路程 ひとつの分岐点として、1945年8月15日の第二次世界大戦終結の時から、本格的な摂理が出発した。それまでは、お父様の個人的な準備時代である。お父様は、1935年、かぞえ歳で16歳の時から、1945年、かぞえ歳で25歳までの9年間を宇宙の根本原理を探求することに費やされた。 1946年、26歳の時から、1952年、33歳の時までの7年間を第一次7年路程として歩まれた。全ての真理を解明して、26歳からいよいよ迎えた年は、第二次世界大戦での天の側が勝利した、最高に準備された年だった。 ヤコブからの四千年間を背景として、世界的勝利へ向けて出発する。これが、第二次世界大戦以後の摂理であった。 二千年間のキリスト教の全ての要素を連合国家が受け継いで、その世界的勝利の基台の上に立ち、七年間で、いよいよ世界的基盤をつくる、有史以来のゴールデンタイムといわれた時がキリスト教の不信仰と民主主義の失敗により崩されてしまった。これは、縦的に積まれてきた四千年の全てがサタンに奪われたことを意味する。この歴史的な全てがサタンに奪われたのが、第二次世界大戦の時の失敗であった。この縦的な四千年を横的な四十年で復帰するという決意で出発されたのが四十年荒野路程である。 1983年3月1日から1985年8月15日は、四十年路程の残された最後の三年路程であった。お父様は三年路程を非常に重要視されて出発される。四十年路程の最後の三年間なので、四十年路程で残された全ての課題に決着をつけようとされたのが、三年路程の決意だった。四十年でやり残した、四千年の蕩減の全てに決着をつけるという、すさまじい決意から出発された三年路程だった。この三年路程の出発にお父様は、「死なんとするものは生きる」という精神でいこうと言われた。命掛けで、死なんとするものは生きるという精神で出発されたのが、1983年の3月1日だった。ここにものすごい圧縮した摂理があった。 (一)荒野終了前の最後の三年路程(1983・3・1〜1985・8・15) (1)韓国勝共決起大会 1983・12・14〜23 お父様は、勝共決起大会を1983年の12月14日から23日まで開催されると発表された。 本来、メシヤという方は、国家基盤から出発する。第二次世界大戦後の摂理は国家基盤から出発しなくてはならなかった。もし韓国が受け入れていれば、韓国を踏み台にして、国連を舞台とするはずだった。 四十年路程に入って、その四十年目を迎え、もう一度蕩減復帰して解放後の摂理に同時性的に戻らなくてはいけない。再臨主はもう一度国家基盤から世界に向かって出発しなくてはならない。この国家が受け入れたという基盤をつくるために、韓国勝共決起大会を全国八カ所で開催された。 1983年9月1日に大韓航空機撃墜事件というショッキングな事件が起こった。269人全員がこの事件で死亡した。その悲劇の傷も癒えないうちに、10月9日、ラングーン(今のミャンマー)で、当時の韓国の大統領、官僚クラスがテロリストによる爆破事件に巻き込まれた。その時、4名の官僚を含めて16人が死亡した。この時、全斗換大統領は、たまたま来るのが遅れて難を逃れた。 この時、韓国国民は共産主義の恐ろしさを悟らされ、意気消沈していた。そのような時に、お父様は、一気に国民を復活させて、韓国を奮い立たせるために、勝共を旗印にして全国を回り、勝共決起大会をされた。共産主義の脅威と韓国の国民が立ち上がるように鼓舞して、わずか十日間ぐらいで一気に韓国のムードを変えた。大成功のうちに、この勝共大会が次々と全国の会場を超満員で埋め尽くしながら行われていった。そして、その勝共というものは、韓国だけの問題ではなく自由圏全体の問題であり、ソ連を中心とした国際共産主義に対して、アメリカも、日本も、世界が脅威を感じているので、勝共運動を通して自由世界を連結できるというのがお父様の作戦であった。かつて、国連を中心にして自由世界を連結したように、四十年目においては、勝共を旗印に、韓国を奮い立たせて、自由世界を連結させた。この勝共運動の勝利が、韓国においては、全国民がそれを迎えたという、国家基準の勝利となった。政府はそれほど賛成していなかった。政府は渋々会場を貸したり、あからさまに反対はしなかったが、それほど賛成ではなかった。しかし、国民の圧倒的支持を受けたので、これをお父様は国家的勝利と認定して、かつて、第二次世界大戦当時果たせなかった、肉的、国家基準での勝利を果たしたのである。このように、自由世界を連結して、世界復帰へ向けて出発されるという計画が勝共大会のなかに込められていた。 ここにおいて、勝共大会からひとつの教訓が与えられている。この勝共大会は、12月14日から23日までという、師走のとても忙しい時期であり、とても勝共大会をするような世間の状況ではないときに行われた。しかもお父様は、12月14日の十日ぐらい前に、急にこの計画を弟子たちに発表された。お父様は突然発表され、すぐに人を集めるんだと言われた。一般的には、千名以上の会場を借りるためには、数カ月前、半年前ぐらいから予約しておかなくてはならない。さらに、会場のためのお金、そして参加者の動員の困難があった。 弟子たちは1984年の落ちついた2月や3月にじっくり準備してやったらどうですか、と進言した。お父様はこれに対して、84年の1月1日に入ってしまってはいけないと言われた。何としてでも83年内になさなくてはならないと言われた。これはお父様の摂理観から来ている。84年は、83年から始まった三年路程の二年目であり、考えられないほどの迫害が来る二年目の年なので、一年目のうちに決定的勝利基盤をつくっておかなければならないというのが、お父様の摂理観だった。二年目には考えられないようなサタンの攻撃が来るということをお父様ははっきりと分かっていた。 なぜ二年目に試練が来るのか、いろいろな理由がある。一つの理由は、二という数字は、円を上下、左右に区切った時の中心を示す数となり、扇子のかなめのように、この、上下の1と3、左右の1と3をつなぐ2の位置を崩せば、全体を一気に崩すこととなるから、サタンはそこを狙ってくるという理由である。エデンの園においても、二数的位置にいたエバが崩れたので、アダムも天使長も崩れた。それゆえ、いつも二数のアベルの位置が犠牲になり、ノアの息子ハムもイサクも二の位置の立場として、厳しい試練を受けた。イエス様も、第二アダムであった。二番目がいつもサタンの侵入と攻撃を受ける。それゆえに、サタンが三年路程を崩そうと思えば、84年を狙ってくる。ゆえに、84年は厳しい年となる。それで何としてでも、83年以内になさなくてはならない。 三年路程の一年目にこの大会を全国民が受け入れ、国家的勝利をすれば、84年を越えていける。当時の韓国の先生方はこのことを理解できずに、大会を開くことは無理ですよ、と言ったところ、お父様は、先生は無理主義だ、と言われた。無理を承知で押し通すということは、つまり時を逃してはいけないということであった。時は二度と戻って来ない。お父様はいつも摂理観から、時を逃さないようにことを進めておられる。それゆえに、摂理を知らないと主体的にみ旨の道は越えられない。お父様の指示には、あまりにも理解できないことが多い。しかし摂理観が明確ならば、越えていける。 お父様は明確な目的を持って、この大会を宣布されたにもかかわらず、また、これは単なる大会ではなく、摂理であったにもかかわらず、信徒は不信し、反対の大合唱をした。幹部たちさえも反対した、深刻な状況だった。お父様は、ICUSの直後に記した小さなメモを見せ、これは神様の命令だ、思いつきではない、と訴えられた。この時のお父様の心境は一人荒野に立つ心境だった。 興進様の犠牲。不信の代価は蕩減の提示である。不信したということは、ただでは済まない。サタンは必ず不信した時に、どう償うのかと、不信の代価を要求する。 モーセ路程の四十年荒野路程において、イスラエル民族がモーセを信じて一体化していれば、第三次の荒野路程は越えていたはずのところ、最後まで出来なかったので、ついにモーセはカナンに入れず、ヨシュアにバトンタッチされた。 同様にお父様と統一教会の信徒が完全に一体化するという、四十年荒野路程の最後の三年間の課題を勝利していかなければならなかった。この三年間において、いかに真の父母と絶対的に一つとなるかが重要であり、その一体化した力でもって一気にカナン復帰に突入するという願いがあった。その試金石がこの勝共大会であった。一見不可能に見える勝共大会を心から受け入れて、完全に一つとなれば越えられた。ところが、その重要な時にみんな反対した。その不信の代価は蕩減の提示である。蕩減するためには、犠牲にならなくてはならない。サタンは、真の父母を最初に狙ってくる。しかし、真の父母様は、摂理の責任を持つの者として、絶対にサタンに奪われない基台を築いているので、サタンは父母様に手を出せなかった。そこで、カインであるキリスト教会に対して、アベルである統一教会、その中でもカインである信徒に対してアベルである真の子女様、その中でも二番目の、アベルの立場である興進様が、不信の代価を背負って犠牲になられた。 興進様の犠牲は1983年12月22日、アメリカ時間で午後9時10分、韓国の時間で12月23日午前11時10分だった。勝共大会の最終日は12月23日の光州大会だった。この光州大会には、霊能者が、皆反対した。それをお父様は絶対に行くんだ、最後の大会を先生がやらずして、どうしてこの大会が勝利できるのかと、命を懸けて行かれた。実際に後で調べると、光州はとても左翼の強いところで、殺し屋が会場に来ていた。ところが会場は大会の始まる前に超満員になり、暗殺計画者は中に入れずに終わったということが発覚した。もしも大会が超満員にならなかったら危なかったという一触即発の中で、お父様を打てないのでサタンは次男の興進様を要求した。興進様はちょうど光州大会が始まるやいなや、アメリカで事故に遭われた。お父様の大会と興進様の事故とは、空間的には何の関係もないが、霊的に見れば、お父様を守るために、興進様は事故に遭われた。興進様の死は尊い蕩減の提示としての犠牲であった。事故の時、ぶつかるトレーラーに向かって、興進様はハンドルを右にきった。それ故正面から衝突し、運転席はめちゃめちゃになった。しかし、助手席にいた祝福の子女様は、怪我はされたが、正面ではなかったので助かった。ハンドルを右にきったという行為は、明らかに意図的に、明確な自覚のうえで、トレーラーにぶつかった行為だった。お父様は後にこの事故の検証をされた。お父様は説教の中で、自分は興進様がハンドルを右にきったということを見たとき、どれほどありがたかったかわかりませんと言われている。興進様がなくなられることによって、二人の子供が助かった。イエス様が亡くなられた時は、二人の強盗、すなわち、自由圏と共産圏を象徴する右側の強盗と左側の強盗は共に十字架にいた。しかし、興進様は自分が犠牲になって、二人のお子さまを助けたことによって、自由圏と共産圏が統一される道を開かれた。お父様は世界的な民主、共産を助けた尊い犠牲であるという評価をされて、統一式をされた。このようにして、お父様は愛勝日を宣布された。 「愛勝日の宣布」 1976年10月4日に、9月18日のワシントン大会の勝利をもって、「天勝日」を宣布された。神の勝利した日はそれまであったが、神の愛が勝利した日はなかった。天の勝利とは、あくまでも、カイン・アベルの勝利であった。「天勝日」から八年目の1984年、1月3日に、「愛勝日」が宣布された。お父様は数理的な背景を見つめられて、84年の1月3日午前4時に宣布された。1+3+4=8なので、八年目に再出発の数である八数の背景をもって、「愛勝日」をいう重要な日を定められた。 堕落以来、間接主管圏はサタンに奪われて、死亡圏になってしまった。死とは、サタン主管圏の世界のことである。生命の世界とは神主管圏の世界である。死亡圏の特徴は、死というものが、堕落した人間にとって恐ろしいものとなったということである。歴史上どんな権力者でも死を恐れた。また、最愛の者が死ぬということは、これ以上の悲しみはない。堕落人間はこの死の恐怖と死の悲しみに覆われて、間接主管圏を悲惨に生きてきた。 興進様は地上界から霊界へ通過するときに、本来の手続である真の父母の門を通過して霊界へ入った。普通の人々は漠然として死に、霊界へ行くので、霊界に行ってしばらくはうずくまっている。そして一体これからどうなるのか不安に怯えている。このように悲惨な立場で霊界へ行っているのは、正しいルートを通らずに行くからである。霊界に行っても自分のなすべきすべが分からないような死が悲惨な死というものである。しかし、興進様は地上で初めて真の父母のあふれるばかりの愛を受けて、完全に一体となった心境を十七、十八歳の年齢でつかまれた。興進様は人類史上初めて、父母の門を通過して、直接に神の懐に帰って行かれた。そのことによって、間接主管圏と、直接主管圏が連結された。今まで死亡圏であった間接主管圏と直接主管圏との永遠の断絶が、連結される道が開かれた。この連結は、興進様の勝利によってもたらされた。 死亡圏とは、死の恐怖であった。興進様は死の恐怖を真の父母への愛で越えられた。死の恐怖以上に父母様を愛する愛、お父様のためだったら、この身を捧げてもいいという父母様に対する愛によって越えていかれた。 しかし、この尊い興進様の犠牲だけでは、愛勝日を決定することはできなかった。父母様がこの死をどう受けとめるかによって、天地の差ができる。ちょうど、イエス様の十字架のように、どのような心情で十字架を越えたのかということである。もしも、その時、イエス様がわずかでも恨みや後悔を残していたら、十字架は失敗だった。最後まで神を思いながら、捧げていくイエス様の心情的な勝利が十字架の勝利だったように、この尊い興進様の死に対して、どういう心情で受けとめるかが戦いであった。 悲しんだら死亡圏に負けたことになる。死の悲しみ以上に、これは神の栄光の瞬間であるとして、それ以上に、神を愛する戦い、結婚式の喜び以上の喜びの心情で越えなければならなかった。眼前には、最愛の息子を失うという断腸の思いでありながら、しかし、歴史的な勝利を宣布するためには、そういう心情圏を越えないとサタンがザン訴する。サタンとの戦いであった。それを完全に越えたのが、この愛勝日だった。 今までサタンは、死の悲しみと死の恐怖、すなわち、死の権勢を持って、間接主管圏を覆っていた。しかし、興進様の尊い犠牲と父母様の愛の勝利によって、愛の権勢が死の権勢に打ち勝ったこの瞬間が、まさに愛勝日であり、完全なるサタン不可侵圏がこの地上に設定された。サタンに主管された間接主管圏を取り返した。今までは、葬式しかなかったし、統一教会も特別な儀式はなかったが、この勝利から、昇華式という恵みが与えられた。祝福家庭も、昇華式を行わなければ、霊界に行くすべがない。この昇華式は霊界へ行く正しいルートを与えてくれるので、そのまま神の世界へ入っていける。このような恵みの道が興進様によって与えられた。 地上の間接主管圏でありながらも、愛勝日の勝利を中心にして、真の父母の主管圏には、サタンは指一本侵害できない。ゆえに、私たちが地上において何よりも父母を愛するという愛の一体化をなした時には、もはや死亡圏はなくなった。地上界においても、サタン不可侵圏はできた。しかし、それはまだ全世界ではない。これから統一教会という圏内から世界的にこの間接主管圏を取り返していかなくてはならない。今は、父母様を愛し、父母様と一つになっている群においては、サタンが侵害できない不可侵圏が地上にできた。だから、今年の年頭標語に「真の父母を誇り愛そう」とあるように、真の父母を愛し一つになればなるほど、サタンの主管圏から離れていく。そういう領域が設定されたということは偉大な勝利であり、お父様も、毎年、その偉大さを説教される。1月2日が昇華式で、1月3日が本来の愛勝日であるが、いろいろと行事的なことがあるので、お父様はある時から1月2日にまとめて愛勝日を祝われている。毎年の愛勝日の祝賀と説教の背景には、こうした偉大な勝利があったのである。 「愛天日」の宣布 1981年10月15日、お父様は脱税容疑で起訴された。宗教界であれば、誰でも教祖の個人名で銀行口座に振り込むことがある。統一教会において、お父様の名前で口座を持っていても、当然個人の資産ではないのに、それにかかる税金を払っていないということで、脱税容疑を不当にかけられた。このような陰謀としか言い様のない容疑で、81年に訴えられて、82年の7月16日にニューヨーク州の連邦地方裁判所で有罪判決を受け、懲役十八カ月と罰金二万五千ドルというとんでもない判決を下された。そこで上告した。ところが84年の5月14日に米国邦裁で有罪判決を受ける。これ以上は上告できない決定的な裁判だった。5月14日から16日までの三日間は、イエス様が十字架に架かって、三日間地獄に下った墓中三日間に匹敵するような三日間だった。 サタンはイスラエルの不信仰によって、イエス様の肉体を要求した。それでイエス様は十字架に架けられた。しかし、それをどういう心情で越えていくかということが課題だった。お父様も弟子たちの不信仰の全てを背負って、地上地獄ともいうべき牢獄へ行かなくてはならなかった。地獄の境地を通過され、この有罪判決の十字架をどのような心情で越えて行くのかということが問題となった。いつも戦いは心情的な戦いである。サタンが指一本ザン訴できないような心情的勝利が必要である。アメリカを審判したくなるようなところを、こらえて、全てを消化したのか愛であった。アメリカの過ちは、私の過ちである。私が責任を持ってこのアメリカを救います。そのアメリカの過ちを私は許して、このアメリカを愛していこう、アメリカを救っていこう、という決意をして神に宣布したのが、「愛天日」であった。こういう背景を持って、5月16日、午前0時54分に「愛天日」を決定した。子女と父母が愛によって勝利した偉大な勝利圏が「愛勝日」と「愛天日」であった。 「開天日」の宣布 1985年の2月1日、お父様は「開天日」を宣布された。「愛勝日」と「愛天日」はあくまでも、興進様を愛し、真の父母様を愛するという統一教会を中心とした原理圏内の救いであった。「開天日」は、ダンベリーの中でなされた。初めて、地上地獄を象徴する囚人達に、神の愛の光が差し込んだ。無原理圏内の人々に対しても救いが広がった。一言でいえば、「開天日」によって、地獄から天国へ至る光のハイウェイがつくられた。ただ真の父母を信じるというわずかな条件で、地獄にいる囚人のような人々にも、天国へ行く道が開かれた。もしダンベリーがなければ、このような勝利もなかった。サタンは真の父母様を牢獄に追いやったと思っていたが、そのおかげでとんでもない勝利が決定されてしまった。最悪を最善に変えて、むしろ、このような地獄の人々の救いまでも開かれたのが「開天日」であった。 この3年間は、とても密度の濃い期間であり、摂理の圧縮した時であり、統一教会の歴史においても、永遠に忘れることのできない記念日と勝利の内容が打ち立てられた。この三年路程をいよいよ越えていく最後の路程が1984年の7月20日から85年の8月20日までの十三カ月間のダンベリーであった。84年は三年路程の二年目であり、厳しい年になると言われていたが、確かに厳しい年となった。興進様が84年の1月2日に昇華された。子女様がこういう形で霊界に行かれるとは、想像もしなかった。最愛の息子を失うという悲惨さを愛勝日で越えていかれた。その後に、今度は7月20日からお父様御自身がダンベリーに行かれたというのが、84年の内容だった。メシヤ家庭にとっても、アメリカにとっても、また統一教会全体にとっても、非常に困難な84年という三年路程の二年目を一つ一つ御父母様は責任を持って越えていかれた。そして最終的に、「一勝日」の宣布を迎えることになった。 「一勝日」の宣布 四十年荒野路程の最後の決定をつけるために、83年3月1日から「蕩減と悔い改め」というアメリカでの説教で、三年路程を出発された。韓国においては、4月3日に「全体蕩減」という説教をされた。この「全体蕩減」のみ言で、三年路程の精神を刻銘に述べられている。み言から出発して、1985年の8月15日に、「愛勝日」、「愛天日」、「開天日」そしてダンベリーの勝利をもって、四十年荒野路程を総清算した三年路程を終え、蕩減して、復帰して、全体蕩減復帰を完成した。四十年荒野路程を終えた次の日、8月16日に「一勝日」を宣布した。「一勝日」は全体的な勝利を意味する。すなわち、「全体蕩減」から出発して、全体蕩減復帰完成をして、全体的な勝利をしたのが「一勝日」である。四十年荒野路程の全ての背景を越えて、ここに「一勝日」を宣布した。その後、同じ8月16日に、「聖水式」がなされた。生水を特別に祈って聖水をつくられた。この聖水を父母様が子女様に飲ませられた。これは、四十年荒野路程を完全に勝利したという父母様の勝利圏を子女にまず相続して、その後、祝福の子女へ受け継がせる儀式だった。ここから本格的に二世時代が到来した。真の子女様を先頭にし、祝福の子女達がいよいよこれから先頭を切っていくことになる。その起点となっているのがこの8月16日の「聖水式」であった。さらに、お父様がダンベリーを出られた8月20日の午前0時、日本時間では8月20日の昼の12時にあわせて、「聖水伝授式」が行われた。前日の8月19日にアメリカから聖水の種が届けられた。全国から一斉に各総務部長が集まり、届けられた聖水の種を持ち帰った。そして各地でそれを増やして、昼の12時に、お父様がダンベリーを出られる時間にあわせて、「聖水伝授式」を行った。夫婦で聖水をいただいて、敬礼した。人体の三分の二は水分である。祝福によって血統は聖別されたけれど、原罪は清算されたけれど、俗世界に住んでいて肉体は汚れている。体の三分の二は水分だから、祝福家庭を心身ともに清めるという意味で、この聖水をいただいた。 参考に見てみると、モーセ路程においては、ヨシュアを先頭に、内的イスラエルが一体となって、カナン復帰をした。現代においては、ヨシュアの立場にある真の子女様を先頭にして、内的イスラエルの立場にある祝福の子女が一体となって天国創建へと出発した。外的イスラエルとは荒野で死んだ一世のことであり、荒野で生まれた二世が内的イスラエルである。モーセ路程においては、一世はヨシュアとカレブを除いては全て死んでいった。しかし、現代の摂理においては、父母様の愛によって、祝福家庭も聖水をいただいた。統一教会の一世は、二世を支えながら、二世と一体となって、現代のカナン復帰に向かっていくように、一世に対しても、救いの道が与えられた。父母様のこのような恩恵がなければ、一世は荒野に倒れるという歴史の再現をしていた。モーセと民族が一体化しなくてはならなかったことと同じように、勝共摂理において、真の父母様と統一教会の一世達が一体化しなくてはならなかった。その不信仰によって、興進様が犠牲になられた。もしもあの時に、興進様の犠牲がなかったら、完全に、統一教会の幹部から始まって、一世が打たれていた。全て打たれて蕩減しなければならない不信仰を、興進様が代わって全ての統一教会の責めを御自身が背負っていかれた。その恩恵によって、私たちはサタンから責めを免れて、この聖水を受けて、新しい出発を許された。現代のカナン復帰は天国創建でもある。もう一度天国に向けて出発した。8月20日に聖水式を受けて、さあ出発だと言われた。お父様はダンベリーで十分に準備されていた。ダンベリーを越えた勝利圏を子女様、祝福の子女様、祝福家庭に伝授して、9月から12月まで、総動員伝道して父母様の勝利圏と恵みを全世界に伝えていくんだと、全体動員のみ言が与えられた。1986年1月1日神の日に、「天国創建」という先頭標語から全く新しい出発がされた。ここから、四十年荒野路程を終えて、ヨシュアと内的イスラエルがカナンに入っていった路程にいよいよ入っていった。それゆえ、年頭標語でも「天国創建」から出発した。それまでは、アダムとエバの堕落以来、四十年荒野路程が終わるまで蕩減をテーマとした、蕩減復帰歴史であった。それが、「一勝日」以降、四十年荒野路程時代に全体蕩減復帰完成をしたので、カナン定着時代を迎えた。 |