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第三章

ハリスの欠点          ハリスと天使          特許付き自転車ランプ          理想のサドル          「自転車点検          その鷹のごとき眼光          その方法          その陽気な自信        その簡素にして安上がりな好み          その外見          どのように彼を駆逐するか        予言者としてのジョージ          外国語で不同意を表現する微妙な技術        人間性の観察者としてのジョージ          実験を提案する          ジョージの分別          ハリスの支持を取り付ける、ただし条件付きで

 

 

  月曜日の午後に、ハリスが顔を出した。サイクリング新聞を手にしていた。
僕は言ってやった。「僕の忠告を聞く気があるなら、そいつはやめておけ」
「何をやめておけって?」とハリス。
「その、最新流行の、実用新案特許つきの、サイクリングにおける技術革命で、記録破りなる、がらくたのことだ。そいつが何であろうと、君がそこに持っている広告のことだよ」
「いいけどね。たださ、たぶん僕たちは、急な坂と格闘することになるだろうし。だからいいブレーキがきっと欲しくなると思うんだよ」
「きっとブレーキがあったらいいなと思うだろう。そうだろうよ。僕たちがぜったいに要らないのは、理解不可能な、必要とされるときになると絶対に動かない、驚異の機械だ」
「こいつは」と彼「自動的に動くんだ」
「教えてくれなくていい」僕は言った。「僕はそれがどういう風に動くか、本能のおかげでちゃんとわかっている。

登り坂では車輪がじつに効果的にひっかかってくれて、ぼくらが自分の手で自転車を頂上まで運ばなくちゃならない。丘の上の空気が効き目たっぷりで、突然正常に戻る。で、やつは己れがこれまでいかに迷惑だったか反省しだすんだな。結局悔恨の念にかられて、ついには絶望へと至るのさ。
やつは自分にこう語りかける。
 『ああ、おれはブレーキにふさわしくないやつなんだ!この人たちの助けになっているどころか、邪魔してるだけじゃないか!おれは迷惑野郎なんだあああ!』
  そして、一言の警告もなしに、なにもかも投げだしやがるんだ。そのブレーキなるものがやらかすことはわかってる。だから関わり合いになるな。君はいいやつだが」
ぼくは続けた。

「ひとつ欠点がある」
「どこがだ?」ハリスがふてくされて聞き返す。
「あまりに信じ易いんだ」これがぼくの答え。

「広告を読めば、しょうこりもなく信じる。あらゆる愚か者が考え付く限りの新工夫をぜんぶ試す。君の守護天使は見たところ有能で良心的な存在らしいし、だからこれまで何とか君の面倒を見てこられたんだろう。ぼくの忠告を聞いて、守護天使を限界まで試すようなことをしなさんな。天使様は、君がサイクリングをはじめて以来さぞかし忙しかっただろう。やりすぎて護り神をきれさせるようなことはしないほうがいいぜ」
ハリスのやつは返してくる。
「いいか。もしも人類すべてがそんなことを言ってたら、人間生活のどんな分野でも進歩というものは存在しなかっただろうよ。もしも誰も新しいことを試さなかったら、世界の進歩は停止してしまっただろう。なんのおかげで……
「その意見は端から端まで知ってる」ぼくは遮った。
「ぼくは、35歳までは新発明を試すことに賛成する。35歳を超えたらだね、男は自分自身の福利に気を配る権利が与えられているというのがぼくの見解だ。君もぼくもこの件に関しては、義務を既に果たしてきた。とりわけ君が、だよ。君があの実用新案付きのランプにふっとばされた時……
ハリスが言う。
「あれはだね。思うにぼくの失敗だったんだよ。ちょっときつく締め付け過ぎたに違いないんだ」
ぼくは答えた。
「あれを君が扱ったようにして、間違うことができる仕方があるんだとしたら、心底教えてほしいと思うよ。本当に君にそんな芸当が出来るなら、普段から警戒しておいてくれいとな。ぼくに関するかぎり、君が何かやらかしたようには見えなかったね。ぼくが知っているのは、我々が平和に、なごやかにホイットビー・ロードをサイクリングしながら、30年戦争について論じあっていたということだけだ。君の自転車ランプが突然ピストルを発射したようにぶっとんだのはその時だよ。ぼくはびっくりして溝に転がり落ちた。
加えて『いますぐご主人を男が二人がかりで寝室に運びあげます。医者が、看護婦を連れてすぐやってくるところだから、たいしたことはないしなんの心配もありませんよ、と告げた時の奥方の顔ときたら、今でも忘れられないぐらいだ』
ハリスは言った。
「あの時、君が壊れたランプを拾って置いてくれたらなあ!そうしたらなんであれがあんなふうに爆発したのか原因を究明することができただろうに」
「拾っている時間なぞなかった。ぼくの計算では、拾うのにゆうに二時間はかかっただろう。
  「爆発」についていえばだね、あれが「歴史上もっとも安全な発明」でと広告されていたという事実のみをとっても、つまり君以外の人間にはということだろうが、あれは事故であったということを示している。その上、あの電気ライトのこともあったな」

「まあね。でもあれはとても明かるかったぜ」彼は答えた。「君だってそう言ったじゃないか」
「ブライトンのキングズロードでは、じつに明かるい光で、馬を脅えさせたっけ。ちょうどケンプタウンを過ぎて暗くなったころ、突然消えたんだったな。君は真っ暗な中を灯火なしにサイクリングせざるを得なかった。覚えているかもしれないが、天気のいい午後はいつも、ライトは全身全霊をかけてぴかぴかしていた。灯ともし頃になると、疲れ果ててまうのは当然だ。それでお休みが必要なわけだ」
「あれはちょっとうんざりだったな。あのライトはさ」やつはもごもごと口篭もる。
「うん覚えてるよ」
「あれはぼくのこともうんざりさせた。君よりずっとひどかったに違いない。そして、サドルのことがある」ぼくは続けたーーこの教訓をしっかりやきつけておきたかったからだ。「いままでにひとつだって、広告されたサドルで君が試したことのないものがあったかね?」
ハリスは言った。「ただ、そのうち完全なサドルがきっと見つかるはずだと思っていただけだよ」
「その考えが間違ってるんだ。この世は喜びと悲しみの混ざり合った不完全な世界なんだ。自転車のサドルが虹から出来ていて、つめものは雲でできてるような、より良い天地がどこかにあるのかもしれない。でもこの世界では、いちばん簡単なのは硬いやつに慣れることなんだ。君がバーミンガムで買ったあのサドル。真ん中で二つに分かれていて、肝臓のような形のやつだ」
「君が言ってるのは、解剖学的な原理にしたがって設計されたあれのことかい?」
「たぶんね」答えてやった。
「君が買ってきたとき入ってた箱の外には、座っている骸骨の図解があったっけ。というか、骸骨の座る部分の、といったほうがいいか」
「あれは理にかなっていた。あの絵は、真に正しい座り方の位置を教えて……
「細かいところはいいよ。あの図解はどうもデリカシーに欠けてた」
彼は「医学的にみて、あれは正しかったんだよ」と言う。
「そうかもね」ぼくは言う。「つまり、骨だけで座って自転車を漕ぐ男にとっては、という意味だけど。ぼくが知ってるのは、自分で試した限りのことだからね。そしてあれは生身を備えた人間には苦痛以外の何でもなかった。石だの轍を乗り越えるときはつねってくる。怒りっぽいロブスターに乗っていたようなもんだ。そいつに君は一ヶ月ものっかってたんだぜ」
「きちんと試すのが公平だと思っただけだよ」との答え。
「それで君の家族にも、きっちり試練を味あわせたわけだ。俗っぽい言い方をさせてもらえば。
  奥方は、覚えてる限りの結婚生活のどんな時に較べても、あの一ヶ月ぐらい君が不機嫌で、キリスト教徒の風上にも置けない振舞いをしていた時はなかったと言ってたぜ。それと、別のサドルがあっただろ。あの下にばねのついてるやつ」
「君が言ってるのは『螺旋式』のことか」
「ぼくが言ってるのは、びっくり箱みたいに君のことをどついて飛んだりはねたりさせるサドルのことだ。正しい位置に落ちてきた場合もあっただろうが、そうでないことも多かったぜ。ぼくはたんに、つらい思い出を蒸し返すためにこんなことを言っているわけでなないと解かってくれたまえ。自らの人生を使って実験をする愚かさを強調しようとしてるんだ」
ハリスは答えた。
「そんなに年の事ばかりしつこく言わないでくれないかな。34歳の……
「何歳だって?」
「いらないなら、君はやめておけばいいさ。君の自転車が下り坂で止まらないで、ジョージと一緒に教会の屋根にでもひっかかるがいいや。そうなってもぼくに文句はいわないでくれよ」
「ジョージのことは知らないがね」と、ぼく。
「ささいなことで奴はいらいらするんだ。君も知ってるだろ。君の言うような事故が起こったら、機嫌を悪くするかもしれないな。もちろんぼくは君のせいなんじゃないって説明するように努力はしてみるけれどね」
「あれは大丈夫かい?」
「二人乗り自転車ね」ぼくはこたえた。「ちゃんとしてるよ」

ハリスは聞いた。「点検に出したかい?」
「だしてない。そして、誰だろうと、これから先も、あいつを点検に出させたりはしない。自転車は今の所、まともに動いている。そしてぼくらが出発する時まで、あれはあのままで動いてることになってるんだ」

「点検」なるものについちゃ、ぼくは経験がある。
フォークストーン出のある男が居た。
ぼくはこいつにリー河沿いでよく顔を合わせたものだった。ある夕方、この男は翌日一緒に、サイクリングで遠出しようと提案し、ぼくも同意した。翌日、ぼくとしては早起きした。つまりぼくは立派な努力をし、だから機嫌が良かったわけだ。彼は半時間遅れてやってきた。ぼくは庭で彼を待ってた。上天気の日だ。

奴は言った。
「こりゃまた君のは素敵な自転車だね。走りはどうだい?」
「やあ、他のたいていのと変わりないよ」ぼくは答える。
「朝には楽々と。昼食のあとにはちょっと重いかんじかな」
彼は突然前輪とハンドルをつかみ、乱暴に揺する。
「やめてくれ。壊れるじゃないか」
なぜ自転車を揺さぶらなくちゃならないか理由が解からなかった。別に彼になにか害をしたわけではないのだ。加えて、揺さぶらなければならないなら、それをするのはぼくであるべきだろう。ぼくはまるで彼に自分の犬を殴られたみたいに感じた。
彼は言った。「この前輪はぐらついてるよ」
「君がぐらぐらさせなけりゃ、揺れないだろうさ」
実際の所、前輪は揺れたりしなかった。つまり、「ぐらぐら」という言葉をつかうほどには。
「危険だよ。ねじ回しはあるかい?」

ぼくはもっと毅然とした態度をとるべきだった。けれどぼくは、たぶんこの男はこういうことについて本当に何かを知っていると思ったのだ。道具置き場に、何が見つけられうか見に行った。戻ったとき、やつは地面に座り込んで、膝の間に前輪を挟んでいた。
やつは遊んでるみいに、指の回りでぐるぐる回し、自転車の馴れの果てであるものが、隣の砂利道に横たわっていた。
「君の自転車の前輪はどうかしちゃったらしいぜ」
「確かに、そのようだね」
ぼくは答えた。しかし彼は、皮肉を解するたちの男ではなかった。
「ベアリングがぜんぶだめみたいだね」
「とうか、それ以上気にしないでくれたまえ。そんなことしてたら疲れて大変だろう。
一緒に元どおりに組み立てて、出発しようじゃないか」
「いや何が悪いのか今ちゃんと見ておくほうがいいよ」
あたかも偶然車輪が抜け落ちたかのような口振りだった。
ぼくが止める前に、彼はどこかのなにかのねじを抜いてしまった。そして砂利道一面に、数ダースのベアリングが散らばり落ちた。

「捕まえろ!」
やつは怒鳴った。「はやく捕まえろ。1つだって無くしちゃだめなんだぞ!」完全に興奮状態だ。

ぼくたちは半時間ほど砂利をかき回して、16個発見した。奴の言うことには、全部拾えていることを期待するよということで、なぜならもし全部揃ってなかったら、きわめて深刻な問題をもたらすだろう。一つもベアリングをなくさないように注意することは、自転車を部品に解体する際に最も重要なことだと、説明してくれた。だから、取り外すときひとつづつ数えてちゃんと正しい数どおりに、元の場所に戻るようにしなければならない。ぼくが将来、自転車をあえてばらばらに解体するようなことが万一あったら彼の忠告を覚えておこうと心に誓った。

念のためぼくはベアリングを帽子に入れた。そして帽子を扉の上がりかまちに置いた。たしかにそれは賢明な行いではなかったことは否定できない。一般論としてはぼくはそれほどは間抜けではない。奴の影響を受けていたに違いない。
奴は、チェーンを回す間、自分はこいつをちゃんとして、気をつけておくよと言った。そしてギア・ケースを取り外しはじめた。ぼくはあえて説得してやめさせようとはしなかった。ただ、かつてぼくの世慣れた友人が重々しい口調で言い渡したことを、教えてやった。
「もし、なにかギア・ケースにまずいところがあったら、即座に自転車を売っちまって、新しいのを買え。そのほうが安上がりだ」
「機械のことをまったくわかってない奴がそんなことを言うんだ。ギア・ケースを取りはずすほど簡単なことがあるもんか」
彼が正しかったということは告白する。5分もたたない内に、やつはギア・ケースを二つに分解して小道に置きっぱなしにし、砂利をかき回してねじを探していた。彼の言葉によれば、いつもねじがこのように消え失せるのは、不可能ミステリに違いない。
エセルバーサが出てきたとき、ぼくたちはまだねじを探していた。妻はぼくらを見て驚いたらしく、何時間も前に出かけたんだと思ってたわ、と言った。

奴は言った。「いや、あとちょっとですよ。なにご主人が自転車を点検するのをお手伝いしてたところなんです。いい自転車なんですが、時々さっと目をとおさないといけないんですよ」

「終わって手を洗いたかったら、裏から台所においでになってくださいな。悪いんですけど、今女中たちが寝室を掃除したばかりだから」
とエセルバーサ。妻はもしケイトと会えたら、たぶん船遊びに出かけるつもりだと言った。いずれにしても昼食までには帰ってくる。ソヴェリン銀貨を一枚取られたって、妻と一緒に出かけるほうがよかった。ぼくは、この馬鹿者がぼくの自転車をばらばらにするのをそばに突っ立って見物しているのに心底うんざりしてたのだ。
良識はぼくにささやき続けていた。「これ以上面倒を起こすまえに、やつをとめろ!狂人の襲撃から自分の財産を護る権利があるんだぞ!こいつの首根っこをひっつかまえて、門から蹴りだしてしまえ!」
でもぼくは、他人の感情を傷つけることになるととても弱気なのだ。だからつい彼に好きにさせてしまった。
やつは残りのねじを探すのをあきらめた。ねじというのはあてにしてないときに突然現れるといううんざりする習性を持っているから、さきにチェーンのほうをきちんと見るべきなんだと説明した。まずは動かなくなるまでチェーンを締め付けた。次に、以前の2倍ぐらい緩くしてしまった。それから、ぼくたちは前輪を元どおりにする方法を考えださないといけない、と宣言した。
ぼくが受け軸を外むきに支えて、やつが車輪の面倒を見た。10分後、彼が受け軸を持って、ぼくが車輪を受け持ったほうがいいのじゃないかとぼくが提案して、場所を換えた。一分後、奴は車体を取り落とし、両手を股の間に挟んで、クロケット用の芝生の向こうまでぐるっと歩き回ってきた。立ち歩きながら説明したところによれば、指を本体と車輪のや【車偏に幅】の間にはさまないように気をつけないといけないという。ぼくは経験から言っても、君の言うことは確かに真実だと答えた。やつはぼろきれで巻きつけてから、もう一度始めた。長いことかかって、やっと部品をはめ込むことができた。きちっとはまった瞬間、やつは突然笑いだした。
「なにがおかしいんだ?」
「やあ、なんてぼくは間抜けなんだろう」と男。
それは彼がこれまで言ったことの中で、初めてぼくが彼を尊敬できた言葉だった。いったいどうやってその発見に達したのかたずねてみた。
「ぼくたちは、ベアリングのことを忘れてたよ」

帽子の方を見ると、道の真ん中にさかさまに転がっていた。エセルバーサの可愛がってる犬が、ベアリングを拾う先からさっさと呑み込んでいた。
「あんなことをすると死んじゃうぜ」エブソンは言った。ぼくはその日以来この男に会っていない――神よ、感謝します!――が、たぶん奴の名はエブソンだったと思う。「ありゃ丸々鉄の塊だよ」
「ぼくはあの犬の事は気にしないね。あいつは今週だけでもう、靴の敷き革と針を一揃い飲み込んでるからな。自然の本能にまかせておくのが一番なのさ。小犬にはこの手の刺激物が要るらしいぜ。ぼくが今気になるのは、自転車なんだけれどね」
奴はとても朗らかな様子だった。「そうだね。見つかるだけ取り戻さなくちゃ。それから神の御恵みを信じようや」
ぼくたちは11個見つけた。片面に6つ、もう片面に5つを取り付けた。半時間後には、車輪は元通りに戻っていた。言うまでもないことだが、今回は、車輪はちゃんとぐらぐらするようになっていた。幼児だって気がついたに違いない。エブソンは今のところはこれで間に合うと言った。やつは見るからにじぶんでももううんざりしてきた様子だった。この時点でぼくがもういいと言ってたら、やつは家に帰っていただろうと確信している。しかし今やぼくは、この男はなんとしてもここに残って、最後までけりをつけていくべきだと心に決めていた。サイクリングにでかけようという考えはすでに捨ててた。こいつはぼくが自転車について誇りに思ってたすべてを虐殺してしまったのだ。今やぼくに興味があるのは、この男がひっかき傷をつくり、どこかをぶつけたりはさんだりするのを見ることだけだった。ぼくは意気阻喪しかけている彼をビール一杯で再起させ、通り一遍でない賛辞を捧げた。

「君がやってることを見てるのは本当に勉強になるよ。腕がよくて器用なのにうっとりするだけじゃなく、前向きな自信と根拠のない楽天性にぼくは救われる思いだよ」
激励されて、やつはギアケースを直す作業に取り掛かった。まず自転車を家の壁にもたせかけて、反対側に回ってはじめた。それから木にたてかけて、こっち側から作業しようとした。次にぼくに支えさせ、やつが地面に仰向けになり両輪の真ん中に頭をつっこんで、下から直そうとして、オイルを自分の顔にたらした。次に、自転車をぼくからひったくり、振り分け鞍みたいに、自転車を上から自分の身体を二つ折りにして挟んでみて、あげくにバランスを崩して頭から滑り落ちた。
やつが三遍言ったことは「やったぜ。やれやれやっとなんとかなった!」

そして二度、口にしたのは「なんだちくしょう、やっぱりだめじゃないか!」
やつが三度目に言った言葉については、ぼくは忘れるつもりだ。
そして、彼は怒り出し、 暴力で脅そうとした。我が自転車のやつは、嬉しいことに根性のあるところを見せた。その後は、奴と自転車のどつきあいとっくみあうプロレスにまで堕落したとしか言えない。ある一瞬は自転車は砂利道に、奴はその上に取り付いていた。次の瞬間、体勢は逆転した。やつが砂利道に横たわり、自転車のほうが上だ。さあ、やっと野郎が勝ち誇って頬を紅潮させ、両脚の間に自転車を挟み込んだぞ!しかし勝利の瞬間は続かない。突如としてすばやいモーションで自転車は奴を振り放し、立ち向かった。ハンドルで頭を鋭く殴り付けつけたのだ。

1時15分前になったところで、汚れて服はぐちゃぐちゃ、切り傷をこしらえ血を流して、奴は宣言した。「これでなんとかなると思うぜ」立ち上がって、額を拭いた。
自転車は、もううんざりだと言う姿だった。二人のうちどちらがひどい目にあったかどうかは簡単には判断できない。ぼくは裏の台所に奴をつれていき、彼が洗剤と適当な用具なしででできるかぎり、身体をきれいにしたあと、家まで送っていった。
自転車のほうは辻馬車にのせて、一番近くの修理店に帰りがけによった。ガレージの親方は出てきて、そいつを検分した。
「で、こいつをどうして欲しいんで?だんな」
「できるかぎりでいいから、元に戻してほしいんだ」ぼくは頼んだ。
「ちょっといきすぎだわな」と彼。「まあできるだけやってみましょうや」

親方は最善をつくした。そいつは2ポンドと10シリングについた。しかし、自転車は決して元どおりにはならなかった。戸外の季節の終わりに、ぼくはそいつを売っぱらうため中古業者にあずけた。ぼくはだれも欺きたくなかったので、去年のものだと広告するように頼んだ。業者は、日付のことはまったく触れないでおいたほうがいいと忠告した。
「この商売では、何が本当で、何がそうじゃないかは問題じゃない。他人になにを信じて貰えるかが問題なんですな。さてさて、ここだけの話、こいつは去年の機械のようには見えませんな。外見について言やあ、10年経ってても不思議はないね。そこで古さについては触れないでおきましょう。そしてとれるだけ貰う、と」
ぼくは彼に一任した。業者は5ポンドで売ってくれた。彼に言わせれば予想以上だった。

自転車で運動するのには二つの方法があるとされている。一つは、点検修理すること。もう一つは乗ることだ。全体的な見地から見て、点検という楽しみを取る者が、じつは一番得してるということを否定できないように思える。点検修理には、天気も風向きも関係ないし、道路状態にも悩まされない。ねじ回しとぼろ切れの束とグリース缶、なにか坐るものを与えておけば、自転車修理好きは一日幸せにすごしてるだろう。もちろんなにがしかの不利益はある。文句なしの楽しみなんてものは存在しないのだ。

修理人はいつだって鋳掛け屋かなにかのように見える。自転車の方はは、そいつを盗んできて、改造してごまかそうとしたという印象を与えるんだが、どうせ最初の1マイル以上は進めやしないので、たいして変わりはないのだ。一部の人々の間違いは、一つの自転車で両方のスポーツを楽しむことができると考えることにある。そんなことは不可能で、この二つの負担に耐え得るような器械は存在しない。自転車を点検修理するか、乗って楽しむのか、どちらか決断しなければならないのだ。

個人的に、ぼくはサイクリングを好むので、近くに点検修理の誘惑になるようなものはなにも置かないように注意している。どこかおかしかったら、一番手近な修理屋まで押していく。歩くには遠すぎるほど街や村から離れていたら、道路際に坐って、荷車がやって来るまで待つ。いつものことだが、主要な危険はさまよえる自転車点検家たちによってもたらされる。壊れた自転車が修理人たちの目にふれるのは、鴉が行き倒れの死体を見つけたようなものだ。やつらは勝ち誇って友好的なおたけびをあげ飛び掛かって来る。最初のうちは、ぼくは礼儀正しくしようとした。
『なんでもありませんよ。気にしないで。先に行って楽しくやっててください。そうしてくれたほうがありがたいんです。お願いですから行ってください』
経験によって学んだのは、礼儀作法というのはこういったぎりぎりの事態に何の訳にもたたないということだ。今はぼくはこう言う。
『とっとと行って、こいつのことはほっといてくれ。でなければまぬけ野郎には一発くらわせて、ぶっとばすよ』
毅然とした様子を見せ、しかも頑丈な棍棒を手にもっていれば、たいていは奴を追っ払うことができるだろう。

ジョージが後でやってきて、こう言った。
「さて、ぜんぶ用意ができそうかい?」
「なにもかも水曜日には用意万端だよ。ただし、たぶん君とハリスを除いてね」
「二人乗り自転車はちゃんとしてるかい?」
「自転車は」とぼく「もちろんちゃんとしてる」
「点検が要るんじゃないかい?」とジョージ。ぼくの答えはこうだ。
「ぼくが年齢と経験によって学んだことはね、人生には、きちんとやったと確信をもって言えることなんかほとんどないってことだ。だからして、どんなレベルであれ、ぼくが確かな答えを持てる問いというのは限られてる。でもその数少ない、決して揺るぎのない確信の一つというのは、タンデム自転車には点検は必要ないという信念なんだ。ついでに予感がするんだが、ぼくの命のある限りでは、どんな人間も今この時から水曜日までのあいだに、あの自転車を点検したりしないね」
ジョージが応じるには
「ぼくが君だったらそんなに感情的になるのはどうかと思うね。いつの日か、それもそんなに遠くないうちに、たぶん一番近所の修理屋までには二つ三つの山を越えなくちゃならない場所でもって、君がどうしようもなく休息を切望してるにもかかわらず、あの自転車を点検修理しなければならないときがくるような気がするな。そのときになったらばさ、オイル缶をどこに置けとか、ネジまわしをどこにやったかとかに口をだしてくれる人が居てくれたらどんなにいいか、君は切望するだろうって気がするがね。そして君が自転車を木の幹に寄せて支えていあいだ、誰かにチェーンを掃除して後輪に空気を入れてくれよと、言い出すに決まってる」
ジョージの反ぱくは正論のように思えた。なにがしかの予言の叡智といった気配がある。
「気が乗らないように聞こえたら、勘弁してくれよ。本当のことを言うとさ、ハリスのやつがけさ顔を出してね……
「いいよ言わないでも。わかってる。それに用事があったのは他のことなんだ。ちょっとこれ見ろよ」

ジョージは赤い布装の小さな本を手渡した。それはドイツ人旅行者のための英語の会話帳だった。「蒸気船にて」にはじまり、「医者」で終わっていた。一番長い章は、客車の中での会話、それもあきらかにコンパートメント一杯の狂人たちの間でのやりとりにあてられていた。『すいません。ちょっとわたしから離れてくれませんか』『奥さん、無理ですよ。こっちの隣の人は太ってるんです』『どうかわれわれの足をきちんと置けるよう試みてみようではありませんか』『善良さをもって、おねがいですからすこし肘をさげていただけませんか』『もしご迷惑でなければ、ぼくの肩を頭もたれに使ってくださってもいいですよ。奥さん』

皮肉を意図しているのか、そうでないのかよくわからない。すくなくともどっちだという決め手はなかった。

「もうしわけないが、どうしてもお願いしなければなりません。もうすこしあっちに行ってくれませんか。息ができません」
著者の考えはおそらくこの時点までに誰も彼もが床の上でぐちゃぐちゃににもつれ合っているということだと思われた。その章の最後は、「やあ、終着駅だ。神に感謝を!(ゴッザイ  ダンク!)」という敬虔な叫びだった。状況を考えるとユニゾンで叫ばれたと思われる。
本の最後には、附記があって、ドイツ人旅行者が英国の街に滞在する間に健康と快適さを保つためのヒントが書いてあった。そのうち重要なのは、殺菌剤を切らさないようにし、夜は寝室のドアをかならず閉め、小銭をいつもちゃんと数えることだった。

「別に傑作ではないようだね」
ぼくはそう評して、本をジョージに返した。「個人的には、英国に来るドイツ人旅行者の誰にも薦めたいとは思わないな。嫌われるためには役に立つだろうけど。でもロンドンで出版された、海外に行く英国人旅行者向けの本で、同じくらいばかばかしいものをいくらも読んでるからね。だれか7ヶ国語を誤読できる、高学歴のまぬけが、現代ヨーロッパについての勘違いと間違った指導を広める目的でこういうのを書き散らしてるんだろ」

「でも、君はそういうけど」とジョージ
「こういう本に受容があるのは否定できないぜ。たしかに何千単位で売れてるんだ。ヨーロッパ中のどの街角にも、こういうことを口にしてる連中がかならずいるはずだぜ」
「たぶんね。でも幸運なことに、誰も理解りゃしない。ぼくだってこれまでに、駅のプラットフォームや街角で、こういう本から会話を読み上げてる連中に気がついた。誰も連中が何語を喋ってるのか理解できないし、何を言っているのかもぜんぜんわからない。ありがたいことなんだろう。だって言ってる内容がわかったら、殴られるよ」
ジョージによれば「たぶん君の言う通りだ。こういうのがちゃんと理解されたら、どういうことが起こるのか見たいものだ。提案なんだが、水曜日は朝早くロンドンに言って、1、2時間、この本を使って歩き回って、買い物してみないか?どうせひとつふたつ買いたいものがあったんだ。帽子と、寝室用のスリッパと、いろいろ他にもね。フェリーはどうせ12時までティルベリーを発たないんだから、ちょうど時間がある。こういった会話は、まず自分でどういうことになってるかよく解るところで試してみたいじゃないか。外国人が、こんなふうに話しかけられたらどうするか知りたいもんだ」

そいつはぼくにはなかなかスリルのある提案だと思えた。ぼくは喜んでジョージに付いていって、店の外で待っていてやるよと提案した。ぼくはハリスもそいつに混ざりたいだろう、いやむしろ見物したいだろうと考えた。
ジョージは、そいつは自分が考えてたこととは違うと言った。ジョージはぼくとハリスが店の中に付いていくべきだと言う。強面のハリスを味方にし、ぼくが入り口でいざとなったら警察を呼べるようにしておいたら、そういう冒険をしてみてもいい。
ぼくたちはハリスの家に寄って、この提案をしてみた。ハリスはガイドブックをよく観て、特に靴と帽子の購入の章あたりを検討した。
「もしジョージが、靴屋や帽子屋にここにあるような事を言う気なら、ジョージに要るのは味方じゃなくて、病院行きの運び屋だと思うよ」
こいつはジョージを怒らせた。

「君はぼくが、分別のない能天気みたいに言うね。ちゃんと、割合に礼儀正しくて、そんなに煩くない会話を選ぶさ。最低な罵倒はちゃんと避けて見せるよ」
きっちり約束したので、ハリスはジョージの主張に折れた。かくして出発は水曜日の朝早くと決まったのだった。

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