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Updated on January 1, 2002 |
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![]() ![]() 偏見や因習を打ち破り、新たなエネルギーを開放した1960年代を集約するように、ご機嫌のダンス・グルーヴに乗せてフリー・スピリッツの勝利を宣言したスライ。1969年の「エヴリデイ・ピープル」では、「どの集団に属しているかなんて関係ない、俺も皆と同じ普通の人間なんだ」と、彼の普遍主義的な発想を鮮明に打ち出したが、そこにはビートルズの「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」にも共通する同時代的な精神だった。 ところが、その後70年代に入ると、スライの周辺を、ドラッグ、銃、逮捕といった言葉が取り巻き始める。彼はまるでフラワー・ジェネレーションの夢の挫折を体現するかのように、暗い世界に落ち込んでいってしまった。スライに一体何が起きたのか、彼の音楽と生き方を、社会情勢の変化とも重ね合わせながら追いかけてみたい。 音楽の革新者スライ スライ・ストーンが引き起こした「ファンク革命」は、ポピュラー音楽に多大な影響を与えた。その影響の広がりは、ソウルやロックの世界にとどまらない。例えば、同時代のジャズマンも、彼の音楽の革新性を高く評価した。1968年頃からロックの要素を採り入れて新境地を開拓したマイルズ・デイヴィスが、この時期よく聞いていたミュージシャンとして挙げたのは、ジミ・ヘンドリックス、ジェームズ・ブラウンと並んで、スライ&ザ・ファミリーストーンだった。後で述べるように、デイヴィスは、個人的にもスライと非常に親しかった。
当時のインタビューで、ハンコックは次のように告白している。「僕はずっと、スライ・ストーンのアルバムに参加したいと、密かに思っていた。彼がアルバムを出すたびにいつも驚嘆させられたからね。そしたらそのうちに、それならああいう音楽を、彼と一緒にじゃなくて、自分のグループでやってみたらどうだろう、という気になったんだ。」 本作の発表当時、多くのジャズ・ファンは、ハービー・ハンコックが堕落したと非難を浴びせた。一流のジャズマンたちが、ジャズ純粋派に背を向けられる危険をあえて冒しても強く惹かれていくほど、当時のスライ&ザ・ファミリーストーンには圧倒的な魅力があったのだ。 スライが音楽的に既存のジャンルを跨いだ活躍をし、かつ実生活でも人種の枠に囚われなかったのは、彼の生い立ちにも関係している。スライは、サンフランシスコ近郊のバレホ市に育ったが、当時市内には高校は一つしかなかった。だから、教育現場での人種分離がまだ当然だった時代でも、彼の高校には白人も黒人も一緒に通っていた。スライが高校の同級生と組んだヴォーカル・グループ、ヴィスケインズ(Viscaynes)は、白人4人(うち2人は女性)、フィリピン系が1人、それにスライという構成だった。 スライの本名はシルヴェスター・スチュワートだ。スチュワート家は音楽一家で、スライは、兄弟といっしょに、幼い頃からゴスペル・グループとして、近くの教会に出演していた。彼は早くから音楽の素質を発揮し、ギターやオルガンも自分で身に付けたようだ。はまだ10代のときに、家族のコーラス隊の一員としてレコードデビューを果たしていたが、転機になったのは、ヴィスケインズで収録した61年のシングル「イエロー・ムーン」だった。 曲自体は売れなかったが、この曲でリード・ヴォーカルを務めたスライは、地元のラジオDJ、トム・ドナヒュー
65年には市内にマザーズというライヴハウスを開業、世界初のサイケデリック系のクラブとして、カラフルな内装とライトショーを呼び物に、初期のサイケ・ロックを育てた。67年にはFM局KMPXに入局、このラジオ局を世界初のロック専門局に改造し、ロックの普及に多大な功績のあったFMラジオの先鞭をつけている。 そのドナヒューの音楽面の右腕に選ばれたのが、まだ本名のシルヴェスター・スチュワートを名乗っていた、弱冠20歳のスライだった(写真は左がスライ、右がドナヒュー)。彼はオータム・レコーズでの音楽制作を取り仕切る役目を任せられ、プロデュースからA&R、そしてバンドリーダーも務める活躍ぶりをみせた。黒人アイドルのボビー・フリーマンの「カモン・アンド・スイム」(64年)は、スライが作詞からプロデュースまで全面的に手掛けた作品で、オータム・レコーズ最大のヒットになる。 しかし、このレーベルの歴史的な重要性は、むしろ沸騰直前のサンフランシスコの白人ロックを支えたことにあるだろう。65年に「ラーフ、ラーフ」のヒットを飛ばしたボー・ブラメルズは、サンフランシスコ出身で成功した最初の白人ロックバンドだったが、彼らをリクルートしプロデュースしたのも、スライだった。スライがオータムで手掛けた白人グループの中には、グレート・ソサエティ、あるいはウォーロックスといった名前もある。彼らはまもなく、それぞれジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッドと改名し、サンフランシスコのアシッド・ロックを代表するグループとして名を馳せることになる。 スライがトム・ドナヒューの信任を得て、若くしてこれだけの活躍の場を手にしたのは、当時のスライがすでに人並みはずれた才能をみせていたからだ。彼は歌だけでなく、オルガン、ギター、ドラムからベースまで、さまざまな楽器をこなすことができた。服装もおしゃれで、社交的だった彼には、ミュージシャンたちを惹きつけるカリスマもあった。そして何よりも、彼には音楽的アイディアが豊富だった。コミュニティ・カレッジで音楽理論を学んだ彼は、在学時代は非常に勉学に熱心で、優秀な学生だったという。 ボー・ブラメルズのリーダー、サル・ヴァレンティーノは、当時のスライの魅力について、こう語っている。「スライは僕より若かったけど、楽器は何でも演奏できた。最初スタジオに入ったとき、僕らはなるべく完璧に仕事をしようと思って、かなり緊張していたんだと思う。それをスライが緊張を少しほぐしてくれた。学校の授業みたいな雰囲気だったのを、もっとパーティーみたいな空気に変わるように、リードしてくれたんだ。」 オータムで彼が関与した音楽のレパートリは、黒人音楽の領域をはるかに越えている。ここには、R&Bの枠にとどまらなかったスライ&ザ・ファミリーストーンのサウンドの源流をみることができるだろう。65年当時はビートルズっぽい髪型をしていたというスライにとって、ボー・ブラメルズのような白人サウンドを手掛けるのは決して不自然ではなかったのだ。 フラワー時代の寵児、スライの誕生 オータム・レーベルでの仕事と並行して、64年、スライは黒人系AM局のKSOLでラジオDJを始める。彼はコミュニティ・カレッジを終えた後、クリス・ボーデン放送専門学校に通って、放送の仕事を正式に学んでいた。彼が本名のシルヴェスターの愛称「シル(Syl)」をもじって「スライ(Sly)・ストーン」と名乗り始めたのは、この頃からだった。 最初は普通のDJと大差なかったスライだが、次第に個性を出し始め、独特のユーモアの効いた語りで、人気を集め始めた。まもなく彼は週6日間、午後7時から深夜までのプライムタイムを担当する人気DJになる。選曲は、当初はお気に入りのレイ・チャールズなどを流していたが、そのうちにブラック・ミュージック専門局の枠をはずれて、ボブ・ディランやビートルズ、地元のガレージ・バンドまで流し始めたらしい。R&Bの枠にはまらないスライの嗜好は、ここでも明らかだった。 また、スライは、曲と曲の間に自作のジングルを流したり、生放送のCMに即興のピアノ伴奏をつけたり、といったさまざまな実験を試みた。彼がジングルを作るときに、よく協力していたのがビリー・プレストンだった。当時レイ・チャールズのバンドに所属していたプレストンは、スライと非常に仲がよく、オータム・レコーズのセッションにもよく加わったようだ。 当時のプレストンのアルバム『ワイルデスト・オルガン・イン・タウン』(66年)では、スライがアレンジャーを務めている。因みに、この中の1曲「アドバイス」は、後にスライ&ザ・ファミリー・ストーンの代表曲になる「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイヤー」の原曲だ。 オータム・レーベルは資金難に陥って66年に幕を閉じたが、スライはDJの仕事で連日忙しく過ごしていた。にもかかわらず、彼は自分のバンド活動を開始し、スライ&ザ・ストーナーズという名前でクラブに出演し始める。当時の観客には、スライのラジオ番組のファンが多かったらしい。この時点で、すでにスライは、独特のファッション・センスを発揮していた。衣裳を決める際には、ビートルズやタートルズといったイギリスのグループのLPジャケットの写真を参考にし、ステージには全員パジャマで登場するといった斬新な演出も試みたようだ。 バンド活動に本腰を入れ始めたスライは、まもなくラジオ放送に穴を開けるようになる。局内で不興を買ったスライは、67年6月、KSOLを離れる。その年の10月からは、今度はKSOLのライバルだった大手の黒人系AM局、KDIAに移って、ふたたび2ヶ月間だけDJを務めたが、この頃からスライの活動の中心は、いよいよ自分のグループでのライヴ活動に移った。
この2つのバンドから集まったメンバーに加えて、スライがリクルートしたのが、ベーシストのラリー・グラハムだった。彼は当時、ジャズ歌手として活躍する母親のデル・グラハムのバックで演奏していた。ベースの奏法に革新を起こしたベーシストとして知られる彼は、もともとギタリストだった。彼がベースを弾き出したのは、出演先のクラブのオルガンが壊れて、ベースペダルの伴奏がなくなったためだったという。そして彼はベースのみでリズムを刻むために、彼のトレードマークになるチョッパー奏法を、独自に編み出した。 こうして誕生したファミリー・ストーンは、実に斬新なグループだった。まず、メンバー編成からしてユニークで、黒人4人と白人2人という混合グループ、ホーン隊が2人で、そのうち一人は女性トランペッターだ。68年からはさらにスライの妹のローズ・ストーンが正式に参加して、7人編成になる。 スライは非常に意欲的で、オリジナル曲を次々と書き下ろし、アレンジもすべて自分で手掛けた。スライのカリスマに束ねられたメンバーたちには、強力な一体感が生まれ、まもなくスライ&ザ・ファミリー・ストーンのあのユニークなサウンドが誕生する。 スライは、ステージ衣裳にもこだわった。当時R&Bのグループと言えば、全員同じ衣裳に揃えるというのが常套だったが、スライは自分の指定した古着屋にメンバーを送り込み、一人一人別の衣裳を身に着けさせた。カラフルで個性重視のファッションはこのグループの特色で、同じファンクでも、ジェームズ・ブラウンがバックにきっちりと制服を着させ、黒人意識を高揚させるマッチョなファンクを繰り出していたのとは、およそ対照的だ。それはいわば、サンフランシスコ発のフラワー・パワーの到来を告げる、新たな時代のファンクを象徴するファッションだったと言っていい。
彼らが全国的にブレイクしたのは、2作目の『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』(1968年)(写真)以降のことだった。タイトル曲が68年4月、全米8位まで昇り、彼らはもっと大きな会場で演奏できるようになった。5月には、ジミ・ヘンドリックスと同じ日に、フィルモア・イーストに出演し、この伝説的会場でのデビューを果たしている。 成功の一つの秘訣は、1作目の商業的な失敗に学んで、モータウン風の分かりやすいビートを取り込んだことにあった。これは彼らが当時ライヴで追求していたサウンドと比べれば妥協には違いなかったが、だとしてもこのアルバムには十分インパクトのある要素がぎっしり詰め込まれている。 サイケ色の濃いギタープレイ、ファンキーなホーン、高音で彩りを添えるクラリネット、混声ヴォーカルのコール&レスポンス・・・それぞれのパートが個性を放ちながらも全体として新しい音楽を生み出していく、人類融和の精神を音楽的に表現したともいえるスライのスタイルは、ここに確実に表われている。泥臭いディープソウルとも、お行儀のいいノーザンソウルとも違う、やたらとヒップなR&Bが突然音楽シーンに登場した、まさに歴史的な瞬間だった。 スライ&ザ・ファミリー・ストーンの魅力は何といっても、ライヴにあった。彼らの音楽とスライのパフォーマンスには、観客の興奮を煽り立てる独特の魔力があったようだ。69年7月のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルでは、数百人の観客がフェンスを倒してステージに押し寄せ、一大騒動を起こしている。そして翌8月には、ウッドストック・フェスティヴァルに出演した。 彼らは2日目の夜の出演予定だったが、フェスティヴァルの進行が遅れ、ステージに登場したのは朝の3時半だった。このとき多くの聴衆は疲れて眠りかけていたが、彼らが8曲目、最後の「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ ユー・ハイヤー」を披露する頃には、40万人とも言われる観衆は、映像にも記録されているように、興奮のるつぼに包まれた。この夜のパフォーマンスは、スライの名を全米に知らしめる伝説的なライヴになった。 変貌するスライと黒人社会 69年夏のスライは、すでに名声を確立した一大スターだった。4作目で最新作の『スタンド!』(69年)は、ポップ・チャートで13位、R&Bチャートで3位を記録、そこからリリースされたシングル「エヴリデイ・ピープル」は、両チャートで1位を獲得する大ヒットになっていた。彼は、ロックとR&Bの両ジャンルで認知される、人種を超えたスターの座を獲得したのだ。 ウッドストックを終えてまもなく、スライはロサンジェルスに本拠地を移す。ハリウッドを見下ろす丘に豪奢な邸宅を借りた彼は、まさにロックスターを地でいく派手な生活に染まり始めた。生活環境の変化とともに、スライに徐々に変化が表われ始めたのは、これ以降のことだった。 スライの家では毎晩のようにパーティーが開かれ、さまざまな人間が出入りするようになった。彼がドラッグを大量にやり、怪しいドラッグディーラーたちとも頻繁に接触し始めたのは、この頃だ。ハリウッドでは、表のきらびやかな世界と裏のストリート・カルチャーが密接に繋がっている。スライのように金と名声を得た人々をターゲットにたかってくる人間は、後を絶たなかった。 問題はスライの側にもあった。彼はサンフランシスコでDJをやっていた頃から、夜は歓楽街で、危ない連中と付き合っていた。彼は裕福とはいえないまでも中産階級の出身で、ゲットーのようなストリートの現実とはもともと無縁だった。それだけにかえって、スライには、ストリートで生きるヤクザの生き方に対する憧れがあった。彼らのように、力を誇示し、女を操り、派手に着飾って、自分も悪ぶりたいという衝動は、ヒップさを追求してきたスライだからこそ抱えた弱みだった。
スライはロサンジェルスに落ち着くと、刑務所を出たばかりのバンクスを家に呼び寄せた。彼はスライの承認を得て、まるでこの家の元締めのように振る舞い始める。彼らは、スライがドラッグでトリップしている間、彼の家を仕切って、出入りする人間をチェックした。バンクスたちがスライの周りを取り囲むようになった結果、他の人々とスライとの関係は次第にぎくしゃくしていくことになる。 この変化に最大の被害を受けたのは、マネジャーのデヴィッド・キャプラリックだった。彼はコロンビア・レコーズでバーブラ・ストライザンドやアンディ・ウィリアムズ、アレサ・フランクリンと契約を交わした輝かしい実績を誇る業界人で、一時エピック・レコーズの責任者も務めていた。スライ&ザ・ファミリー・ストーンを見出して、エピックと契約させたのも彼だった。 キャプラリックとスライの関係は、単にレコード会社の人間とアーティストという関係ではなかった。彼はスライの才能に心から惚れこんで、スライと組んでからはエピック・レコーズを退社し、所有していたコロンビア・レコーズの株を売り払った資金で独立した。彼はスライのマネジャーになり、本腰を入れてスライを支え始める。 ところが、スライの取り巻きには彼の存在を好ましく思わない者もでてきた。当時の黒人社会では、60年代半ばの人種融和的な夢が色褪せるとともに、黒人至上主義を唱える過激な黒人運動が力を増していた。例えば、ブラック・パンサー党がその典型だ。スライを取り囲む黒人たちにも、そんな風潮に共鳴する空気があり、ニューヨーク生まれの中年のユダヤ系白人というプロフィールのキャプラリックは、彼らの格好の標的になってしまったのだ。 スライ自身は彼を切り捨てるつもりはなかったが、この状況に神経が擦り切れてしまったのは、キャプラリックの方だった。ドラッグの影響で音楽活動も滞り始めたスライを、彼は懸命に支えたが、現実の苦しみから逃避するために、彼自身もコカインにはまり始めた。追い詰められたキャプラリックは、71年秋ついにスライに嘆願し、マネジャーの職を解いてもらう羽目になってしまった。 1996年に彼を取材した記者によれば、スライとの仕事に全身全霊を投じていたキャプラリックは、このときのショックから二度と立ち直ることはなく、通常の社会生活に復帰することができなかった。彼は今も自殺衝動に駆られながら、空虚な思いを抱えて無為な日々を送っているという。 スライ本人はといえば、70年頃には、売人を見かければすぐ新しいドラッグを買い込む状態で、ほとんど一日中ドラッグと切り離せない毎日を過ごしていたようだ。この状況は音楽活動にも悪影響を及ぼした。この年スライ&ザ・ファミリー・ストーンは約80回の公演を予定していたが、そのうち約26回にスライは遅刻し、あるいはまったく姿も見せなかったという。時間通りに間に合ったときも、ヘリコプターをチャーターして、公演の開始直前に会場に乗りつけるような状態だった。 影響はレコーディングにも表われている。67年以来毎年新作を発表してきたスライは、70年にはシングル「サンキュー/エヴリバディ・イズ・ア・スター」の2曲しか新曲を発表できなかった。このシングル自体は、ポップスとR&Bの両チャートで1位を獲得し、文句なしのヒットになったが、この時期のスライの私生活が創作活動にも影響を及ぼし始めたことは否めなかった。この年、エピックが『グレイテスト・ヒッツ』(70年)を発表したのも、スライに新作の準備がなかったために、レーベル側は編集盤を制作するしかなかったからだ。 スライの新たなファンクネス まともに活動できないスライの状態は、バンド全体にもストレスをもたらした。公演先に赴いても、スライが来なくて出演がキャンセルになる事態が度重なるにつれて、メンバーの不満は高まっていく。スライとコミュニケーションをとろうにも、彼の取り巻きに阻まれて、思うように意思疎通ができなかった。67年の結成当時にはあれだけの一体感を誇ったバンドは、次第にばらばらになり始めていた。
ドラマーのグレッグ・エリコも、このバンドの状態に嫌気が差していた。ライヴでの演奏の質も落ち、活動の停滞で収入も減っていた。何よりも、かつてあれだけ豊富なアイディアでバンドを牽引していたスライが、もはやバンド内の様々な問題に対処する力のないことは明らかになりつつあった。『暴動』で彼が録音に参加したのは、「サンキュー・フォー・トーキング・トゥ・ミー・アフリカ」1曲のみだ。結局彼は、71年半ばにグループから脱退する。 この頃から、スライ&ザ・ファミリー・ストーンは、スライのソロ・プロジェクトに近づいていった。ラリー・グラハムの出番は減り、「スマイリン」に至っては、すでに録音されていたグラハムのベースは外され、スライが自分でベースを入れ直している。また、スライは、リズムも、ドラム・マシーンを使って自分で打ち込むことが増えた。 だが、こうした変化は、スライの音楽的な後退を直ちに意味したわけではなく、むしろ新たな魅力につながった。確かに初期のサウンドと比べると、かつての高揚感は消え、パンチの効いたホーンやヴォーカル・ハーモニーといったカラフルな要素も大幅に減っている。しかしそのことは、逆に、実に生々しいファンクを生み出すことになった。ここでのスライのヴォーカルは、のどを搾り出すようで、これに楽器演奏が絡み付いていく粘着質のサウンドは、70年代半ばのカーティス・メイフィールドにも通じる、スロー・ファンクの傑作といえるだろう。 スライの変化は歌詞にも表われた。「ポエット」のひたすら淀んだファンクに乗せて、スライは「俺の武器はペンだけ」「俺はソングライターなんだ」という独白を披露する。自分に言い聞かせるようにこうしたセリフを吐く様子は、かつて何十万人の体を揺さぶってしまう魔力を備えていた人間とは、まるで別人のようだ。収録曲の中で例外的に軽快な「ファミリー・アフェア」の歌詞も、家族の絆の強さを歌っているようで、最終的には絆が駄目になっていくことを暗示している。 「サンキュー」は1年前のシングルを、圧倒的にスローで重たい7分バージョンで再演したものだ。この曲のフル・タイトルは、「サンキュー・フォー・トーキング・トゥ・ミー・アフリカ」(=「アフリカよ、僕に語りかけてくれて有難う」)で、1年前の原曲が「サンキュー・フォー・レッティング・ミー・ビー・マイセルフ・アゲン」(=僕自身を取り戻す力をくれて有難う」)だったのとはあまりに対照的だ。時折「アイム・ダイイング(死にそうだ)」といううめき声のようなコーラスがかぶさってくるのは、暗示的でさえある。 スライの音楽が、ポップスやロックと垣根のなかった初期のサウンドを離れて、新たな黒さを帯び始めたのは、当時のアメリカ社会の中で黒人の置かれた立場の変化とも符合していた。60年代の黒人解放は、確実に成果も生み出したものの、他方で新たな分配の恩恵に浴さない層の黒人の生活は悲惨さを増した。特に都会の黒人街のゲットーには貧困と犯罪が蔓延し、黒人の間には新たな絶望感も広がっていた。 カーティス・メイフィールド
これに対してスライは、「スーパーフライ」に描かれたような黒人の犯罪社会の只中に、身を置いた。彼は、メイフィールドたちと違い、自らストリートの現実に落ち込んでいってしまったのだ。奇抜なまでにアイディアが豊富で、非常に知的な人間だったスライは、常にトリップしている利己的なジャンキーに変わっていった。 かつて人種の壁を超えたヒッピーの理想郷を体現していたスライが、こうして崩れていった姿そのものが、アメリカの人種問題の現実を反映していたともいえる。スライが暗黒社会の空気に染まっていったロサンジェルスは、米国の大都会のなかでも特に黒人街のゲットー化が進んだ都市だった。 スライの地元サンフランシスコでは、最大の黒人居住区であるフィルモア地区に白人ヒッピー音楽の殿堂が構えているという共存が成り立っていたが、ロサンジェルスの黒人は、「ハリウッド化」しない限り、白人とは隔離されていた。スライが自覚していたかどうかは別として、彼の新たな音楽と生活は、人種融和を標榜する姿勢を捨てて、ゲットー化する黒人の世界で生きる道を歩みだしたことを示していた。 スライを取り巻いたミュージシャンたち 71年秋、スライはロサンジェルス市内の高級住宅街、ベルエアに移り住む。新たに借りた家は、家賃が1万2千ドルの大邸宅で、彼の前は、ママズ&パパズのジョン・フィリップスが住んでいた。3階建ての豪奢な造りで、地下にはワインセラー、1階にはビリヤード室もあった。かつて女優のジャネット・マクドナルドが住んでいたために、よく観光バスが家の前に留まっていたという。 コミュニティとしてのファミリー・ストーンの絆が壊れていく頃、スライの周りには他のミュージシャンたちが集まるようになった。その顔ぶれは実に錚々たるものだ。当時スライの邸宅を頻繁に訪れたのは、マイルズ・デイヴィス、ハービー・ハンコック、アイク・ターナー、ジョニー・"ギター"・ワトソン、ボビー・ウーマック
彼らはいずれも第一級のミュージシャンで、スライの音楽性に惹かれた人間関係という側面があったことは間違いない。当時スライの新居には、屋根裏に録音スタジオがあって、彼らはここで気楽に演奏を繰り広げ、録音機材を活用していた。マイルズ・デイヴィスの場合は、このスタジオでは、大抵サックスよりもキーボードをいじっていたらしい。冒頭で述べたデイヴィスやハンコック、あるいはブルースマンのジョニー・"ギター"・ワトソンなどが、70年代初めに一様にファンキーな音を取り込んでいったのは、単なる偶然ではなかった。
アルバムで聞けるワウワウ・ギターは、おそらくウーマックの演奏と考えて間違いない。尚、同時期に発表されたウーマックの名作『コミュニケーション』(1971年)も、ほとんどすべてスライの自宅で録音されたようだ。 ビリー・プレストンは前述のように、サンフランシスコ時代からスライの朋友だったが、ビートルズとの仕事で一躍有名になった後も、彼はスライのもとによく遊びに来ていた。「ファミリー・アフェア」のエレピは、確実にプレストンの演奏だ。 しかし、彼らとスライの結びつきは音楽だけにはとどまらなかった。当時の彼らは、ドラッグと女と銃に囲まれた生活に溺れていた。有名人たちがつるんで、まるでゲットーの犯罪者たちのような、ヤクザなライフスタイルを共有していたのだ。"バッバ"・バンクスの影響もあって、この時期スライがやっていたことは、ほとんどぽん引き同然だった。彼は仲間に女をあてがっては、お金を稼いでいた。 当時スライの家の常連だったボビー・ウーマックの告白は、実に生々しい。「俺は脳みそまでドラッグ漬けのまま暗がりにうずくまって、仕事に行かなきゃと思いながら、4日も5日も何もせずに起きてた。スライも同じだった。そのうち、相手の顔を見ても、こいつは一体どこから来たんだ?という感じで分からなくなってしまうんだ。」 「女とやってから、また音楽に戻るんだけど、そのうち誰が誰の妻だったか、息子だったか、全然分からなくなる。ただトリップしてしまうんだ。あらゆることに妄想を抱いて、殺されると思ったり、FBIにスライがしょっぴかれると思ったり。ピストルは皆が持ってた。」 「スライは、仮に話し掛けてきても、奴の心はどっかに飛んでたよ。」 アイク・ターナーが当時スライ邸に出入りしていたというのも、うなずける話だ。彼がドラッグに溺れティナ・ターナーに暴力をふるったのは有名だが、彼のドラッグ癖が特にひどくなったのは、71年に「プラウド・メアリー」が大ヒットし、大金を手に入れた後だ。アイク・ターナーもスライと同じ、ロサンジェルスのベル・エアに邸宅を構え、ターナーの家はやはりドラッグの売人とぽん引きの溜まり場になっていたという。ちょうどこの頃、デレイニー&ボニー
スライの家に始終たむろしていたのはほとんど黒人だったが、その中にあって白人歌手のジム・フォード
南部出身で赤毛の白人男という点でみれば、スライの他の取り巻きとは明らかに異質だったが、ドラッグ好きで無鉄砲なところもあったフォードは、うまく居場所を確保できたようだ。フォードはボビー・ウーマックとも仲良く、ウーマックの作品に数曲提供している。また、スライの『暴動』に収録された「スペース・カウボーイ」(直訳は「ラリったカウボーイ」)は、タイトルといい、曲調といい、どうもジム・フォードを意識した曲のようだ。このカントリー調のファンク・ナンバーには、スライのヨーデルまで入っている。 闇への暴走 71年のスライは、かつての利発さを失い、代わりに他人の意図を邪推する歪んだ性格に変貌していったようだ。彼は、誰かに襲われるのを警戒して銃を何本も揃え、家の各所に監視カメラを取り付ける。"バッバ"・バンクスたちが用心棒としてスライを囲み、ファミリー・ストーンのメンバーでもスライと接触するには、彼らの取次ぎが必要になった。この頃のスライの家には、監獄とも呼ばれたほど重苦しい雰囲気が漂い始めた。 スライの度重なるトラブルで、スライ&ザ・ファミリー・ストーンを招致するプロモーターも目に見えて減った。それでも、世間的にはスライの人気はまだ不動だった。71年9月に初めてマディソン・スクエア・ガーデンで行った公演は3日ともソールドアウトし、同じ年の暮にはシングル「ファミリー・アフェア」が5週連続ナンバー1という、グループの最高記録を打ち出す。 翌72年には、スライは新作を1曲も発表していない。スライはスタジオにこもって延々レコーディングを行っていたが、時間と資金を費やすばかりだった。72年7月には、キャンピング・カーに乗っていたスライとその取り巻きが、ロサンジェルスの路上で、ドラッグ所持のため逮捕される事件も起きた。
グラハムは、本当はベーシストよりも、ギタリストとしてバンドのフロントで活躍したかったぐらいで、非常に野心的な人間だった。猜疑心が強い性格に変わったスライにとって、自分に服従しないグラハムは、鼻持ちならない存在になっていったようだ。グラハムはライヴには参加していたが、移動はいつも単独行動で、スライに対抗するように、自分は自分で用心棒役の取り巻きをはべらせるようになった。 弟フレディー・ストーンの妻とグラハムとの不倫の発覚は、グラハムに対する不信感を決定的にした。"バッバ"・バンクスたちは、スライの決断を先回りして、グラハムに落とし前をつけさせるべく動き出す。72年11月25日、スライ&ザ・ファミリー・ストーンは、「西部のウッドストック」と銘打たれた一大フェスティヴァルに出演した。観客10万人を収容するロサンジェルスのメモリアル・コロシアムで開かれたこの音楽祭で、彼らはトリを務めることになっていた。 バンクスは、前日の公演先だったニューヨークから子分に連絡をとり、彼らにピストルを用意させて、ロサンジェルス空港で落ち合う手はずを整えていたという。フェスティヴァルの終演を待って、グラハムを襲い、脅しつけるというのが当初の予定だった。 この日のスライ&ザ・ファミリー・ストーンのライヴは、彼らの直前に登場したスティーヴィー・ワンダーが熱演を披露したせいもあって、およそ冴えないものだったという。スライはドラッグの影響でコンディションは最悪で、観客からブーイングを浴びるほどだった。新しいオルガンを使うことになった彼は、スイッチの入れ方が分からずに観客の目の前で立ち往生してしまう。彼はマイクを通じて、エンジニアに不満をぶつけた。「このオルガンを直してくれ。こいつだよ、これが動かないのは全部こいつのせいなんだ。」 ライヴの後も怒りの収まらないスライは、ホテルの部屋でエンジニアをなじった。これを見て"バッバ"・バンクスたちは、エンジニア2人を襲い痛めつける。このハプニングで、命拾いをしたのは、ラリー・グラハムだ。バンクスらの計画に感付いていた彼は、エンジニアたちが襲われている合間に、裏の階段を使ってホテルから脱出した。これを最後に、グラハムは二度と、スライの前に姿を現わすことはなかった。彼がグラハム・セントラル・ステーションを結成し、ファンク・グループとして大成功を収めるのは、その翌年のことだ。 スライが放った最後の輝きが、73年の『フレッシュ』だった。リズム・ボックスを多用し、冴えたホーン・アレンジに彩られたサウンドは、『暴動』よりもくっきりして切れがいい。このアルバムでスライは、ほとんどの楽器を自分で演奏している。曲を細かく分割し、少しずつ音を重ねていったようだ。スライは、退廃の中からファンクの一大傑作を生み出した。 栄光の日々の終焉 ラスティ・アレンは、ラリー・グラハムの後任として、このアルバムからファミリー・ストーンに抜擢されたベーシストだ。当時19歳だったアレンは、音楽的に信奉していたスライに起用され、非常に感激した。しかし同時に、あれだけ独創的な音楽を生み出しながら、演奏活動になるとあまりにいいかげんなスライの音楽的態度には、彼は失望を隠せなかった。リハーサルはほとんどなく、スライは遅刻して待たせた観客に対して、ステージ上から罵声を浴びせることもあった。 スライの私生活のトラブルは、ますますエスカレートしていった。73年、ベル・エアの自宅には、敷地内に遺体があるという匿名の通報を受けて、警察が家宅捜索に踏み込んだ。大量の銃に、ドラッグ、そして数々の盗品が発見されて、スライは"バッバ"・バンクスらとともに逮捕され、9月末の判決で、執行猶予1年の刑を下される。だが、実はこの判決当日の裁判所にも、スライは密かにコカインを持ち込んでいたらしい。その後、スライはほぼ年一回の頻度で、繰り返しドラッグ所持で逮捕されるようになる。 まもなくスライは、長年不満を抱えていた家主に、ある日突然契約を解除され、ロサンジェルスの自宅を追い出された。この後しばらく、彼はニューヨークのセントラル・パーク西の高級マンション街に新居を構えた。スライがレコード会社のスタジオを予約しても姿を現わさないことが続いた後、レコード会社の計らいで、スライのマンションの一室が小規模のスタジオに改造されることになった。ニューヨークを本拠地にしていたマイルズ・デイヴィスは、当時スライの家とスタジオをよく訪れたようだ。
このアルバムの表紙にスライと一緒に写っているのは、彼の妻キャシー・シルヴァと、2人の当時2歳の息子シルヴェスターだ。シルヴァは、ポリネシア系アメリカ人で、ロサンジェルス時代からのスライの恋人だった。2人の間にはすでに息子が誕生していたが、74年になって、入籍することになった。 挙式は、6月5日、マディソン・スクウェア・ガーデンでの公演の最中に行うという派手なイベントになった。当時ニューヨークのファッション界をリードしていたロイ・ハルストンがウェディング・ドレスをデザインした。2万1千人の観衆を目の前にして行われた結婚式のバックで流されたのは「ファミリー・アフェア」だったが、これはこの機会のために新たに作られたインスト・ヴァージョンで、有名プロデューサーのジョン・ハモンドのプロデュースで急きょ録音された。当日の会場には、アンディ・ウォーホルの姿もあったという。 だが、この結婚は長続きしなかった。もともとシルヴァは、結婚前に、息子の成長後を考えて、スライのもとを離れたいと彼に嘆願したことがあったという。このときスライが、それなら結婚してきちんと家庭を築こうと提案したために、2人は入籍することになったのだ。しかし、スライの無節操な生活は変わらなかった。それにスライは、ファミリー・ストーンの女性トランペッターだったシンシア・ロビンソンと不倫をし、子供を作ってしまった。入籍後わずか4ヶ月後の74年10月、シルヴァはスライに対して、離婚訴訟を起こし、息子の養育権をめぐってスライと争うことになる。 6月の結婚式は、話題作りによる宣伝を狙った苦肉の策という側面も強かった。スライのステージに関する悪い評判はすでに広く知られ、そのマイナスを補うヒット曲もなかった。74年12月にニューヨークの大学で行われたライヴでは、スライは開演時間の1時間後に到着したうえに、3曲目を披露している最中に突然ステージを降りて帰ってしまった。 75年1月、スライ&ザ・ファミリー・ストーンは、マンハッタンのラジオシティ・ホールで6日間連続公演を行う。しかし、6千人を収容する会場に訪れたのは、公称の数字で1100人、実際にはせいぜい数百人だったという。かつてウッドストックで40万人の観衆を沸かせた栄光は影も形もなく、バンドメンバーにはお金も支払われなかった。これを最後にファミリー・ストーンは解散した。 その後のスライは表舞台からほとんど姿を消してしまった。ソロ・アルバムは、引き続きエピックで2枚、その後ワーナーに移籍して2枚制作したが、82年を最後にアルバムは出していない。86年に映画「ソウル・マン」に提供された2曲が、彼の最後の作品だ。
1993年1月、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが、ロックンロールの殿堂に入る栄誉に恵まれたとき、ステージにスライの姿はなかった。だが、ファミリー・ストーンの元メンバーたちが往年の名曲を披露しステージを降りた直後、会場の一角から観客の拍手が始まった。拍手が会場一杯に広がり、観客全員が立ち上がる中、入場してきたのは、スライ・ストーンその人だった(写真)。 彼の登場は、元メンバーたちも知らされていない、完全なハプニングだった。50歳を目前にしたスライの顔からは、往年の愛嬌が消え、表情は固かった。スライはステージに上がると、短いスピーチをして、「また会おう」という言葉で終えた。この後彼は、式典後のパーティーに参加することもなく、そっと会場から姿を消したという。 その後、スライの復活の噂はときどき流れたが、ついに実現していない。彼の最も最近の動静は、1997年に伝えられたものだ。スライ&ザ・ファミリーストーンのファンサイトを運営していたアメリカの大学院生ジョン・ダックスは、ある日突然スライの秘書と名乗る女性から電話を受けた。秘書に続いて電話口に出てきたのは、スライ本人だった。このときスライは、彼のホームページについて人づてに耳にし、インターネットの使い方を学びたいとダックスに依頼したのだという。 2ヶ月後、ダックスはスライの自宅に招かれた。このときスライは、彼が他の人間を連れてきたら、すぐ追い返すと念を押したらしい。ダックスはウェスト・ハリウッドのスライの自宅で、1週間かけてネットワークの構築を手伝った。ダックスによれば、この間スライは、ときどきキーボードで即興演奏をしてみせることもあったらしい。スライは2人の女性「アシスタント」と同居していた。彼の部屋の備品で、ファミリー・ストーン時代を思い出させる物はただ一つ、ロックンロールの殿堂から贈られた記念品だけだったという。
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