やっぱ俺、銀行員には向いてなかったな
私は、元銀行員です。向いてねえなと思いつつ9年間も結局勤めていました。
通常3年くらいで定期的に配置転換があるので、3回転勤はしてるが、そのうち6年間は、ドイツの商業都市デュッセルドルフの支店に勤務していました。
あんまり昔の事はよく思い出せないので、最後に仕事をしてた、そのデュッセルドルフの支店のけったいなカルチャーを、ちょっと書き留めておきます。
1988年初夏、東京の本店の外国事務センターで私は、支店から送られる外国小切手やトラベラーチェックなんかを、ポンポンとスタンプ押して袋詰めする、単純作業に追われていました。
くそぉ、眠くなってきたなあと思っていた午後3時ごろ、背中越しに課長が私を呼ぶ声がした「おーい、所長が呼んでるから背広着て上にいけ」。
ぼぉーっとしてた私は、一体なんだろうと課長のはげ頭を見ながら上着を着た。
すると課長がもう一言「君、転勤だよ」。
ありゃま、この部署に転勤して半年しかいないのにもう転勤かあ、都内の転勤だといいなあとおもいつつ、所長に会いに行った。
所長が辞令をかざして読み上げてくれた「デュッセルドルフ支店勤務を命ず」。
うひゃあ、大学でドイツ語学科だったし、国際業務を希望していたから海外に出ることはいずれあるだろうとは思っていたが、銀行入って3年で、まだ25歳。
海外駐在がこんなに早く回ってくるとは予期してなかったので、正直いってビックリ。
この辞令が、この後の私の人生に大きな影響を与えた事は知る由もなかった。
たった1ヶ月で、ドイツの労働ビザと滞在許可が発給され、正式に赴任の日が来た。
当時はまだ成田からドイツへの直行便がなく、アンカレッジ空港で一旦乗り継いでデュッセルドルフに到着。月曜から早速出社。
最初は、ドイツの落ち着いた職場でエレガントに仕事する甘い想像をしていたが、徐々に「なんかへんだなぁ」とゆう気がしてくるのであった。
一通り挨拶して、身の回りの手続きをすまして、自分でふと気づいた「俺、どこに座って何をやるんだろ?」
私の入れ替えで帰国するY主任がいた。その人の後を引き継ぐのかなと思っていたので取りあえず、引継ぎをいつするのか聞きにいってみた。ところが要領を得ない、Yさんがしきりに副支店長の顔色を覗っている。
仕方ないので副支店長に聞きにいった「私は一体何をやるんでしょうか?」、すると、そっけなく「あ、支店長から正式にいわれるまでそうゆうことは決まんないんだよ」との答えが帰ってきた。
へぇ、じゃ今日は、ぶらぶらしてよっと。
まだ街もよく見てないし、当面の食料もスーパーで買わなきゃならんから、5時になったらまずホテルに帰って、出かけようと考えていた。
あとでわかった事だが、このY主任は駐在期間が、2年ちょっとしかなかったそうだ。
海外駐在は通常5年周期と言われているから、随分短い任期である。そのまたあとで、詳しくわかったのだが、副支店長や他の日本人の同僚から陰湿にイビリだされたのである。
そのイビリとゆうのが続いて、本人も精神的にも参ってたらしく、所謂強制送還みたいな感じで、帰国になったとゆうことだった。
帰国の際には、Y主任の奥さんは気丈な人で、最後の空港での見送りに、支店長夫人が、「Yさんみたいに、スポーツ万能で明るい方がいないと、さびしくなりますわ」と言うと、「ええ、うちの主人は仕事以外は、なんでも人並み以上に出来る人ですから」と言い放ったそうです。
これで、私は段々状況がのみこめてきた。ようするに、野球のピッチャーが2回の表で打ち込まれて、交代しようとしたら、控投手もまだウォームアップもしてなかった。
しょうがないから、たまたま目についた2軍選手をマウンドに送り出したのであった。
そう、その送り出された2軍選手が私です。受け入れたデュッセルドルフ支店も、選手名簿にものってない無名の新人だから、何が出来るのか見当もつかないわけです。
この支店は、むかしから陰湿なイジメが伝統らしく、いじめられたひとは後からくる新参者をいじめてうっぷんをはらす傾向があったのです。
「げーー、俺とんでもないとこに来ちまった」と気づいたがすでに遅し。
さて、話は戻って、5時になりました。初日だし、まだ所属任務も決まってないから取りあえずホテルに帰って時差ボケをとろうと思い、Y主任に「お先に失礼」と言いに行くと、「もうちょっといた方がいいよ」とのアドバイス。
支店長が帰るまでは、たとえ仕事は終わっていても帰っちゃ駄目。その次に副支店長が帰って、次長が帰る、その次が課長で、主任が帰る。君は一担当者だからそれまで待ってなきゃいけないんだよ。
「ほんなバカなー!」と思ったが、Y主任の説明が続く「その順序を破るとおきて破りになるんだよ。
たとえば課長が用事があって、早く帰るとさ、本人が帰ってから副支店長や次長あたりで、「先に帰りやがった」って悪口が始まるんだよ。
だから恐くてみんな帰れない。僕もいい加減いやになって早く帰るようにしたが、帰ってから相当みんなで僕の悪口をいってたらしい」
「それだけじゃ終わらなくてね、君はまだ独身だからいいけれど、夫人同志の集まりの夫人会ってのがあって、当然支店長夫人が君臨してるんだよ。
うちの妻も相当そこでいじめられたんだ。夫婦そろっていじめるんだよ、こりゃ参るね。私生活をいろいろと詮索されるし、、、」
この目にみえぬ陰湿なルールを知って、もう愕然としました。そんな非効率的、非経済的慣習がよくも、こんな外国まで来て根づいているもんだ、、とあきれるばかりでした。
苦労してんのは旦那だけじゃありません。奥様方の間でも、旦那の会社での力を反映して恐怖の「夫人会」が開催されます。
当然、座長は支店長夫人でありまして、下っ端行員の奥さんは、戦々恐々として会に臨みます。
旦那の家庭での素行から子供の教育にいたるまでチェックが入り、時には詰問されて泣き出す人もいたとか。
独身だった私はこの会には関係なかったのですが、聞いた話では、いろいろ戦慄の会合である事をしのばせました。
課長夫人が、たまたま市電で乗り合わせた時、隣の車輌にいる支店長夫人に気づき、下車駅の直前で気づいた為、目礼して下車しました。
次の夫人会、衆目のもとで、課長夫人が攻撃されました「このあいだ、あなたに市電でお会いしたとき、いつ気がつかれるかずっと待ってましたのよ、あなた私を避けてるのね」と、ねちねちやられたそうです。
自分が先に気づいたら声かけりゃええやんか、女子高生が男に声かけられるのを待ってるわけじゃありまいし、何様だとおもっとんじゃ。
この支店長夫人には、みんな最後までいろいろ振り回されて、苦労してました。
おまけに当時の支店長も非常に我が侭な人だったので、月曜の朝の課長会で好き放題怒鳴り散らし。
お客さんに会いにいくわけでもなく、とくに仕事もせずに、金曜の午後は渉外課長にゴルフのメンツ(自分より下手な人じゃないとだめらしい)をあつめさせる人でした。
世間の常として、非常識な旦那には、よくできた奥さんがいるもんですが、この場合は夫婦揃って手間のかかる人達でした。
夫人達の間で、ひとつ気をつけなければならないのが服装でした。
支店長夫人よりも派手な服を着てはいけないそうです。
とあるパーティーで、部下の奥さんが、支店長夫人よりもあでやかなドレスを着て、目立ってしまった時に、「おい、xx君ちょっとこれはよくないよ」と支店長に耳打ちされ(言う方も言う方だが)、仕方なく奥さんを家に連れてかえって、地味なドレスに着替えさせられたそうです。
ジーンズ禁止例とゆうお達しを出したのも支店長夫人でした。平日に街でお客さんに会ったときに、ジーンズを履いているとみっともない(どうゆう時代感覚じゃ)そうで、みんな市内ではジーンズを履いてあるけず、ジーンズ姿を楽しむために週末に遠出する人もいる程でした。
副支店長ポストが楽か苦労するかは、支店長次第です。
実務がまわってくるのは、通常課長までのポストですから、主にはんこを押す書類に目を通すくらいです。
支店長に責任感があり、指導力にたけている人であれば、副支店長はあまりすることはありません。しかし、逆の場合非常に辛い立場に立たされます。
私がデュッセルドルフに勤務していた6年間で、3人支店長が変わりました。
銀行も支店長は、ポストが限られているので(当然のことながら、支店の数以上に支店長はいない)、年功序列が忠実に実行される銀行人事では、2年くらいのサイクルで繰り回さないと駄目らしいのです。
逆に、副支店長は店の規模に応じて、2人だったり3人だったりしますので、銀行にとっては(高コストの原因でもありますが)支店長への出世レースの、前哨戦の副支店長ポストには余裕を見ています。
私が着任したころは、まだバブルがはじける前だったので、余裕があったのでしょう。
副支店長は二人いました。MさんとKさん、Mさんは新参者の私が見ても、あまり仕事がないのは明らかで、余剰人員であることはすぐ判りました。
でもMさんの大事な仕事が一つありました。支店長のご機嫌とりです。
もう一方のKさんはMさんよりずっと年次も若く、誰がみても仕事の出来るエリートで、人柄も良く部下の人望もあつかったので、支店長からもいじめにくかったらしく、もっぱらMさんがいつも怒られてました。
怒られている理由を聞いていると、支店長がきまぐれで言い出した、他愛もない事が多いのです。
本当に肝心な事(仕事の案件とかお客さんとの条件交渉とか)で支店長が怒り出すと困るので、その点ではみんな助かってました。
でもバブルがはじけた90年ころには、銀行もそんな支店長のおもり役を置く余裕はなくなりMさんは帰国し、後任はありませんでした。
Mさんの帰国後、皆の関心は、おもり役がいなくなった支店長の、ストレスのはけ口になるスケープゴートは、どうなるのかとゆう一点にあつまりました。
Kさんもとうとう怒鳴られ役になるのかなと思ったら、やはりいじめやすい人と、いじめにくい人とゆうのは常に明確に分類されるもので、次の犠牲者は一段下の、T次長になってました。お陰でK副支店長は安心して仕事ができたようです。
しばらくして、我が侭な支店長も帰国して、社外に出向してしまいました。
幸い、その次の支店長は自分を律するタイプの人で、Kさんは、相性もよく上手くやってました。
やがてKさんも東京本部に、栄転となりました。
ところがKさんの後任の副支店長のNさんは、およそ役に適さない無能な人で(無能な人ほど、空威張りをしますが)口やかましいだけでいつもピントのずれている人でした。頭の切れる支店長はこのN副支店長の無能ぶりをすぐ見抜き、徹底的に馬鹿にしてましたが、Nさんは単細胞でおめでたいひとだったので、自分が馬鹿にされている事すら気づいてなかったようです。
おお間抜け。
最近、第一勧銀の総会屋への利益供与が、いろいろと問題になった。自殺者まで出てしまって、様相は深刻化している。
第一勧銀は、不正迂回融資が露見し、問題が大きくなったが、多かれ少なかれどこの銀行も似たようなもんでないかと思う。横並びルールが万事徹底している、日本の銀行の事です。総会屋対策がそれほど違うとは思い難い。
いまごろ、真っ青になっておびえている、他の銀行幹部も多いんじゃないかな。
だって、第一勧銀の事件の後、「当行は、絶対大丈夫です。総会屋とは全くつきあいはありません」とアピールするところも出ていないし、当然捜査当局も、関連をかぎまわっている事でしょう。
さて、私は昔は、総会屋というものが何だかさえ知りませんでした。
私が銀行に入って、最初に配属になった支店で、当時私は融資を担当してました。
転勤で新しい課長が来て、取引先の説明を個別に課長にしていたときのことです。
「XX 金融新聞社」という、小規模な金融関係の業界紙がありました。それを見て、新課長は「おい!なんだか危なそうな社名だな、これ総会屋関係じゃないだろうね」と私に尋ねました。
私は、「???」一体何の事かと思ったんですが、要するに、表向きは出版社とか雑誌刊行の活動をしていて、実態は総会屋ってのが結構多いんだと、課長は教えてくれました。
銀行の弱みをなんか握ったら、それを記事にして、ばらまくぞと脅しをかけたりするそうです。それがいやなら定期購読してくれ、年間10万円です、なんてパターンでやるそうです。
幸い、その支店では総会屋っぽい人との付き合いは全くありませんでした。
その後、私は本店に転勤になりました。ある日本店の前に、日の丸つけて、「日教組打倒、北方領土返還」という、いかにもって感じの街宣車が、横付けになり、拡声器で「XX銀行のXXX支店(ああ、実名書きたい!)の、卑劣な歩積み両建ての強制、、うんぬんと嫌がらせが始まりました。どーでもいいけど、うるさくて仕事になりゃしない。面白半分で見てましたけど。その翌日も来て、ガーガーやってました。
総務部は騒然として、なにやら皆深刻な顔で相談してました。数日後、パッタリと来なくなってしまい、上司に「あれ、来なくなりましたねぇ」と聞くと、事情に詳しい上司は、「総務部にこの手の処理を専門にやっている人がいてね、黙らせるために、何か手を打ったんだろう、総会屋対策だって大変なんだよ」って言っていました。
成る程、やっぱりあるんだ。
で、デュッセルドルフの話です。私が知っている限り、本部の総務部から接待依頼が入り、総会屋さんの接待が2回ありました。表向きは、「XX」という(ああ、実名書きたい!)雑誌刊行社でして、編集長という肩書きです。(検察庁の人、このHP読んでないだろうな)
当然、私みたいな担当者には回ってこず、役席者みずから応対してました。銀行の公用車に運転手をつけて、観光旅行にお連れしたり、美味しいものを食べに連れていったり、結構大変そうで、腫れ物に触るような扱いでした。
失礼があっては、大変だと、支店長が空港までお迎えに行きました。どうやら、この総会屋さんは、手広くやっているらしくて、他の某N社(ああ、実名書きたい!)の駐在員も空港に迎えにきていたのですが、N社の方は、どういう人が来るのか、詳しい連絡を受けていなかったみたいで、若い担当者が一人で、Mr総会屋に挨拶しに来たそうです。
Mr総会屋は、手土産持参で 銀行支店長と、このN社の担当者に日本酒を持ってきてくれたそうです。この後、銀行側は、至れり尽くせりの接待をしたのですが、N社は、手土産をもらって、担当者は「それじゃ、ドイツの旅ごゆっくりお楽しみ下さい」と言ってその後の面倒を全く見ませんでした。
Mr総会屋は、銀行のフル接待を受け、御満悦で日本へ帰りましたが、その後、N社の東京本社では、この時のドイツでの「失礼な」対応で、エライ騒ぎになったそうです。
翌年も、その 某雑誌編集長(ああ、実名書きたい!)兼Mr総会屋が、ドイツにやってきたとき、N社が、考えられる限りの、スーパー接待を行ったのは言うに及びません(笑)。
第一勧銀のように、不正融資による利益供与を総会屋に行っていたかは、私にもわかりません。でも、いわゆる総会屋と呼ばれる人達と、私が勤務していた銀行が密接な関係を持っていたことは、厳然たる事実です。
ちょっとだけ銀行の話を書くつもりで始めたけど、だんだん長くなってきました。
本当は、これからシリーズにすると、私が最後に辞表を出すまでに、もっとエグイ話、ヤバイ話がいっぱいあるのです。
でも、インターネットに、あまり内部事情を書きすぎると、現在銀行に勤めている当時の関係者に迷惑がかかるといけないので、このへんで止めときます。
May.10.97, July.9.97第六話追加
©1997 copyright Hiroyuki Asakura