
藤真は横付けされたわたしの車を見て、嫌味がかった口振りで云った。
「外車か」
夕暮れ時に彼と会うことは初めてだ。赤い太陽が橋のずっと向こう、川の彼方に沈んでいくところだった。藤真は白いシャツに黒い光沢素材のパンツを履いて、いつも背負っているナイロン製の鞄を背にしていた。わたしは休日の為スーツではなく、ジャケットを羽織っていた。
「で、なんなの」
素っ気ない口調で藤真はわたしと車を交互に見た。
橋の上の車道は渋滞していて、停車しているわたしの車は大きな障害となり運転手たちが悉くわたしを睨んでいった。
わたしは云った。
「三日間だといくらになる?」
藤真は何も答えなかった。わたしは助手席のドアを開け、シートの上に置いてあったパンフレットを見せた。それは去年完成したとあるリゾート地のホテルの広告だ。
それを一通り眺めてから藤真は云った。
「先約があるんだよ」
彼の云いたいことはわたしは既に知っていた。この間会った時、別れ際に食事をしたその席で藤真が云っていたのをわたしは覚えていた。中年の男の客が、お盆の間三日間彼を旅行に誘ったというのだ。わたしはその時は何も感じなかった。
今はただわたしは自分の思いつきに満足していた。
「ああ、分かってるよ。それとも約束は早い者勝ちか?」
車のエンジン音に掻き消されない程度の声でわたしは聞いた。
藤真は無言で広告をわたしに返すとじっとわたしを見つめた。わたしもまた、藤真を見つめた。
愉しかった。
わたしは今、一人の若い男娼を掴まえて、わたし自身が見たことすらないもう一人の客である中年の男と、その男娼を奪い合っているのだった。
わたしは彼がその男との約束を守れないような立場に陥るのがどうしても見たかった。
「一日にしろよ。無理だよ、三日は」
「いや駄目だ」
わたしは彼の言葉を聞き入れなかった。彼を少なからず困窮させていることがわたしを悦ばせていた。しかし藤真はなかなか承知しなかった。
「五十絡みの男と三日間過ごすか、それともおれと過ごすか、さてどっちがいいだろうな」
わたしはにやにやしながら聞いた。藤真はきつい眼差しでわたしを睨み、吐き捨てるように云った。
「最低だな」
わたしは動じなかった。次の瞬間、藤真は開いていたドアから助手席に乗り込むと、歩道に残っているわたしに向かって云った。
「先におれの家へ寄れよな」
彼は二人の客を天秤にかけてわたしの方を選んだ。
わたしはとても満足した。
わたしは優しくされたら優しくしなければならないような義務感はない。愛されたら愛し返さねばならないというような気持ちもない。しかしわたしは鈍感な感性の持ち主でもなかった。人間の感情を読むことに聡い一面があった。自分自身の感情についても、少なくとも無関心ではなかった。
だからわたしは、わたしが藤真と恋愛をしているとは思わなかったが、恋愛をしていないとも感じてはいなかった。わたしたちはとても曖昧で微妙な立場にいた。いつ崩れるとも分からない危うい位置だ。わたしと藤真は、その一本の綱の上で互いにバランスを取り合っているに過ぎなかった。
わたしは小心ではなく、好奇心が強い面があるから、気持ちさえそれに従えばある程度の冒険は厭わない人間だった。そういうわたしであったから、街で藤真に声をかけることが可能だったのだ。
しかしわたしは一方でまたもの凄く恬淡に生まれていたので、何事にも執着することが出来なかった。そのわたしがひょんな好奇心で男娼を買い、それ以後も関係を続けた裏には、確かに何か無視出来ない感情があったことは認めざるを得ない。その感情が何であるか、はたまたどういう性質のもので、これからどう変化する可能性を秘めているか、そこまではわたしは深く追求しなかった。
これからもしないだろうと云える。
わたしはよく知っていた。わたしと藤真は、ただの男娼とその客であるに過ぎないことを。
そして、その領域から決してはみ出さないことが、わたしたちの関係をよりよく保つ一番の方法なのだということもまた十分に踏まえていた。
また、わたしは物事万事について形というものに囚われることはなかった。好きになったら打ち明けるべきだとか、打ち明けたらセックスをするべきだとか、その後は結婚をするべきだとか、そういうもの一切に興味を見出さなかった。故にわたしは、自分の中に眠っている感情をわざわざ暴き立て、それが本来向かうべき場所と辿るべき経過を探ろうとはしなかった。自分の感情に固執することはなかったのだ。
わたしたちは一端は藤真の自宅へ向かった。初めて目にする、そして今後はもう二度と見ることはないだろう彼の家は、都心を見渡せる高層マンションだった。概算で云って月に百万近く稼ぐ彼のことだから、そこの暮らしぶりと収入のバランスは取れているのだろうが、それでもかなり立派な住まいだった。小一時間もした後、彼は荷物を抱えて車に戻って来た。それからわたしは車を走らせ、目的地へと向かった。
目的地は市街のリゾート地で、賞味四時間もかかった。着いた頃には日はとっぷりと暮れ、辺りは真っ暗闇と化し、太陽の光さえあれば眼前に開ける蒼い海が見渡せたのだろうが、車から降り立って見えるのは何処までも黒い不気味な空間と、耳をすませば時々聞こえる微かな波の音、そして潮の香りだけだった。暫く海の方角を眺め、それから目の前に聳える真新しいホテルを見上げて、藤真は歩き出した。部屋の窓にはオレンジ色の照明が見え、沢山の目がわたしたちを見ているようだった。
やや後ろから歩くわたしに藤真は云った。
「よく部屋が取れたな。今世間は夏休みだってのに」
「泳げる?」
と、わたしは尋ねた。藤真は頷いただけだった。
部屋は地上十三階の廊下の端にある最高級の部屋だった。最高級だけに価格もそれなりのもので、おそらくはそれ故に残ったのだろう。部屋はそれしかないと云われていたのだった。今は不景気だから、誰もが好き好んで大金を払ってバカンスに行こうとは思わないのが普通だ。わたしはその点、拘りはなかった。
室内には浴室の他に大きなリヴィングが一つと寝室が一つあった。手入れが行き届いていて、清潔そうなところがわたしの気に入った。藤真はすぐに見つけた大きなソファに腰掛けて、足を投げ出してテラスを眺めている。そこはカーテンが引いてあり、外の景色は見えない。わたしは側へ寄り、カーテンを引いた。偶然にもその時に、海辺で花火が上がった。防音効果があるのか音は殆ど聞こえなかった。
「部屋が少し寒いような気がするけど」
わたしは振り向いて云った。エアコンの効きすぎのようだ。胃を刺激する冷たい空気が室内を移動している。藤真は立ち上がると壁際へ云って、据え付けられている装置のボタンを押した。微かに聞こえていた物音が止み、風も止まった。
「まだ覚えられないの?」
ホテルの作りは、それが観光目的であろうとそうではなかろうと大体が同じと見えて、普段毎日のように利用している藤真は、何処に何があるのか全て記憶している。わたしは三年前に海外赴任をした時以来、ホテルというものは滅多に利用することがないせいで、初めて藤真とホテルに入った時も、確かその時は暑かったのだが、暖房設備の場所が分からずに教えられていた過去があったのだ。
「食事でもするか?」
わたしは云って煙草をくわえた。藤真は首を左右に振った。
「腹減ってない。それより、一体どういう訳でこんなこと思いついたんだよ。いいのか」
「悪いことはないんじゃないかな」
「恋人はどうすんの?結婚前なのにさ」
テーブルに置いてあるホテルの案内状を眺めて藤真は云った。わたしはそれによって思い出し、云った。
「そうだった。結婚の日取りが決まったよ。来月の十二日になった」
「それはおめでとうを云っておくよ」
「どうもありがとう」
わたしは云って、灰皿のあるサイドボードに歩み寄った。
「で、これが最後の思い出作りな訳?」
わたしはその言葉に笑った。灰皿を片手にソファのもう一方に寄り、そこへ腰掛けた。
「まさか。感傷癖はないよ」
「見ろよ。綺麗だ」
わたしの頭越しに見える打ち上げられる花火を顎でしゃくって藤真は云った。わたしも振り返りテラスから花火を見た。
「一日に三千万円もの花火を打ち上げるんだって話だ」
「へえ」
わたしの言葉に藤真は呟いた。とんだ無駄遣いだな、と浪漫の欠片もなく続けている。
藤真の虚無主義はわたしの根底の性質と類似して面白い。
わたしたちは暫く無言で花火を見つめていた。
様々な色合いの花火が複雑な組み合わせで夜空に上がり、散っていく。残光で黒い海が一瞬だけ目に見えるのも良い眺めだった。花火はそうしてかれこれ二十分もの間次々と打ち上げられては消えを繰り返し、やがて終わった。
わたしたちはそれから食事をする為に屋上のレストランに向かい、その後再び部屋に戻りシャワーを浴びてベッドに横になった。
わたしたちはあたかも恋人同士のように裸で抱き合い、キスを交わしていた。薄暗い照明は広い室内の隅々まで行き渡らずに、所々に深い闇を残していた。わたしは唇を離して彼の顔に見入った。その顔をわたしの恋人だと考えようとした。だがうまくいかなかった。しかしその顔がわたしの何であるかは分からなかった。
綺麗な肌。大きく形良く、しかし表情のない瞳。今はただ一筋にわたしに注がれている視線。
その薄い茶色の瞳にわたしの姿が映っている。彼の瞳に映るわたしは、彼にとって何なのか。その答えもきっと彼も知らないだろう。
「どうした?」
わたしは肩口に埋めていた顔を上げて藤真を見た。
いつも人形のように不動な藤真が、その時に微かな声を洩らしたような気がしたのである。いや、間違いなく藤真は声を上げた。
わたしにあれこれと質問をされるのが嫌だったのか、聞く前に藤真は云った。
「この間おれ、いったんだよ」
わたしは特に何も云わなかった。横になった態勢のまま、藤真はわたしを見上げている。
「想像力の欠如とか何とか、おまえ云ったよな」
「冗談だよ」
わたしは云った。事実、そんなことを云ったことさえ忘れていた。藤真は今更取り消しても遅いと言いたげに微かに笑って続けた。
「で、想像してみた訳さ。一体何を想像したと思う?」
謎解きのように彼は云い、じいっとわたしを見つめていた。
意味深な顔。
「考えつかないな」
わたしは云って元のように彼の首筋に沿って顔を伏せた。もうその事柄からわたしの興味は消滅していた。しかし藤真は次にこう云った。
「いや、こう云った方がいいかもな。誰を、想像したと思う?」
胸元から唇を離してわたしは顔を上げかけたが思い直してやめると、行為を継続した。
藤真はわたしの髪を撫でるような仕種をした。これはセックスをしている時の彼の癖だった。客の誰にでもしていることなのだから、わたしはそうされることに特別な感情を抱かなかった。不快だと思うこともなかった。
「本当は違うんだ。想像した訳じゃない。勝手に思い浮かんで来たんだ。変な感じだったよ。目を閉じてたらな、見えてくるのさ。だんだんと。輪郭がはっきりして表情まで分かるくらいに」
「へぇ。誰なんだろうな」
わたしは云うだけ云って、けれど返答を期待していなかった。
藤真も何も云わなかった。
その夜、わたしは初めて一人よがりの行為とは別な世界を垣間見た。思っていたよりそれは平凡で、思っていたよりも幸福というニュアンスに近かった。彼がわたしを高め、わたしが彼を高めるという当たり前の行為が、その時わたしたちの間で初めて成立したのだった。期待したようなものは何もなかった。しかし期待しないものがわたしを覆っていた。月並みであるのと同時に、新鮮さもあった。人形が魂を吹き入れられ、わたしのささやかで盲目的だった虚妄のマスターベーションは、急に色彩を帯び現実となった。美しいだけの人形は魂を得て、わたしに語りかけてきた。わたしに応え、全ての行為に反応を見せた。それは素晴らしいことであり、また有り触れた日常の営みでもあった。感動と興奮を呼び覚ますものであり、同時に慣習へと続く門の解放でもあった。わたしはそれを求めつつ、それが訪れるのを畏れていた。わたしはそれを愛しつつ、それを憎んでいた。わたしはそれを肯定しながらも、また否定していた。そしてそれらのことを全て含めて、わたしはこのことを悦びとして心に留めた。
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