さて、PLOとなったパレスチナ・アラブ人武装闘争組織の一番の喜びは、PLOと言う組織に対して援助される資金の豊富さでありました。この資金で武器の調達がかなり楽になり、PLOのユニフォームも新調しました。
■ PLA設立
次に、PLOはパレスチナ解放軍と日本語訳されるPLAを組織します。PLAはPLOの正規軍というわけです。
”来たれPLAへ!独立の道は君達若者の手によって切り開かれるのだ!”
いち過激派がこう呼びかけても賛同する人はあまりいないでしょう。ところが過激派集団とはいえ、世界に認知されている組織だとどうでしょう?パレスチナ・アラブ人の若者達は両親の反対も押し切り、勇んでPLAに入隊しました。
■ アル・ファタ加入
1967年、アラファト率いるアル・ファタがPLOに加入しました。この、アル・ファタは個々の勢力としては最大の人数を有しておりました。
アラファトはエルサレム生まれで、クウェートでアル・ファタを組織し、シリアに拠点を置いてイスラエルに対してのゲリラ活動を行なっていた人物でした。
■ 武闘派組織PLO
初期のPLOは、一般人のシュケイリ氏が議長であり、方向性も参加各組織とかみ合っていなかったようでありました。さらに、PLOを扶養しているアラブ諸国も、自国の利権のためにひどく干渉し、パレスチナ・アラブ人のための組織がアラブ諸国の利権に利用されてしまう状態になりました。
このままではダメだと、そんな状況に業を煮やした組織が独自に行動を開始し始めました。行動を始めたと言うより、以前のように行動したと言うわけです。つまり、過激派は過激派らしくということであります。
そんな中、第3次中東戦争が勃発しアラブ諸国はこてんぱんに負けてしまいます。その登場以来、行動を起こすたびに注目を集めていたエジプトのナセル大統領の威信も地に落ちました。
しかし、PLOはパレスチナ独立の戦いを止めるわけにはまいりません。ヨルダンからイスラエル領内に侵入し、ゲリラ活動を繰り広げておりました。
■ アラファト、PLOの議長に選出
PLOのゲリラ活動が活発化していた頃、おりしもイスラエル国内で子供を乗せたバスが、PLOの仕掛けた地雷に触れ大破してしまいます。イスラエルはすぐさま国防軍にヨルダンの国境を越えさせ、アル・ファタの駐留するカラメ村に報復攻撃を仕掛けてきたのです。
ヨルダンに対しての戦争行為ではなく、PLOに対しての攻撃であります。こんな場合、イスラエル正規軍にゲリラがかなうはずもないのですが、アル・ファタの戦闘員は違った。
戦車を有するイスラエル国防軍にも負けず、踏ん張っていました。そこへ、ヨルダン正規軍が加勢に来てくれたのです。これがきっかけとなり、イスラエルを撃退させることに成功しました。これは、イスラエルの建国以来、初めて明確な形でのイスラエル軍敗北と言ってもいいでしょう。
この、活躍でアラファトはタイム誌の紙面を飾るほど有名になりました。そして1969年2月、アラファトはPLO議長に選ばれます。これで、PLOは完全なる武闘派となったのでありました。 |