小説
アドニス・ブルー(4)
メグ=グレース
第2章(上)
「ねぇ徹,Jeanneは何処に行ったの?」
思い出したようにきららは徹に訊いた。
昼下がりの映画館。
1本上映が終わって皆席を立って出ていく。
「何処って…知らないよ」
「知らない? あんた友達でしょ? あんたの家に住んでたんでしょ?」
「そうだったけど,突然あいついなくなっちゃったんだ,探したけど,何処にもいなかった」
「ふうん…あと一目に彼に会ってたら,あたし,彼に恋してた」
「えっ…」
徹はまじまじと彼女の顔を見た。
「さ,もう行きましょ」
彼女は彼の手を取って立ち上がった。
「でも判ってたの,あの子はあたしを好きになってはくれないって。
今のあの子の心はまだどの女にもなびかない」
「ねぇ私と結婚しない?」
女は彼の薬指に指輪をはめ,自分の左手の甲をかざして見せた。
「これ私がデザインしたの,ね,ステキでしょ?」
「…あぁ」
彼は幸せそうにけらけらと笑っている彼女の顔を見る。
こんな女の顔を幾度目の当たりにしたことだろう。
2人はまた幸せな一夜を過ごした。
真夜中に足を忍ばせて出ていこうとした少年に気づき,女は全身で彼を捕らえた。
「この私から逃げようとするなんて」
彼女は彼を彼女の家に監禁した。
重い鉄の鎖が彼の手足に繋げられた。
「私たちはここで死ぬまで一緒になる運命なの」
恍惚の微笑を浮かべる彼女を,彼は冷めた目で見ていた。
3日後,彼の姿は彼女以外開けられない錠のかけられた部屋から消えていた。
頑丈な手錠も鎖も,傷痕1つ残さずきれいに取り外されていた。
「Jeanne,この私の元を去るというのね,何ヶ月も一緒にいたというのに…あの日電車の中で出逢ったときから,どれだけ私が貴方のことを愛してたか…」
彼女は発狂していた。
全裸で外へ飛び出すと,裸足のまま彼の名を呼び走り続けた。
1粒の小石が川面に落ちて音を立てた。
そのあとには波紋が広がる。
彼がもう1つ小石を川に投げ込もうとしたとき,その後ろから鋭いカーブを描いて彼の目の前の水面を小石が走った。
「そんなんじゃ駄目だよ。石投げはこうやってやらなくちゃ」
それが由尋(ゆうじん)との出会いだった。
由尋は彼に住む場所がないことを知ると,自分の屋敷に彼を連れていった。
中世の古城のような巨大な建物が彼を圧倒した。
建物に到着するまでに何処までも続く広大な庭にあまり見かけない植物たちが植えられている。
由尋の後について歩きながら,彼は辺りを物珍しそうにきょろきょろと眺めていた。
豪華な玄関をくぐると,老執事が若旦那とその友達を迎えた。
「お母様が坊ちゃんの帰りを今か今かと待っておられます」
彼は迎賓館へ通された。由尋も一緒だ。
息子の帰宅と来客を聞いて,母親が顔を出した。
「まぁ由ちゃんお帰りなさい,学校はどうでした? ちゃんとお勉強してきた?
あらそちらのお客様は由ちゃんのお友達?」
そういってこちらを見た彼女の目と,そのとき顔を上げた彼の目が合うと,彼女はその場に立ち尽くした。
──また可哀想な女に会ってしまった──
彼は思った。
「あ,あぁ,由ちゃん…こちらの方は…学校のお友達?」
彼女はそれだけを言うのがやっとだった。
「ううん,今日そこの川岸で会ったんだ。絵
描きらしいんだけど,住むとこないそうだから僕の部屋に泊めてもいい?」
無心な由尋は何も気づかず答えた。
それを聞いた彼女の目がぱっと輝き,その頬は著しく紅潮した。
「まぁ,そんなこと! 勿論だわ!
由ちゃんのお部屋だなんてとんでもない!
一番大きなお客様用の寝室を用意させていただくわ。でご夕食はまだでしょう? 今から支度するわ。
由ちゃん,…あぁ,絵描きさんだなんて,何て素晴らしい方を連れてきてくれたの。
このお客様を大事になさい,由ちゃん,いつまでもこの家にいて下さって構わないわ。この方のために特別なアトリエを用意しましょう,これから毎日絵の勉強ができるわ。それから…」
彼女は喋りながら迎賓館を後にした。
「お喋りな母さんでごめん」
由尋は呆れるように言った。
「母さんの趣味は絵を描くことなんだ」
「屋根のあるところで寝られるだけでも有難いのに絵描く場所まで与えて貰うて何も文句ある筈ないやろ」
彼はその場に流れ始めた炎に気づかないふりをしていた。
その夜は特別に用意された部屋ではなく,由尋の部屋で2人は話し込んだ。
疑いの心など一点たりとて存在しない由尋の瞳に,彼も不思議と打ち解けて話すことができた。
彼が用意された寝室に入ってベッドに潜り込んだのは夜が白々と明け始めた頃だった。
翌朝彼が起きたときには,由尋は既に学校に出かけていた。
部屋のドアを開けた彼に,下女が新品の白い服を差し出した。
彼にはそれが有無を言わせぬように感じられた。
彼がそれを受け取ると,彼女はその場を離れた。
彼はその服を着て部屋を出て長い廊下を歩き始めると,何処からともなく由尋の母親が現れた。
「まぁ今お目覚めになりましたの! さぁこちらへいらして,ご朝食を差し上げますわ」
案内されて彼が昨日迎えられた迎賓館に再び入ると,主客の席に通された。
席には既に,しかしできたての朝食が用意されていた。
とても1人前には思えない量と豪華さ。
「さぁいくらでもお召し上がりになって」
そう言うと彼女は自らもすぐ傍らの席に着いた。
彼が朝食を口に運び始めると,彼女はその様子を幸せそうに見つめていた。
「あの,奥さん」
「あらやだ,奥さんだなんて。鞠映(まりえ)と呼んで下さらないかしら」
「はぁ」
「それと,それから,その,ご朝食をお召し上がりになられた後に,あの,早速ですが,お話ししたいことが…」
「絵の話?」
「そう! そうなんでございますの,まぁ何て勘が良くて,頭の鋭い方でいらっしゃるのかしら。
それで,あ…あの,もしよろしければ,お名前を…」
「俺の名前?」
「あの,その…先生とお呼びさせて頂いてよろしいかしら?」
彼は顔を上げて彼女を見た。
その視線に彼女はすっかり昂揚している。
中年の女性と,息子と同い年の16歳の少年。生徒と先生と呼ぶにはあまりに滑稽な図式だ。歳に見合わずはしゃぎまくっている女。
「別にいいけど」
彼は高まっている彼女の波長に取り合おうとせず答えた。
「まぁ嬉しいわ。それじゃこれから先生とお呼びさせて頂きますわ。ねぇ先生,どんなことでもお訊きになって」
彼は朝食を食べ終えた。「ごちそうさま」
「あらもういいの先生,そんなに遠慮なさらないでどんどん召し上がって」
「いや,いつもこんなに沢山食べ慣れてないので」
そう言うが早いか,食卓の上は家政婦の手によって片づけられていた。
それから彼はアトリエに通された。
そこは,大きく開けられた窓から入るまばゆい陽射しに満たされた,だだっ広い,殆ど何もない空間だった。
「それじゃ奥さん」
「鞠映とお呼びになって」
「あぁ,そう,じゃ鞠映さん」
「何ですの,先生」
「あの…ご主人様はどちらにいらっしゃるんですか」
浮かれていた彼女の表情から血の気が一瞬引いたが,すぐに満面の笑みに戻った。
「主人は帰ってこないわ」
「そうなんですか」
「今ロンドンに駐在してるの。でも休みになってもここへ戻ってくることはないわ」
「それは…」
「それは時間の問題でもお金の問題でもないの。私はもうあの人を待つことはないわ」
「あの…」
「あの人は何も知らない。私が絵を描いていることも,由尋がどんなお利口さんに育ってるかも,私が何を一番大切にしてるかも」
そこまで早口にまくし立てると,息をついて,そして笑顔で彼を見つめた。
「先生,そんなこと何もお気になさる必要もないわ。
先生はただ,由尋が学校に行っている間,私に絵を教えて下さればいいの。
下の者も入れさせず2人だけで」
「鍵を落とされましたよ」
彼は顔色を変えることなく言った。
「あら先生,そんなことまでわざわざ教えて下さるなんて何て有難いこと」
鍵を拾い上げながら,彼女の視線は,アトリエ内のカンバスや画材道具を見ている彼の綺麗な瞳から離れなかった。
昼食後の描画指導からようやく解放された頃に,由尋が帰ってきた。
「ただいま。どう?住み心地は」
Jeanneは苦々しく笑った。
「こんなに至れり尽くせりされるとちょっと窮屈や,こんなにきれいな服だと落ち着かへんし,いつも屋根のあらへんとこで気ままに暮らしてきたさかい,ちょっと外に出て息抜きせなやってられへん」
首をすくめて薄汚れたコートをつかんだ彼に由尋は言った。
「僕もついてくよ」
由尋は賢い子だった。
1度説明するだけで何もかも完璧に理解し,身に着けるのも早かった。
彼はJeanneが絵を描いている横で見様見真似にコンテを掴み,その場でそっくりに描いてみせるのだった。
「手先も器用なんやなぁ」
「でもあまり役に立たないよ」
「何で?」
「鋭い破片は生きにくくなるだけ」
「ふうん」
「触れるとケガするから,誰も持て余し始める。学校も,面白くない。
母さんは僕が,父さんと同じぐらいかそれ以上に立派になるのを──医者とか,外交官とか,弁護士とか,科学者とか,IT技術者とか──心待ちにしてるけど,僕は何にもなりたくない」
「何も?」
「1つだけ言えば,君みたいになりたい」
由尋はそう言って汚れのない笑顔を見せた。
「あ,そうそう,風に吹かれるあの落ち葉になりたい」
そう言って彼は舗道にひらひら落ちる木の葉を描き始めた。
「教室で先生に質問するんだ,教科書に載ってないこと。
だって教科書のお決まり文句暗記するだけが勉強じゃないから。そうすると─」
「そうすると?」
「大抵の先生は,答えられなくてバツが悪くなって怒り出す。
理屈の通らないこと言って,僕の質問を馬鹿げてると取り下げようとする。
若い女の先生なんかは,終いには泣き出したり」
「他の子たちは?」
「僕がまた面倒くさいことふっかけてるって相手にしない。
みんなの興味のあることは,そういうお偉いさんになることと,そうなってお金を稼ぐことだけ。
みんなや周りの大人たちは,僕の脳のしわにしか関心がないんだ,もっと言えば,それが幾らお金を弾き出してくれるか」
Jeanneはいつの間にか目の前に広がった虹を描いていた。
彼らが外に出る直前に止んだ雨の落とし物らしい。
「Jeanne,その空,きれいだね」
「ええ青空やな」
「うん。
──僕いま,空がこんなに高いことに気づいたよ。
広くて,果てしなくて,何処までも高くて──蟻とそんなに変わらずちっぽけな僕ら。
ねぇJeanne,君のお陰で何も考えず空を見上げられるようになったよ──それが空に限りなく近づいて,1つになれる方法」
(下に続く>>)
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小説「アドニス・ブルー」
序章
第1章(上・下)
第2章
第3章
第4章
終章
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