Palestine Liberation Organization
Munazzamat al-Tahrir Filastiniyyah
パレスチナ解放機構

■ パレスチナ解放機構 "Palestine Liberation Organization" とは何か?

中東問題に必ず登場してくるのはイスラエルとPLO(現在のパレスチナ自治政府)です。これは中東問題の主役だからです。イスラエルはユダヤ人の国ですが、ではPLOとは何か?であります。

PLOは、国家と言う組織を持っていないパレスチナ・アラブ人を代表する組織として 1964年5月 に設立されました。これでパレスチナ独立のため、イスラエルとの交渉テーブルにつくことができると思ったのは、のん気な第3者の人々だけでした。実際にはイスラエル、PLO共に、お互いの存在を認めず、まったく話し合いになりませんでした。

では、何のための組織か?であります。

PLOはアラブの英雄ナセル大統領の肝いりで設立されました。これで、それまで個々に武装闘争なり、宣伝闘争を行なっていたグループが一堂に会したのでした。

ナセル大統領は中東問題に対しての解決をはかる事で、アラブのリーダーたる地位をアピールしようと思ったようであり、パレスチナ・アラブ人闘争家たちは団結することで闘争の拡大化が図れると考えたようです。

それぞれの思惑を含んで立ち上がったPLOの初代議長には、弁護士のアフマド・シュケイリ氏が就任しました。

 

■ PLOは武装闘争組織の集まりか?

はっきり申し上げまして、PLOは武装闘争組織の集団であります。なんせ、PLOが作ったパレスチナ憲章の中にイスラエルの完全破壊と言う言葉が載っていたのですから(現在は削除されました)。

ここで、はっきりさせておかなければならないのは、一般パレスチナ・アラブ人とPLOは別物だと言うことです。

PLOが設立された当初、全パレスチナ・アラブ人たちは狂喜したようですが、実際の活動を見ているうちに疑問を持ち、支持はしているが歓迎しないと言う考えの人たちがたくさんいると言うわけであります。この人たちを一般パレスチナ・アラブ人と申し上げることにいたします。

それでは、この事をふまえてPLOの戦闘詳報へ移らせていただきたいと思います。

 

■ PLO戦闘詳報

さて、PLOとなったパレスチナ・アラブ人武装闘争組織の一番の喜びは、PLOと言う組織に対して援助される資金の豊富さでありました。この資金で武器の調達がかなり楽になり、PLOのユニフォームも新調しました。

■ PLA設立
次に、PLOはパレスチナ解放軍と日本語訳されるPLAを組織します。PLAはPLOの正規軍というわけです。

”来たれPLAへ!独立の道は君達若者の手によって切り開かれるのだ!”

いち過激派がこう呼びかけても賛同する人はあまりいないでしょう。ところが過激派集団とはいえ、世界に認知されている組織だとどうでしょう?パレスチナ・アラブ人の若者達は両親の反対も押し切り、勇んでPLAに入隊しました。

■ アル・ファタ加入
1967年、アラファト率いるアル・ファタがPLOに加入しました。この、アル・ファタは個々の勢力としては最大の人数を有しておりました。

アラファトはエルサレム生まれで、クウェートでアル・ファタを組織し、シリアに拠点を置いてイスラエルに対してのゲリラ活動を行なっていた人物でした。

■ 武闘派組織PLO
初期のPLOは、一般人のシュケイリ氏が議長であり、方向性も参加各組織とかみ合っていなかったようでありました。さらに、PLOを扶養しているアラブ諸国も、自国の利権のためにひどく干渉し、パレスチナ・アラブ人のための組織がアラブ諸国の利権に利用されてしまう状態になりました。

このままではダメだと、そんな状況に業を煮やした組織が独自に行動を開始し始めました。行動を始めたと言うより、以前のように行動したと言うわけです。つまり、過激派は過激派らしくということであります。

そんな中、第3次中東戦争が勃発しアラブ諸国はこてんぱんに負けてしまいます。その登場以来、行動を起こすたびに注目を集めていたエジプトのナセル大統領の威信も地に落ちました。

しかし、PLOはパレスチナ独立の戦いを止めるわけにはまいりません。ヨルダンからイスラエル領内に侵入し、ゲリラ活動を繰り広げておりました。

■ アラファト、PLOの議長に選出
PLOのゲリラ活動が活発化していた頃、おりしもイスラエル国内で子供を乗せたバスが、PLOの仕掛けた地雷に触れ大破してしまいます。イスラエルはすぐさま国防軍にヨルダンの国境を越えさせ、アル・ファタの駐留するカラメ村に報復攻撃を仕掛けてきたのです。

ヨルダンに対しての戦争行為ではなく、PLOに対しての攻撃であります。こんな場合、イスラエル正規軍にゲリラがかなうはずもないのですが、アル・ファタの戦闘員は違った。

戦車を有するイスラエル国防軍にも負けず、踏ん張っていました。そこへ、ヨルダン正規軍が加勢に来てくれたのです。これがきっかけとなり、イスラエルを撃退させることに成功しました。これは、イスラエルの建国以来、初めて明確な形でのイスラエル軍敗北と言ってもいいでしょう。

この、活躍でアラファトはタイム誌の紙面を飾るほど有名になりました。そして1969年2月、アラファトはPLO議長に選ばれます。これで、PLOは完全なる武闘派となったのでありました。

 

■ ブラック セプテンバー事件

さて、イスラエルの隣国ヨルダンに拠点を置き、イスラエルへの越境攻撃を行なっていたPLOであります。しかし、イスラエルはヨルダンとの国境をかなり厳しく封鎖しており、イスラエルへ侵入することが難しくなっていました。

その内にPLOは、そのうっぷんをヨルダン国内へむけ、勝手に税金を取るなどはまだかわいいほうで、強盗までも行い始めます。まるで、幕末日本の京都に跳梁する浪士のごとくであります。

そうこうするうち、1970年9月、PFLP旅客機を乗っ取りヨルダンの空港に強制着陸させ、爆破するという事件(ブラックセプテンバー事件)を起こします。

こういう派手なテロ行為をヨルダン国内で行なわれると、まるで王国がテロを教唆していると思われてしまいます。フセイン国王にとってそれは望むべきものではありません。

そして、ついについに、フセイン国王は自分に対してまったく敬意を払わないPLOと決別する事を決断したのであります。このフセイン国王の怒りによってヨルダンを追われたPLOは、レバノンへと落ち延びていきます。

 

■ レバノン戦争

さて、今度は拠点をレバノンへ移したPLOです。レバノンからイスラエルの国境を越え、ゲリラ部隊を送り込みます。イスラエルももちろん、黙ってはいません。攻撃されたら報復攻撃に出るのであります。

今度は超える国境がヨルダンではなくレバノンとなっただけの事です。PLOを受け入れたおかげで、イスラエルからの攻撃にさらされることになったレバノンはたまったものではありません。

イスラエル軍の越境攻撃はPLOを狙ったものとはいえ、レバノン市民に被害が出ないわけではありません。これに困り果てたレバノン政府は自国民に被害が及ばないようにするため、南部のアグルブ地域をPLOに与えます。

こうすれば、イスラエル軍からの報復も、この地域にしぼられると考えたのでした。そして、このPLOの領地はファタ・ランド(FATAH Land)と呼ばれました。

これに気を良くしたPLOは、シリアから貰った野砲やカチューシャロケットをイスラエルに向けて撃ち込みはじめます。これにはイスラエルもさすがにキレました。ついにベイルートにあるPLOのオフィスを含む拠点を爆撃したのであります。

このような他国からの爆撃が行なわれても何もできないレバノン軍というところが悲しいところでありますが、それがこの国の実情です。爆撃されたPLOの本部はベイルートのオフィスビル内にありました。もちろん上や下の階は一般の企業が入居しております。

イスラエルが報復攻撃で本部を爆撃した時、一般市民もふくむ被害が出ました。もちろん国際世論はイスラエルを非難し、これ以上攻撃がエスカレートしないようにと、アメリカが仲介に入り、攻撃の停止が決まりました。

しかし、PLOは依然カチューシャロケットをイスラエル国内に打ち込みつづけ、イスラエルはついに1982年6月、PLOを掃討するためレバノンへと侵攻してきたのです。ヨルダンと違いレバノン政府にPLOをとめる力がなかったためであります。

こうしてレバノン戦争が勃発しました。

この作戦には、普段からPLOと戦っていたSLAレバノン・フォースも加わり、一気にベイルートまで進撃しました。もちろん、レバノン軍は何もすることはできません。ではレバノン駐留のシリア軍は?しかし、この時シリア軍と仲たがいを起こしていたPLOは、逆に攻撃される始末でありました。

ベイルートを包囲され、散々撃ちまくられると、レバノン政府も自国を犠牲にしてまで、PLOを匿っていられなくなり退去を要請します。

ここで、アメリカの仲介もあり停戦となり、1982年8月31日、PLOはまたしても拠点を追われ、今度はイスラエルと国境を接していないチュニジアに本部を移します。

 

■ インティファーダとPLO

1987年、パレスチナアラブ人による大規模な暴動が発生します。これは、PLOが煽動したのではなく、一般住民が自発的に起こし、イスラエル占領地区全体に広がっていったものです。

この暴動はインティファーダと名づけられました。インティファーダはイスラエルでたまに起こる2つの事件から始まったのでありました。

一つ目の事件
1987年12月8日、ガザへ仕事で出向いていた1人のユダヤ人が殺されます。これはユダヤ人に対するテロであり、戦果としてはかなり小さいものでありました。

2つ目の事件
その翌日、国防軍の軍用トレーラーと、占領地の外へ出稼ぎに出ていたパレスチナアラブ人を乗せた乗用車が衝突し、乗用車に乗っていた4人が死亡しました。

インティファーダの発生
前日に何もなかったのであれば、この事故は単なる交通事故であったのであります。しかし、これをテロに対するイスラエルの報復だと受け取ったパレスチナアラブ人の若者数人が路上で息巻き、古タイヤに火をつけました。

そこへ国防軍パトロールが駆けつけると、その集団は投石でこれに応じます。ここまでは占領地でよく見かける光景であり、国防軍パトロールも銃の威嚇射撃でこの集団を追い払おうとしたのであります。

しかし、今回の場合は少し違っておりました。この集団は威嚇射撃にまったくひるまず、パトロール隊に対し投石を続け、ついに火炎瓶が投げつけれたのでありました。

身の危険を感じたパトロール隊はついに、この集団向かって照準射撃を行ないます。その弾丸をまともに受け、1人の少年が死亡したのでありました。

この少年の死がきっかけとなり、大規模な暴動へと発展します。これがインティファーダの始まりでありました。

PLOはまだこの時点では傍観者でありました。

このインティファーダはイスラエルの全占領地帯に飛び火し、各地で暴動が日常的に発生していくのです。暴動に参加しているものは基本的に若者でありましたが、少年達も多く参加しております。

少年達は果敢にも、国防軍に石を投げつけ、反撃にゴム弾を頭にくらい、生死の境をさまよった者もおります。

この暴動でハマスやイスラミック・ジハードなどのPLOと関係のない組織が生まれ、のちのちPLOとライバル関係になっていくのです。

結局、この暴動の主役はPLOではなかったのです。暴動が激しくなるとPLOも住民を煽動しましたが、根本的に自然発生の暴動でありました。この暴動は、湾岸戦争までの約3年間、続くことになります。

 

■ イスラエル承認

アラファト議長はPLOをテロ組織と言うイメージから脱却させたいと考えていました。そんな時に始まったインティファーダでは少年が国防軍に対して投石で抵抗しているシーンが世界に流れました。

アラファト議長はこれを利用し、PLOの悪いイメージを払拭するため、1988年12月13日、国連総会の席上、イスラエルの承認とテロ攻撃の放棄を宣言したのでありました。

つまり、話し合いで解決しようと言うことであります。しかし、やはりPLOの内部ではこれに賛同できない組織もあり、一般市民を巻き込むテロ攻撃を繰り返すことになったのであります。

 

■ 湾岸危機とPLO

1991年、イラクのサダム・フセイン大統領が突如クウェートに対し、因縁をつけてまいりました。色々ゴネるフセイン大統領を説得しようと、エジプトのムバラク大統領やアラファト議長もイラクへ向かいました。

アラファト議長はフセイン大統領との会談し、平和的解決が図れると発表したのでありますが、その直後、期待を100%裏切られます。そうフセイン大統領は作り笑顔を消し、クウェートに侵攻したのでありました。

アラブ諸国はイラクを非難し、イラク討伐隊の多国籍軍に加わります。PLOはフセイン大統領と会談したアラファト議長がにこやかな顔で抱き合っている写真を世界に発表した直後であったため、イラク支持ではないかとのイメージが付いてしまいました。

PLOは、すぐにイラクを非難しましたが、とき既に遅く、サウジアラビアなどからの資金援助が打ち切られてしまったのでした。サウジアラビアはPLOの代わりにハマスを援助し、イスラエルとの闘争を続けるよう言い渡しました。

 

オスロ合意 

1993年9月13日、ウエストバンク内の町エリコとガザでの自治と言う形で、イスラエルとPLOが合意にいたりました。

これには、ノルウェーのホルスト外相の尽力があったのですが、イスラエルもPLOを認証し、ついに行政権と警察権の委譲つまり、自治が開始されたのでありました。

しかし、前出のハマスやイスラミック・ジハードはこれに猛反対し、PLOに対しても攻撃を仕掛けてきたのでありました。さらに、ユダヤ人もこれに反対している者がおり、自治区内で銃の乱射事件を起こしました。

とはいえ、ついに勝ち取った自治であります。これでPLOは本部をチュニジアからガザに移し、アラファト議長は熱狂的な歓迎で迎えられました。 1994年5月 のことであります。

そして、1994年10月26日、アラファト議長はこの功績により、イスラエルのラビン首相、ペレス外相と共にノーベル平和賞を受賞したのでありました。

 

■ オスロ合意U

1995年9月28日、オスロ合意で決まった自治区をさらに広げるための協定が決められました。これにより、正式にパレスチナ自治政府が発足し、代表者にアラファト議長が選ばれたのであります。あとは、自治協定の終了期限である1999年に、パレスチナの独立を宣言するだけなのでありました。

しかし、この独立宣言はかなりの不安要素を含んでおります。まず、パレスチナ自治区内のBおよびCエリアに駐留するイスラエル軍と住民の衝突が起こると言うことです。そうなれば、自治権も剥奪され、また同じことの繰り返しであります。アラファト議長としてはそんなことはご免こうむりたいのであります。

そんなことはイスラエル側も承知であり、アメリカのクリントン大統領が独立宣言を延期するように要請してきたのであります。アラファト議長もこの要請を渡りに船と快諾し、独立宣言は行ないませんでした。

さらに、この見返りとして、パレスチナ自治政府は国際電話の国番号や、WWWのドメイン(.ps)を与えられ、国家としての体裁をつくろえてきたのであります。

 

■ アル・アクサ・インティファーダとPLO

さて、パレスチナ独立宣言が延期されている頃、イスラエルではバラク政権が誕生していました。バラク首相はイスラエルの一番痛いところであるエルサレムの問題に対し、信じられないほどの譲歩をする発言をしておりました。なんと、エルサレムを分割しパレスチナ政府の首都として与えると言う内容です。

ここまで譲ればパレスチナ側としては大歓迎なのですが、これではイスラエル国内で支持が得られるとは思えません。そんな中、リクード党のシャロン党首がエルサレム市長と警察の反対を押し切り、神殿の丘を訪問します。

これを挑発行為と受け取ったパレスチナ・アラブ人はまたも、投石をはじめます。今度は国防軍だけではなく、神殿の丘のすぐ裏手にあるユダヤ教の聖地、嘆きの壁で祈りをささげる一般市民にも及びました。

今度はPLOの行動も早かったのであります。アル・ファタがユダヤ人を狙った銃撃を起こせば、フォース17がバスを乗っ取り、タンジームが国防軍の兵士を誘拐、PFLPにいたっては極右政党で観光大臣のゼエビ氏を暗殺するなど、まるで堰を切ったようにテロ事件を起こしたのです。

アラファト議長は傘下の組織に攻撃を止めるようにと声明を出しますが、まったく効果はありませんでした。おまけに、傘下ではないハマスイスラミック・ジハードもカミカゼ攻撃を繰り返し、まったく手の打ちようがない状態になってしまいました。

そして、ついにイスラエルはアラファト議長いるラマッラの議長府を取り囲み、どうにかしろと圧力をかけてきました。

アメリカやイスラエルからの圧力に対してアラファト議長は『私はビン・ラディンではない!』と苦言をもらしたのでありましたが、結局のところこの圧力によって、パレスチナ警察がハマスやイスラミック・ジハードを取り締まろうとしたのです。ところが過激派集団イスラミック・ジハードは逆に銃撃してくると言う始末でありました。

アラファト議長では話にならないとふんだイスラエルはパレスチナ自治区内へ国防軍を侵攻させます。イスラエル自らゲリラ狩りを行なったのでありました。アラファト議長はこの作戦間、ずっと国防軍に取り囲まれ身動きすることができませんでした。電話線も切断されているため、外部との連絡は携帯電話のみでありました。

イスラエル国防軍はしばらくするとその目的を達成したとして、侵攻しているところから撤収しましたが、インティファーダは過激派が行なっているわけではありません。まだ暴動は続きそうです。

 

■ アラファト議長の死去

2004年11月、アラファト議長が体調不良のため、パレスチナを離れフランスの軍病院に入院しました。この時点ですでに世の中では、議長はもうダメかも知れないと噂されていました。

もし、議長が亡くなった場合にそなえて、パレスチナ自治政府でも協議と権力闘争が行われていたでしょう。そして、結局アラファト議長は2004年11月11日死去しました。議長のお葬式はエジプトで行われました。

お葬式は無事に終了しましたが、問題は後継者です。今までは、内閣を作りはしましたが、アラファト議長が完全に権力を持っていました。しかし、今度はそうもいかないでしょう。

2005年が明けると早速、選挙によって権力の分割が行われることになりました。1月9日の選挙の結果、パレスチナ自治政府議長にはムハンマド・アッバス元首相が選ばれました。

アッバス元首相はアル・ファタの議長も努めます。これにより、完全にアラファト議長の後継者となった訳です。今のところ権力闘争による問題も発生していない模様です。

 

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