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子供を介したヨソ様とのお付き合い



週末に考えさせられることがあった。

土曜にフラットのキッズルームで小僧を遊ばせていると、職員からにこやかに注意を受けたのだ。「その男の子乱暴だから気をつけてね。」

その子とは、一人だけ保護者の付き添い無しでキッズルームにいた坊主刈りの男の子。私は小僧を外で遊ばせるとき、あんまり構わない。少しはなれたところから見ている。もちろん小僧がよその子に乱暴にしそうになったら止めに入るだろうが、反対に小僧が手荒に扱われそうになってもしばらくは黙ってみている。といっても、香港の子はおとなしいので、乱暴といってもせいぜいおもちゃの取り合いぐらいだし。

私が小僧から離れて見ていると、坊主刈りの男の子はしきりに話しかけてくる。すごーく構ってもらいたそうだ。気の毒だが私は彼の言ってることはわかっても、返せるだけの広東語はない。それでも彼はお構いなしにまとわりついて話しかけてくる。なるべくにこにこしてぽつぽつと返事を返していたのだが、なんとなーく、この子ってお母さんがいないんじゃないかと思った。離れて暮らしてるとか。なんだかちゃんと女手に構ってもらってなさそうなたたずまい。鼻の跡とか耳垢たまってそうな。(うちの小僧も見る人が見たらそうなのかもね。)

男の子は4歳だそうだ。不憫な感じがして、会話は成立しないのだが出来るだけ相手をしていた。男の子はダンプカーでしばらく遊んだあと、また私に話しかけるためにしばらくダンプカーを離れた。その間にウチの小僧がダンプカーを取っちゃったのだ。小僧が楽しく遊んでいるところに戻った男の子、さあ大変、取り合いになってしまった。

で、私は先にも書いたように、こういうときに手も口もとりあえずは出さない。頑張って死守するもよし、気力体力で負けて取られて泣いて帰ってくるもよし、これからもいろんなところで形を変えて、数限りなくあることだろう。私がいると小僧の相手方に心理的な圧力になるだろうから、むしろ知らんぷりをしていたら、小僧の方が体が小さいからだろうが、周りの大人がみな小僧の味方をして、くちぐちに男の子に何か言い出したのだ。私はせつなくなってしまった。

大人はまだしも言い方というものがあるが、小学生ぐらいの女の子にいたってはどうやら「野蛮」なんて単語を使ったようだ(私は広東語が本当に出来ないのでおそらくそうだろうなという推測)。男の子は「いいよ、もういいよ、ゆずってやるよ」と思しきコトバとともにおもちゃを握っていた手を離した。私は本当にせつなくなって、男の子にお礼をいい、空いているおもちゃを差し出した。ちょうどそのとき男の子の父親(にしては年配で、しかし祖父ではないだろうという年齢の男性)が現れ、男の子は呼ばれるなり涙ぐんで、しかし体はすばやく男性のもとに駆け寄って、ぼろぼろ泣きながら靴を履き始めた。

男性が男の子をかわいがっていないという様子はなかったし、男の子が男性を怖がってびくびくしているという様子もなかった。普通に、親子なんだろうと思う。でもやっぱり女手がないんじゃなかろうかという気がした。男の子は純粋に、たくさんの人(たぶん女の人)のいるところでもっともっと遊んでいたそうだった。その泣きじゃくり方が私にはやっぱりとてもせつない感じがして、私は本当に胸が痛くなった。小僧が泣いても「ま〜た泣いとるわガハハ」としか思えないのに。

他のお母さんたちが必ずしも彼に優しくなかったのが、私には一番辛いことだった。私はあんなのはもう見たくないなあ。

   ◇   ◇   ◇

さて翌日日曜日、トイザラスで小僧を遊ばせていたときの観察。トーマスの木のおもちゃで、レールとその他付属品を触って遊べるようにしてあった。でも列車は頭の取れたパーシーがひとつだけ。一人の男の子がその列車でずっと遊んでいて、別の男の子が欲しがってぐずりはじめた。まあ、よくあることです。たまげたのはその次だ。ぐずってる男の子のお母さんが、列車で遊んでる男の子をつかまえて言い聞かせだしたのだ。「小朋友、おもちゃはひとりものものじゃないんだから、みんなで遊ばなきゃダメでしょう?」

どっひゃー。いやそりゃ正論ですよ、幼稚園の先生とか全く関係ない第三者が言うならね。しかし彼女は『アタシの子にそのおもちゃを譲れ』という文脈で言うてるわけですし、反対のシチュエイションのときに同じように言うかどうかは甚だ疑問です。「みんなで遊ぶ」というのが正論であると同時に、「よその子のおもちゃをむやみに欲しがらないこと」という躾だって必要だと思うし。だいたいその男の子だって10分も20分も独り占めしてるだけではなく、たかだか2-3分のことでっせ?んでまた、数分間すらひとつのことに熱中できない子がいたら、その方が問題ですがな。

言われたほうの男の子の父親は無言で子供をかっさらって去っていったが、私はあまりの片腹痛さ(古文での用法)に赤面したあと、じっとりいやあな気分になった。やだなあ。こういう保護者とのお付き合いって。しんどいなあ。

さて小僧は私はしつこく言い聞かせたせいで、ヨソの子のおもちゃをひったくったり、欲しがって泣いたりすることは無い(少なくとも私がいるところでは。おらんところで何してるかは知らん)。そのかわりじとーっと欲しいものを目で追跡し、それが空くのをかなり粘り強く待っている。(昨日のダンプカーのように。)その様子は見ていておもしろいが、今回もそうだった。小僧ももちろん列車で遊びたいのだ。

ぐすりんの男の子が片腹痛いお母さんに連れられて去った後、小僧はすかさず掴みにいった。そして上機嫌で遊びだして2-3分、やはりといっては何だがやはりまた別の子が欲しがり出した。世の中のすべてのご父兄が私と同じ教育方針(=弱肉強食は遺憾ではあるが世の習い。習うより慣れろ。まあ頑張ってみなさい。)をお持ちとは思えないので、一応世間に合わせることにして、小僧に「貸してって言ってるよ。はい、どうぞってしなさい。」と言ってみた。小僧はものすごく『心外な』という顔をして私を見上げ、列車を抱きしめてイヤイヤを。そりゃそうだよなあ、じっと待ってたもんなあ、と他人事のようにやや気の毒に思いながらも、「ひと り占めはダメですよ。それはキミだけのおもちゃじゃないですよ。」と続けて言い渡した。

そのときふとその子のお母さんの顔を見て、背筋がぞっとした。あからさまに顔をゆがめて小僧を睨んでいるのだ。ものすごーく『憎しみ』のこもった顔つきである。いい大人のあんな顔をナマでみることってなかなかないことだ。しかもその感情が直接こちら(小僧はいまんとこ私の一部である)に向けられているのって。

すぐさま小僧からおもちゃを取り上げ、恐ろしい顔の親子にやさしーく「ハイ、どうぞ」と手渡した。こういう人のそばにいると、お育ちの悪さがうつってしまう。泣き泣き小僧を抱っこしてその場を去ったのだが、今後の『子供を介したヨソ様とのお付き合い』を考えると、つくづくしんどくなってしまった。実は私にはいやあな記憶があるのだ。

   ◇   ◇   ◇

小学生3・4年のころ、お向かいにひとつ年下の女の子がいた。お向かいの奥さんは常に私と娘さんを比較していたようだ。

一度など、周りにだれもいないときに、通知簿の成績を根掘り葉掘り聞かれたことがある。また私が単純野郎なので、聞かれたら聞かれただけバカ正直に答えてしまうのだこれがまた。『よい』がいくつで『ふつう』がいくつ、『がんばろう』は無し、とかね。「国語は?」「算数は?」「理科は?」など分野別質問にも、詳細に答えたようだ。しばらくたって私は母親にこう言われた。

「あのね、学校の成績とかはね、ヨソの人に聞かれてもそんなに全部ほんとのこと答えなくてもいいのよ。」
「こないだA子ちゃんのお母さんに聞かれたよ。」
「そうなんだってね。」

母がなぜそれを知ったかというと、そのとき垣根の内側でしゃがみこんで庭仕事をしていたはすむかいの奥さんが、私とA子ちゃんのおばさんとのやり取りをすべて聞いていて母に告げたのだそうだ。その後もA子ちゃんと二人で夏休みの宿題をしていて、私が漢字を書き損じると、「XXXちゃん(←私)でも漢字を間違えたりすることがあるのねオホホ」と高笑いをしたりするので、いくらどんくさい私でもそろそろ不穏当な空気は感じ取っていた。しかしこのときすでに、どんくさく単純なお子ちゃまとはちがい、母はお向かいとはかなり気の重い近所付き合いをしていたらしい。

私と別の近所の女の子がいっしょに遊んでいるところにお向かいの奥さんが来て、「XXXちゃんはどうしてA子をいじめるの?どうしていじめるの?」としつこく難詰されたこともあった。私はそうこられても簡単に折れてしまうようなやわなタマではなく、ぐっと踏ん張って相手をしていたのだが、一緒に遊んでいた別の女の子はびっくりして泣きだしてしまい、自宅へ逃げ帰って「A子ちゃんのお母さんがXXXちゃんをいじめてる」とお母さんに告げたため、そこの奥さんがでてきてちょっとした騒ぎになったこともあった。

決定的になったのはA子ちゃんが私のおもちゃ(間の悪いことに割合高価なもの)を失くしてしまった事件である。この事件も双方で受け取り方が違い、こちらは「貸したおもちゃを失くされた」というとらえかた、あちらでは「持っておくようにと押し付けられたおもちゃが行方不明になってしまった」という受け取り方であった。コドモの水掛け論であって、どっちの言い分も同程度に理があり理が無しというところだろう。

しかしこの事件のあと、お向かいは引っ越してしまった。そしておそらくお向かいにとってこの引越しは、「XXX家にいびり出された」ということになっていると思う。

母の名誉のために言っておくが、母はそのころからフルタイムワーカーで、密接なご近所づきあいを出来る時間的な余裕などはほとんどなかったから、この行き違いがお向かいの奥さんと私の母の二人の女性の日常的な反目によってこじれたということは全くない。また、母は普通の近所づきあいなどはソツなくこなすほうで、引っ越した今でもかつてのご近所の奥さんたちとは一緒に食事に行ったり、温泉旅行に行ったりと仲良くおつきあいしている。だから、このことは純粋に私とお向かいの奥さんが原因である。母にはなんらの過失は無かった。にもかかわらず、おそらく、お向かいの奥さんは私の母親を激しく憎んでいたはずだ。

東京で、子供の遊び友達を殺してしまった女性の事件があったとき、私は長年思い出すことも無かったこのことを突然思い出した。そして、ネットで犯人の女性を擁護する意見を数多く見て、心底恐ろしいと思った。いさかいは、ときに不可避に起こる。そしてたいていの妬みは理性的に処理することが出来ない。妬みは闇である。人の親はわが子ゆえにはたやすくその闇に落ちる。

私もいつその闇にとらわれるかわからない。

   ◇   ◇   ◇

小僧のおつむの出来からすると、ヤツゆえにヨソ様から妬まれる可能性は限りなく低そうだが、私がよその出来のいいお子さんを妬むことはこの先多々ありえるだろう。広東語と日本語と英語と普通話がネイティブレベルのお子さんが近所にいたら、まずまちがいなく妬むよーな気がする・・・。(っていうかそれって小僧と比べて妬む前にまず自分と比べて妬むわな。)

でも人の親はわが子ゆえにはやはりselfishになれるようだ。キッズルームの男の子は、いままでにもよその子に乱暴をしたりしていたのだろう。だからよそのお母さんたちは彼にとても冷たかった。自分の子におもちゃが回ってこないからといって、それが『憎しみ』として表情にでるのは、いくらなんでもいい年の大人としてアレ過ぎると思うが、程度の差こそあれ、私も将来何らかの形で、小僧のために人を憎むことはありえるだろう。

登園したてのころ、小僧はお友達の男の子の顔を引っかいて傷をこさえたことがある。知ったときにはもちろん夫婦で慌てて謝ったのだが、水に流していただけたような気配ではなかった。当然ながら、あそこの親御さんは今でもうちにいい印象は持ってないだろう。これからも、小僧の保護者であるうちは、こんなことが絶え間なく続いてゆく。

さっさと大人になれ、小僧。






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