SARSで日本に預けていた小僧がもうすぐ香港に帰ってくるころ、夕食後に新聞の広告を見ながらちらっと、「BKK行きのチケット880ドルだってー。これって規定額の買い物してレシート見せたら買える特殊チケットかなあ」と言っただけなのに。
翌日、職場に電話がかかってきた。
「3人で買ったら880ドルだって。2人なら1000ドル。木曜日午後発月曜日午後のキャセイが空いてるから、木曜半休と金曜月曜の休みを取りなさいおーむおーけー?」
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といわけで小僧が戻る前、身軽なうちに急いでバンコク、の記は
こっちに書いたのだが、行く前に以前のタイ旅行をいろいろ思い出してしまった。前回タイに行ったのは、もうずいぶん前のことだ。99年の9月。ちゃらっとバンコク、まともなホテルで優雅に過ごし、列車でアユタヤへのデイトリップに出掛けた。その前は98年1月。入社して半年も経っていないのに、ぬけぬけと12連休をとってピーピー島を再訪してしまったという厚かましさだ。長旅から帰ったところで、常識がまだ戻ってなかったのね。えへえへ。
タイには思い出がイロイロ有る。だいたい初回からして他人のエアチケットの半券で行ったのだ(何かの法律違反)。友人がエアインディアの成田-バンコク便を余らせており、成田まで一緒に行ってチェックインしてくれた。ノーチェックで通関、搭乗。のどかな時代である。帰りはビーマンで帰った。バンコク-成田だというのにシンガポール経由便、しかもストップオーバー不可。一年オープンで9000Bでは文句も言えまい。国際線なのに自由席という飛行機のに乗ったのも、これが最初である。おまけに座席と座席の間のスペースが、各列の間で全然違ってるのには笑った。てんでバラバラ。このとき残った半券は、元の友人がシンガポールに行くときに活用した。友人は私のパスポートでチェックインし、成田空港の郵便局から書留で送り返してくれた。のどかな時代である。っていうか、今なら事情聴取では済んでない様な気がします。
初バンコクでは日本在住のインディアンムスリムの友人と落ち合い、雑貨を仕入れにきていたその友人にくっついていろんなヘンなところを回った。シーク教徒がターバンを外すのを初めて見たのもそのときである。その店では半貴石のルースやビーズをタッパーに小分けして山のようにストックしてあり、クーラーの効きの悪い店の中で次から次から出てくる宝物に私はすっかり目がハート型。シークの店主が「あ〜、あっつー」とおぼしきヒンディー語と同時に、ぐるぐるターバンをぽっこり脱いだのはそのときであった。たまげた。あれはいちいち巻いてるもんだと思っていたよ。実は一旦巻くと、あとは帽子かヘルメットのように脱ぎ着するのであった。人間、いろんなトコロに行くといろんなモノを見聞きするもんだねえ。ちなみにターバンの下の髪の毛がとんでもない長髪で、教義で切ったらあかんのだという。知らんかったよそんなこと。
友人と別れ、タイ北部へ。トレッキングで分け入った山奥、少数民族の村落でタイ北部名産を一発キメていると、同行の一人、スイス人の女性が突然苦しみだした。「腎臓の持病がが・・・」そんな持病があるならやめとけばいいのに。翌朝、私よりでかくて太いその女性を、男性陣が交代で担いで山道を下った。私は荷物係。そのとき考えていたのは、「私が同じ様な事情でもし病院から通報されたら、審査中の卒論はつき返されて退学かなあ。」であった。下山してから同級生に電話を掛けたら、無事卒業が確定していた。
どう考えても行き先を間違えたこともある。悪友Kとバンコク。タイだ!マッサージだ!と、按摩屋に入ったところに金魚鉢。いや、金魚が泳いでいる方のじゃなくて、壁がガラスになってて、中のひな壇にきれいなお姉さんがたくさん座っていらっしゃるほう。Kは天然なので微塵の動揺も見せていませんが、私は動揺を押し隠せていたかどうかは分かりません。きびすを返そうとしたところに、店主が出てきて選べという。そんな素振りは見せないが、迷い込んできた小娘ーズに内心爆笑していたのではないかと思う。しかしだからなぜそこで素直に選ぶんだ私たち。っていうか今書きながら思い出したがまさかひょっとしてひょっとするとビアンの日本人カップルと思われていたのかKと私。まさか!?(黒い疑惑)。しかしそんな誤解も次の瞬間解けたはずだ。私たちが選んだのはどう考えてもその店で一番売上の不振そうな方々だった。腕の太さとか手の大きさとかの基準で選んだもんで。えへえへ。普通にマッサージを受けて帰ってきました。上手でした。
金魚鉢を見たのは実はこれが初めてではない。話せば長くなるが南部行きの寝台列車に乗っていたときに、華僑のおばさんからおばあさんの面倒を頼まれた。二人は赤の他人で、おばあさんは親戚の家から実家へ帰る途中、列車の上で転んで怪我して起居が不自由になってしまい、荷物も持てないし段差の有る列車の上り口も下りられないのだという。駅に家族が迎えにきてるはずだから引き渡してくれと私に頼み、おばさんは前の駅で降りた。残されたのは英語も北京語も分からない潮州華僑のおばあちゃんと私で、危惧したとおり駅には誰も迎えにきていなかった。しょうがないから送っていきましたがな、家まで。なんでその国をはじめて旅行している旅行者がそんなことになってしまうのだろう。
でかいスーパーの前でトゥクトゥクを降りると、中からわらわらと人が飛び出してきて、私はそのまま招き入れられてしまった。スーパーの上は豪邸になっていて、二階には吹き抜けのパティオがあった。噴水の周りを棕櫚の木が取り囲んでいる。私はおばあちゃんの世話をしてくれた親切な旅人として、そのままそのお宅に泊まることになってしまった。ま、旅先でそういうことは珍しくないのだが、何が驚いたってそこんちが創価だったことである。壁の写真が、だ、大作先生。ああ、話が金魚鉢からどんどん離れてゆく。
離れついでに書いてしまうが、私はなぜか日蓮宗のお経のようなものをサワリだけ暗唱できる。小学生のとき仲のよかった友人のうちで覚えてしまったのだ。「みょーほうれんーきょうほうべんぼんだいにーじーせいそう(以下略)」と続くのだが、おばあさんの無事帰宅を感謝してお祈りをあげているご家族にそれを唱えて見せると、まー、もー、ミナサン、それはそればびっくりなさって、ただでさえ大歓迎のところが全く持って大変な歓迎のされかたになってしまった。あとでお経を見せてもらったら、日本の漢字にタイ字のふりがなが付いていて、お経は私が唱えた通りの日本読みであげているのだという。ちなみに我が家は浄土真宗。
そのころ、私は間が悪くもおやしらずが両方とも腫れ上がってしまい、実は高熱でフラフラしていたのだった。私が具合の悪い事に気がついたホストファミリー(いつのまに)は、医者や薬局に連れていってくれたり、軟らかくて硬くなくて辛くない食事を用意してくれたりして、私は本当に助かりました。熱も下がり、この国境の町からマレーシアに向かうつもりでいた私は、家の主人にマレーシアリンギットを買える両替屋はないのかと聞いてみた。
ご主人は少し考えて、両替屋よりレートのよいところに連れていってやると私を連れ出した。車で連れてゆかれたのは町外れで、道の両側には知識として知っていたが見たことのない「金魚鉢」が、店の中ではなく通りに向かって堂々とひな壇をならべており、すんごいケバケバしいおドレス様を来た女性が、どっさり並んで座っていた。ひな壇も壁も、赤い色をしていたと記憶する。
どんなポンチ頭でもここは花街だと理解できるわけで、なんでこんな道を通るんだこのオッサンはー、と考えていたところで車は停まった。店の裏口から入るとなんだかフツーのオフィスがあり、店主は友人らしかった。そこで私はリンギットを必要なだけ換えた。帰途の車の中でご主人が言うには、あの"紅燈街"は国境を越えて来るマレー人が遊ぶ地域なのだという。支払いはリンギットでも受け付けているので、バーツとの交換は大歓迎なのだそうだ。国境というのはあなたが思っているより危ないんだよ。ひとりで行くなら気をつけなさいと忠告された。
翌日私はその街、スンガイ・コーロックを離れてマレー側のコタ・バルに渡った。それ以来スンガイ・コーロックには行っていないが、クリスマスカードのやり取りだけは続いている。実は大家族のうち、ご主人とその奥さんと子供たちだけはクリスチャン、あの豪邸ではキリストと大作先生が同居なさっていたのだ。
こういう体験は一人旅でないとほぼ不可能なわけで、とすると私にとっての旅とは、相棒と結婚した時点で本質的に終わっているのだ。いやな結論だなあ。まあ、バンコクで食い倒れてこよう。
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