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メランジュ第5号2002年6月 詩 リレー小説 |
リレー小説 カフェ・エバーグリーン(3) グレンはドアの前でほんの僅かだけ立ち止まって,少しだけ息を吸ってから,ドアを勢いよく開けた。ドアに掛かった看板には「カフェ・エバーグリーン」の文字。 「今週に入って懐かしい顔がどんどん戻ってきて店も大忙しさ。何しろ大学生でもってるうちのカフェだから」 ここは授業後の学生たちの溜まり場になっている。僕のようなキーウィだけじゃなく,この大学には沢山の留学生が世界各国から集まり,このカフェに集う顔触れも様々だ。店長のヴァーデンも実はアイルランドから来た移民だ。そして,アイリーンも──上海から。 大学で見かける多くのカップルがそうであるように,僕らも講義で顔を合わせ,このカフェ・エバーグリーンで親睦を深め,惹かれ合うようになった。講義で解らなかったことを話し合ったり,試験前には毎日ここで一緒に勉強したり,─そして,勉強以外のことも。 彼女はとても賢く,幼い頃からここニュージーランドに住んでいるので英語は完璧。むしろ僕の方が講義の内容について教わることが多い。そして何よりも,勉強以外の話題になったときに現れる笑顔が,僕は一番好きだ。この休みの間,僕は一瞬たりとも彼女の笑顔を忘れたことはなかった。 しかし,休み中に起きた悲しい出来事が,彼女の掛け替えのない笑顔を曇らせ,2人の間に影を落とした。それから今まで彼女には1度も会っていなかった。彼女は今どんな気持ちで,どんな顔をしているのだろうか。そして僕は,どんな顔をして彼女に会えばいいのだろうか。 僕はエスプレッソのカップを持って,僕らがいつも腰を下ろす,店の奥の隅の席へ向かった。ここは僕らみたいな長居を目的とする連中が,心おきなく話し込むことができる場所だ。 席に近づくと,彼女の笑い声が聞こえてきた。アイリーン。そうだ,初めの一言は何て言えばいいんだろう─例の事件大変だったろうって言うのは悪夢を蒸し返すだけでだめかな,それじゃ何事もなかったようにすればいいかな,でもそれじゃあまりに無神経…。 角を曲がって僕の目に飛び込んできたのは,僕らの指定席で楽しそうにお喋りをしているアイリーンと,見慣れないアジア系の男だった。何を話しているのか全く聞き取れない。中国語だ。彼女に少しずつ教わり始めたものとはあまりに速さが違って全然解らない。 グレンは今まで自分がどれだけ彼女のことを思っていたかも一瞬飛んで頭の中が真っ白になった。 中国人にしては背の高くすらっとした色の白い優しそうな男。とても優しい目をしてる。物腰が穏やかで誠実そう。優等生。浮かんだその言葉に自分で嫌気が差した。アイリーンの助けでやっとの思いで昨年単位を取れた自分には,何だか虫酸の走る響きだ。 次に浮かんだ言葉は「嫉妬(ジェラシー)」だった。妬いてる? そんなはずない,僕らは恋人同士なんだ,こんな見たことのない新参者とは訳が違う,これまで,そしてこれからも,こんな奴なんかよりも沢山話して,笑って,遊んで,そして,将来の約束をして…。 そのときにあのフィッシュ&チップス店襲撃事件と,電話の向こうでそれを伝える彼女の涙声が思い出された。「アジア人だから」「あの人たち,故郷(くに)に帰れって叫んでるの」 グレンは弱小な自分の力だけではどうすることもできない壁を目の当たりにして目の前が真っ暗になった。僕たちは根本的に違うのか。解り合えないのか。目の前の2人のようには…? こちらへやってくるグレンの姿に気づいて,アイリーンは手を挙げた。 「アジア人の男の方が気が合って,何でも気兼ねなく話せていいだろう。話す言葉も同じ,肌の色も,髪の色も,目の色も,そして文化だって…」 「グレン,他の誰でもなく,あなただけは解ってくれてると思ってた。私たち家族が何の理由も根拠もなくあんなひどい目にあって,どれだけつらい思いをしたか,そして私はあなたがいるから,あなたみたいなキーウィがいてくれることを心の支えにして,この休みの間立ち直ろうとしてきたし,お父さんにも何度もそういって,ようやく元気を取り戻してくれたのに…私は,あなたに心配かけないようにと思って,滅入る気持ちを精一杯こらえて笑顔で迎えてあげようって,ずっとそう思ってたのに…」 アイリーンの目からこぼれ落ちる涙を目にしてグレンはようやく我に返った。 |
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