文学雑誌「メランジュ」日本語web版 |
メランジュ第4号 2001年12月 編集者より 詩
On the Way Home(家路・英) We・21st Century・Youths(僕ら・21世紀・若者/英) マルチリンガル・ページ: |
エッセイ
それで次にそのオークランドでの第一印象が意味するのは,どうしてこのアジア人たちはこの国に「祖国を捨てて」やって来てるんだろう,彼らは自分の国に貢献しなくていいの,っていう,ある意味保守的な自分の一面に気づかされたともいえる反応。ニュージーランド人の英語教師ヒラリーにyou're part of it(あなたもその仲間でしょ)って言われてしまったように,自分は日本を飛び出して異国の地で1人で挑戦しようという思いでこの国に来た,だけどいざ来てみたら同じようにニュージーランド来てる日本人・アジア人がうんざりするほどいた,一都市の景観を変えてしまうほど。
その,一人ひとりは個人の自由意思で「動く」こと,それは自由主義からして制限すべきじゃない,と理屈上では思う,だけどその個人の意志が集団となって移民が組織化されてくると,社会への影響っていうのは無視できない。ある本の一節にMigration is a no longer marginal issue(移民はもはや一部の地域に限られた問題ではない)ってあったのはそのことだったんだって随分後になって気づいた。
日本のことに立ち返って考えると,凄いことだと思う,日本はまだまだ大規模に受け入れてるとこまではいかなくて,それでも都内のイラン人グループとか私の出身県内でもブラジル人移民が問題として取り上げられエルクラノくん殺害事件っていうのがあったり。
移民が犯罪というか社会問題に結びつく根拠なんてないはずだけど,ニュージーランドでも日本でも関連づけて語られてるとこあるよね,Go home!帰れ!とか,実際そういう人たちに浴びせられた罵声って,祖国を離れている身にはひどいって思う,だけど自分がいざ日本にいるhost(受け入れ側)の立場から考えてみると,或いはそのオークランドでの印象のように,どうしてわざわざ海外に,こんなところで居を構えようとしたんだろうっていう思いが生じるのは否めなくて,裏を返せば帰るのが筋,人の道って言ってるみたいなものかも…なんて自己矛盾を感じたり。
だからオークランドから帰ったあと,この国の大学行って学位を取りたいという「最後の我が儘」は叶えようと必死になってたけど,それさえ終われば日本に帰って自分の生まれ育った国のため,社会の為に働こう,貢献しようという思いが強かった。自分だけはブレーンドレーンの一味になってたまるものかと,そういうエリートに対する反発みたいなものもあって。
だけどそこでまた私はさっきの本の文章に揺さぶられてしまった。(external) migration(海外移住)っていうのは,現代国際社会が不作法に引いた国境をまたぐことで成立しているだけで,そんなものは何の意味にもならないという議論。アイデンティティとか愛国心なんてものは中央政府から押しつけられ人為的に作られたものだという説,学校なんかで教える歴史は支配者の都合のいいものに過ぎない,などなど…うーん,とまたそこで考え込んでしまった。
ニュージーランドは英国からの移民で人為的に作られた,英国の雰囲気をそのまま南太平洋にごっそり持ってきた,人工的な国家。でも日本は欧州の他の国々みたいに,元から存在していた国民で作られた国,と大別することは出来る。日本は元々ここにあって人為的に作られた国なんかじゃない,と。移民を退ける国,閉鎖的っていうのはそこから来てるかも知れない,その旧英国植民地なんかとは違って。
…だけど,じゃあアイヌ民族や琉球王国はどうなるの? イギリスのNew Internationalistという雑誌に,日本はアイヌ語を学校で教えない,と(暗に)批判的に書かれていたのを読んで,それはちょっと違う,そりゃ外国人の目からはそう映るかも知れないけどそれは不自然だよ,マオリ族は先住民族だから近年のこの国のような動きがあってもいいかも知れないけどアイヌは日本全土を代表してるんじゃなくて蝦夷にしかいなかったんだから,その地域の人は別として日本全土でアイヌ語を教える必要があるというのは筋が違う,と前号うちの雑誌でインタビューに応じてくれたロビーの宿題でムキになって書いて抗議してた覚えがある。
でも,そのさっきのマオリ族もこの国に移住した移民だという話もあるし,彼らだって全国均等に住んでいたわけじゃなかったみたいで…戦後になって工業化が進んで都市に移り住むようになった,これも「internal」 migration(国内移動)。日本に立ち返って考えてみればそれもまた良く解るんだ,外国人,よそ者は受け付けない,だけど国内移動ってのはあるわけで。みんなで東京に集まってきたりで稼ぎに出たり逆にIターンっていうのもあり。日本人ならいいけど外国人だからだめっていうのも,その本の一節にあったnation-states(政治的国家と文化的民族は一致すべきという国家観)の無意味さから考えればおかしなことで。
…そういわれてみると確かに思い当たる節はある。前回私が課題の為調べたものの中に2世移民は自分のことをニュージーランド人と思ってはいるけど自分がその血を引いてることに誇りは持っていたりするという話,自分のことに置き換えられるのかも。時々自分のことを大阪人のクウォーターって言ってみたり,両親はどっちも名古屋市生まれ名古屋市育ちだけど,自分は名古屋人っていうよりも名古屋市のお隣,自分の生まれ育った日進市民という意識の方が実は強い…スケールはやたら小さいけど,要はこういうこと?
同じ国の中だって,こういうdifferentiation,差違が存在してる,それを「日本」という1つの国にまとめ,日本語を制定したのは,間違いなく遠く離れた東京にある中央政府なわけで,それでいて私が日本のために働こう,とするのは,まんまとお上の思うつぼにはまったようなもの?
本当は日本,とりわけ名古屋付近に帰りたいんだけどね。自分が十代後半お世話になってたNGOとも繋がってたいし,今度こそ名古屋市内に住んで名古屋市民になってみたいな,なんて。今もそれは第一希望だけど,如何に「社会」っていうのが脆く曖昧なコンセプトか,その中でそんな社会の為に必死に働こうとする自分って…?と解らなくなってきてしまったのが,最近私の中でぼんやりと溜まっていた思い。いつの間にか夢中になって書いていたら,夜がすっかり明けてきてしまったみたい。
蟹江 恵貢観(めぐみ,メランジュ編集部)愛知県日進市出身。現在ニュージーランドにあるインターナショナルパシフィック大学国際総合学部国際総合学科に在籍し,学際的手法を取り入れた学習に取り組んでいる。 当雑誌には通例ペンネームで作品を寄せている。このエッセイは普段よくつけている雑記メモに書かれたものから採られた。
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