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 Echo Carol


Nast's Santa1
Who's Santa Claus?
Part 1
セント・ニコラスについて

Index Page
● Part 1 セント・ニコラスについて
Part 2 いろいろな民話とニコラス
Part 3 アメリカでのセント・ニコラス
Part 4 現代のサンタ・クロース

 



● サンタのモデルは?
今日、クリスマスと言えば、誰もが思い浮かべるのはなんと言っても「サンタ・クロース」でしょう。この赤い毛皮の服で全身をつつんだ、太った陽気なおじいさんは、全世界の子供たちのごく親しい友達です。

一度も会ったこともない(おそらく誰も会ったことがないかも知れない)サンタ・クロースですが、必ず会ったことがあると思わせる何かがあります。それは何なのでしょうか。

現代のサンタ像を定着させたのは、1860年にアメリカ人、トーマス・ナスト(Tomas Nast)が描いたイラスト(上)だったと言われています。しかし、「サンタ」はその年に突然出現したものではありません。遠い昔からの言い伝えに始まり、何世紀もの間、多くの変化をたどって現在のサンタ像が出来上がりました。

サンタ・クロースは、世界中の国々にある「贈物をする心」、人の幸せのためにまごころを尽くす気持ち、そして、それを目に見え、肌に感じることが出来るイメージにまとめようとした名もなき民衆や、19世紀初期のアメリカの文学者たちの作品などの結合した姿に他なりません。

これから4回にわたって、このサンタ像を追跡して、現代にいきいきと生き続けている素晴らしい命、サンタ・クロースの個性に迫ってみます。


● 小アジアの聖人
St.Nicholas2
セント・ニコラス
サンタ・クロースの直接の「先祖」はセント・ニコラス (St.Nicholas) といい、4世紀に小アジア (Asia Minor) のミラ (Myra) の司教だった人です。ニコラスについては、史実としての資料はほとんど残っていませんが、何世紀もの間、この親切で慈悲心に富んだ人物の人となりを伝えるお話は増え続けていました。

紀元10世紀までに、ニコラスはキリスト教の世界でもっとも重要な聖人の一人となり、多くの人に愛されました。ニコラスほど「守護者」として人気の高い聖人はいないでしょう。質屋の主人から結婚志願のご婦人まで、およそ考え付くありとあらゆる守護者になっています。とりわけ、子供を筆頭に、船乗り、パン職人、質屋の守護者として有名です。

それでは、現在分かっているセント・ニコラスについての史実からご紹介して行きましょう。

● 歴史上のニコラス
St.Nicholas2
ミラにあるセント・ニコラス教会
歴史的には、彼は古代リキュア (Lycia:現在のトルコ半島[小アジア]にあった古代の国) の港町パタラ (Patara) に生まれ、若い頃はパレスチナやエジプトを旅したと言われています。

そしてリキュアに戻ると間もなく、ニコラスはミラ (Myra) の司教 (Bishop) に選ばれます。

303年、ローマ皇帝ディオクレティアヌス (Diocretianus) が皇帝崇拝を強制したことにより、キリスト教徒が反発する事態が起こりました。皇帝はそれに対して激しい弾圧で応えました。ローマ時代最後のキリスト教徒大弾圧の始まりでした。しかし、ニコラスは逃げることをせず司祭職を続け、総督直属のローマ兵に捕らえられて投獄されてしまいます。

10年後の313年、新しい風が巻き起こりました。皇帝となったコンスタンチヌスは、ミラノ勅令を出してキリスト教を公認したのです。ニコラスも釈放されて司教職に戻り、伝えられるところによると、キリスト教の歴史でもっとも重要な 325年に開かれたニケア (Nicaea) の公会議にも出席しました。

歴史の上で、ニコラスの消息をたどれるのはここまでです。俗説としては12月6日に亡くなったとされ、その日が彼の記念日となりましたが、それが正確な日付かどうかは分かっていません。

Basilica, Bari
バリにあるニコラ聖堂
しかし、ニコラスについて、あと一つ分かっていることがあります。それはニコラスの「遺骸」がイタリアへ運ばれたことです。

6世紀にはニコラスの聖堂はミラにありました。それが1087年、彼の熱烈な信者であったイタリアの船乗りや商人により、彼の遺骸はイタリアのバリ (Bari) に運ばれることになりました。この聖堂移転の記念日は5月9日とされ、同時にその人気も高まって、バリは巡礼の最も大切な場所の一つとなり、毎年5月には信徒たちでにぎわう一大都市になりました。彼の遺骸は11世紀、バリにあるニコラ (Nicola) 聖堂のバシリカ (Basilica) に安置されました。ですから、今セント・ニコラスは、イタリアのバリで永眠しています。

● ニコラス伝説
St.Nicholas2
司教の服をまとった
ニコラス
ニコラスについてのたくさんの伝説が生まれたのはこの頃です。

まず、6世紀に書かれたと言われるギリシア語のテキストには、死刑宣告を受けた三人の官吏が、ニコラスの夢によって救われた、と記されています。それによると、死刑が行われる直前、ローマ皇帝コンスタンチヌスの夢にニコラスが現れ、その官吏たちが無実であることを伝え、そのために皇帝自ら死刑の中止命令を下した、とされています。

悲劇から子供たちを救ったという幾多の奇蹟は、6世紀にミラの近くにあるシオン (Sion) の大修道院長 (Abbot) ニコラスが書いた、「セント・ニコラスの伝記」に詳しく述べられています。

その中から、「塩漬けの桶の中の子供の奇蹟」をご紹介しましょう。
セント・ニコラスがニケーアの公会議に出席するために道を急いでいると、二人の男の子を殺した宿屋の主人に出会いました。ニコラスが理由を尋ねると、 「体が貧弱で仕事をしないからさ」という答えが返ってきました。しかも、主人は飽き足りず、その子らの体を塩づけにして売りに出すつもりだと言います。それを聞いていたニコラスが、黙ってその桶に手をかざすと、あっという間に子らは蘇り、元気そうににこにこ笑いました。この奇蹟を目の当たりにし、宿屋の主人はおそれ、後悔し、以後キリスト教を深く信仰するようになったと伝えられています。

セント・ニコラスの善行を表す次の物語は、現在のクリスマスプレゼントの習慣に大きく関係した有名なお話です。

ある非常に貧しい家族がありました。そこには適齢期に達した三人の娘とその父親が住んでいました。父親は娘たちの結婚のための持参金を出してやることが出来ず、しだいに疎ましく思い始め、娘たちを家から追い出してしまおうとしました。

これを聞いたニコラスは、ある夜、金貨の詰まった袋をその家の窓から投げ入れます。それから数日経つと、一番上の娘が立派な持参金を持って結婚して行きました。ニコラスはしばらくして二つ目の袋を投げ入れました。するとやがて二番目の娘も、ちゃんと持参金を手に結婚して行きました。

彼は、しばらくしてからもう一度金貨の袋を投げ入れにやって来ます。窓から金貨を投げ入れると同時に、家から飛び出して来た者がいました。それはその家の父親でした。彼はじっと待っていたのです。そして、金貨を投げ入れていたのが司教のセント・ニコラスだとわかると、その足元に伏して、改悛と感謝に涙を流しました。

ニコラスの投げ入れた袋は、窓の下に干してあった娘たちの靴下に入っていました。クリスマスの夜にプレゼントを入れるための靴下をつるすのはこの言い伝えから興ったと言われています。

● 伝説が聖人信仰となる
こうして、ニコラスに対する尊敬と信仰は、世界中に広がりました。彼の名前は多くの国の民間伝承に取り込まれ、たくさんの呼び名が生まれました。

子供に対する守護者のみならず、彼の出身がリュシアの港町だったことから、船乗りの守護者として信仰されました。また、ロシアやギリシャのように彼を国の聖人とした国や、フライブルグ (Fribourg) やモスクワのように,町の守護者とした都市も現れました。

何千ものヨーロッパの教会が彼に捧げられ、その最も古いものは6世紀にローマ皇帝ユスティニアヌス一世 (Justinian I) によってコンスタンチノープル (Constantinople、現イスタンブール Istanbul)に建立されました。

彼の奇蹟は中世の芸術家や典礼劇 (litergical play) の格好の材料となり、彼の祝日は、ヨーロッパに広く分布している Boy Bishop の祭典と結びつけられました。Boy Bishop の祝いとは、一人の少年を選び、それを12月28日の (Holy Innocents' Day) まで統治させる祝いの期間を言います。

ニコラスが、クリスマスの関連したものとして一般に受け入れらのもこの頃からです。

13世紀にフランスの尼僧が、セント・ニコラスの日(12月6日)の前日、貧しい人に贈物を残す習慣を始めました。それから徐々に、彼は贈物を贈ることに関連付けられたと言われています。

新教 (Reformation) のカトリックの聖人に対する敵対感でさえ、ニコラスの輝きを押え込むことは出来ませんでした。

子供たちはやはりニコラスからの贈物を望み、悪いことをしたときに彼が残して行く「鞭 (switches)」を怖がりました。中世では、ニコラスは、悪い子供には贈物ではなく鞭を置いて行く、と信じられていました。これはニコラスの伝説の暗い部分です。日ごろの行いの判定者として、彼は子供に罰も与えることも出来たわけです。いたずらざかりの子供をしつける時、両親がニコラスを「武器」に使ったことは容易に想像出来ます。

時代が下るとこれらのしつけの役割は、ニコラスのいろんな仲間、ネッチ・ラプレッチ (Knecht Ruprecht)、シュワーズ・ペーター (Schwarze Peter=Black Peter)、クランプス (Krampus)、ベルズニコール (Belznichol) などに移って行き、ニコラスは罰には直接手を下すことはなくなります。

これらの処罰グループのイメージは、一般に毛むくじゃらの、暗い顔付きの子取り鬼 (boogeyman) として描かれています。


次はいろいろな地方に伝わっているニコラスの姿の特集です。



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