日々の覚書
1998
9/17~12/26
私が聞いた戦争の話1(12/26)
このハナシはやっぱり仕事上の付きあいのあるやつから聞かせてもらった話です。
(あたりまえのことなんですけど、勿論戦争というものには否定的な立場をとらせてもらっています。詳しいことをここで書くつもりはないのでおおまかで申し訳ないのですが・・。ですから戦争を妙に肯定的に描くきらいのあるアニメ、映画全般に対してあまりいい感情はもっていません。どうしても不必要に感情的になりすぎるか、夢想的になりすぎてしまい一番重要な現実の痛みをうざなりにしすぎる傾向があるからです。これが不道徳に徹してくれてればまだいいんですけど、適当なニゲを作って見せてくれるから余計ムカつくんですね。ですから、私が書くのは痛いハナシです。興味だけで読むつもりだとちょっと辛いかも知れません。)
ベトナム戦争がまだたけなわだった60年代の終わり頃のハナシだそうです。
当時アメリカにあこがれ、アメリカに渡った若者がいました。
仮に名前をヨシとでもしておきましょうか。
彼はオヤの反対をおしきり、バイトでカネを貯め大変な苦労の果てになんとかアメリカに渡ることが出来ました。
でも、ビザの期間がせまり日本に帰る日が目前に迫ってきていました。
折角ここまで来たというのにもう、帰るのか・・。
実際ヨシの考えはアマチャンもいいところでした。
なんのあてもなく、アメリカに行けばなんとかなるとイキオイだけで来てしまったのですから・・。
だんだんおカネも残り少なくなり、公園で野宿と言う日々が続きました。
すっかり、落ち込んでしまったヨシでしたが公園で知りあったヒッピーがいい事を教えてくれました。
ベトナム戦争に志願すればアメリカでの市民権と永住権がもらえる!
しかも、軍隊にいる間の生活は保証されるし、ちゃんと兵役をまっとうすれば軍人恩給だって貰えるようになる。
これは本当のハナシで当時から不法在留の外人対策にネをあげていたアメリカ政府の政策のひとつでした。
勝手に居れば罪になる。
居たいのならアメリカ人としての義務を果たせとそういうことです。
ヨシは1も2もなく志願しました。
志願した次の日からヨシにはアメリカ軍の兵士としての訓練が待っていました。
でも訓練の内要はヨシにとってとても辛いものでした。
もともとアメリカにくるだけの気力と体力位は持ちあわせていたわけですから、ロードや射撃訓練等は大して辛くなかったそうです。
辛かったのは上官が皆、黄色人種(日本人はいなかったそうです。)で意味もなく彼らに暴力をふるわれることでした。
訓練といっても内容は大半が黄色人種に理不尽に痛めつけられることで、要はたかが1ヶ月の訓練期間では大した訓練ができないので、少しでも黄色人種にたいして増悪をうえつけるようにしようというのが目的だったようです。
体中アザだらけの状態で1ヶ月の訓練を終え、ヨシは他の志願兵達と一緒にベトナムに送られそこで再編成され上陸用舟艇にのせられました。
まだ、早朝だというのに海の上でさえゴムが焼ける匂いがし、舟艇のすぐそばで凄まじい音がして水柱がたち、舟艇はひどく揺れました。
揺れのせいか何人もの新兵たちが自分のズボンにゲロを吐きましたが、誰も気にする余裕などなく、ヨシは船酔いにはならなかったそうですが全身が緊張しすぎるのか妙に喉が乾いたのを覚えているそうです。
ガツンという大きな衝撃のあと舟艇の前扉がたおれ、少し遠くにヤシ林がみえたそうです。
そこからは無我夢中で走り、砂浜の爆弾の跡らしい穴に飛び込みました。
周り中いたるところで銃の音が響き爆発音がし、ゴムが焼けるきな臭い匂いが充満しています。
後ろを振り返ると自分の乗ってきた舟艇は火に包まれていて逃げそこねたらしい新兵達が倒れているのが見えました。
でも、どうすることもできないまま、ヨシはその穴のなかでひたすらじっとしているしかありませんでした。
夜になっても少しも銃火のおさまる気配はありません。
クソも小便もそのままズボンのなかに垂れ流しでした。
そうやって幾日かがすぎ、やっと後続の部隊が到着し、ヨシは穴の中からひっぱりだしてもらえました。
ヨシは穴の中で5日間もじっとしていたのでした。
一緒に来た仲間のうち生きているのは3割にも満たない数だったそうです。
辺りの景色も一変しており群生していた筈のヤシはきれいさっぱり焼き払われ、あたりは焦土と化していたそうです。
暫くしてヨシは自分の権利を放棄し、日本に帰ってきました。
今は家業を継いで結婚もし、子供もいるようです。
たまに思い出すとこのハナシをしてくれるのですが、その度に涙を流すそうです。
それが一体何に対しての涙なのかは知る由もありませんが・・・・・・・。
最近かわした知人との会話(12/16)
仕事の関係でそれなりに懇意にしてもらっているあるオジサンと話していたときのことです。
まぁ、いろいろ話しているうちに何故かハナシが原爆のほうへいっちゃいました。
そのオジサンは結構分別のあるいい人でとっている人で、年と世代の割りにはアタマも柔軟なハナシの解るオジサンとして仲間内(仕事関係のね)でも評価の高い人気のあるひとです。
で、彼がいうには
「原爆が落ちてよかった。あれでもなければ日本はまだまだ戦争を続けていただろうから、もっともっと多くの犠牲者がでていて、もっと大変なことになっていただろう。広島や長崎で犠牲になった方には申し訳ないが、あれは、あれでよかったんだと思わなければあそこで死んでいった人も浮かばれないだろう。彼らの死は戦後の平和な日本の礎になったわけだから感謝せねばならないと思う」
というようなことをかれは、彼なりの結論として私にいったわけです。
これって、よく聞くハナシですよね?私も別に彼からじゃなくても何度か本で読んだこともやっぱり彼くらいの年の人と話していて此れとにたようなことをいわれた経験があります。
何で、彼がこんなことを言い始めたかというと、私が何故、あの時期にアメリカが原爆を広島と長崎に落とす必要があったのか?という疑問を彼に呈した答えとしていう必要があったからです。
勿論私のなかでの答えはでています。
原爆は日米の戦争を帰結するためには落とす必要はなかった。
アメリカは戦後のソビエト(というよりコミュニズム)ととの二極化構造を睨み新兵器としての原爆の実験(その後にも自国兵士を被爆地点にわざと配置し、被爆データーを集めたりするような無茶な実験をしている。:映画アトミックカフェ:なんかが見やすくて解りやすいようです。)をかねてのプロバガンダであったと正しく理解しているつもりです。
私にとって重要なのは戦争に対する言い訳ではなく事実です。
誰が何のために起こした戦争で、結果何がどう変化しそのためにどれだけの犠牲を払い、かわりに誰が何を手に入れたのかをちゃんと把握しておきたいのです。
彼は私のそんな態度を訝しがり、戦争で死んだ無為な人たちに対する冒涜だとまで言い切りましたが、私にすれば死んだ人たちの犠牲の上に自分の現在の生活があると思っているんなら、私の言い分はむしろ最低限の今を生きる人にとっての原則のようなモノだと思うんですが、皆さんはいかがお考えなんでしょうか?もし、なにか御意見があればゲストブックにでも書き込んで頂ければ幸いです。
最近かわした友人との会話(12/6)
ちょっと頼まれ事があって半年ぶりくらいに友人のウチに電話をしたんです。
ところが目指す友人はボーリングにでかけて留守でそこの奥さまと話すことになりました。
彼女には2人のこ憎たらしいガキがいて(なにしろ私のことをゴキブリと呼ぶからね。上が6歳で男、下が4歳で女だとおもったけど・・)、年齢30歳くらいの内容さえ知らなければ美人で知性的にみえる女性です。
で、彼女どうもタイクツが貯まりまくっていたらしくて中々、電話がきれない。
用件だけ伝えてさっさと切りたかったんだけど半年ぶりの電話ではそうもいかず、でまぁ、ダンナの愚痴から隣近所のオバサンたちのワルクチまで色々と聞かされているうち話題がカメラのほうにいきました。
オット、カメラのことならまかしてくんねぇ、おいらカメラにはちょいと知識があるんだぜぇということになって、やっとハナシの糸口がみえてきました。(切るタイミングもね)
どうも奥様は写真がとってみたくなったらしい。
はじめは子供の運動会に<写るんです>ではちょっとムリがあるというのから始まって、気持ちのなかでそれがどんどん膨らんでクビからでっかいレンズついたカメラさげてたらかっこいいジャーン、プロみたいで・・になったらしいんだけど、彼女はもともとメカ的なものに弱い上にカメラとガメラ(カメラ-主に家族にみはなされたオヤジの味方であることがよくある、ガメラは自閉症気味の子供の味方であることが多い、程度の差)のちがいが解る程度にしかカメラの知識がありません。
それでまた、余計なことにヘタに趣味的なことに詳しいもんだから、ライカ(只の偏見なんですけどライカのマニアって、裏でロリコン本とか集めてそうな気がするのは私だけでしょうか?)とかの名前を聞きかじってたりする。
友人関係にもデザイナーとかディレクターやってますとかのクリエイティブなヒト(バカしかいません。えぇ、勿論偏見ですとも!)たちが揃っているもんだから、ハナシは(彼女のなかで)とっても込み入ったことになってたんです。
情報を整理して彼女の要望を聞き入れつつ、予算なんかも考慮にいれ、じゃぁ、カメラの機種を絞り込もうということになり、電話口でメモをとろうとしている彼女に機種名を伝えようとするのですが、携帯電話で丿イズがはいるのか中々、上手く伝わりません。
私「いい?アサヒペンタックスのS,P.Fね・・・。」
奥様「エエー?なにー?ペンタックスのえふー?」
私「いや、えす!えふじゃなくって、えすー!」
奥様「あー?えー?えふじゃなくって、なにー?」
私「だーから、エスだって、えす!!」
奥様「えすー?えすーて、セックスのえすー?」
私「そうそう!セックスのえす!」
奥様「なぁーんだ!そういってくんないとわかんないよー」
私「いい、わかった。じゃぁ、次はぴーね、ぴー。ペニスのぴーだからね!」
奥様「わかったー!ペニスのぴーね!!なぁんだ、そういってくれればすぐわかるじゃーん!」
私「エフはねぇ、ふぁっくのえふねー!」
奥様「え・ぇ・・と・ふぁっくのえふと・・。じゃぁ、アサヒペンタックスでー、セックス、ペニス、ファックだからーSPFっていうの捜せばいいんだよね?」
私「そうそれでいいと思うからー!新宿辺りの中古カメラ屋でさがせばそんなん安いはずだからー!」
とまぁ、そんなこんなで半年ぶりの会話がこれかよ!などと思いつつなんとか、会話を乗りきることができたのでした。
電話を切った後、彼女の頭のなかでは、絶対にSPFがスポーツマティックFであることが理解されることがないであろうことを祈らずにはいられない私でした。
ハヤリスタリ(12/4)
確か、5〜6年くらい前だと思うんだけど、その頃TVでよく特集組んでた一つに食品添加物をネタにしたのって良く在ったような気がするんだけどあれってどうなったんでしょう?
鼻に付くくらい正義の味方面しテレビの司会者共が、アメリカの米をコクゾウとかいう日本の虫に食わせたら暫くして死んじゃったとか、オレンジなんかに使ってる農薬はアメリカ国内だと許可にならないものを日本用には平気で使ってるんだとかツバ飛ばして喋ってましたけど・・・。時々、オレンジ買うかなってときに思い出すんだけど、あれ、どうなったんでしょう?
思い出すとスゴイ気になって、スーパーの寿司とか食えなくなるんだけど・・
それで思い出したんですが、私なんかが、高校生位のときは兎に角コカコーラが良く、やり玉にあげられてました。
ちょうど、ベトナム戦争たけなわのころで、脳みその腐っっているとしか思えない反戦運動家と称するいい大人たちがヤマほどいてがマジメな顔してベトナムにメンタムや赤チン送ってた時代でした。
彼らは時々テレビに出てきて、アメリカを詰り、小難しいことをいってましたけど、やることはギター弾いて地下鉄の前で下手くそな唄謳ってりゃベトナムと連帯できるとでも思ってるようなバカ共とたいして変わりませんでした。
多分、コカ、コーラっていうのはそんな彼らにとってみても、まだマクドナルドだってみたことがないその当時としては一番解りやすいアメリカだったんですね。
元々、コカ、コーラってコカインをっていうか、その大元の南米インディオの嗜好品のひとつだったコカの葉をソーダで割わったようなもんだったんです。で、これは当然麻薬売ってるのとなんにも変わらないんだけど、コカインのもつクスリ的な効果と感習性のおかげで、コカ、コーラは一気に世界中に蔓延しました。(今、考えたらスゴイハナシですよね。コカイン、コーラが、その辺で買えてみんなラッパしてんだから!)
一体この後、絶対とんでもないくらい居たはずのコカイン中毒者をどうしたのかまでは知りませんが、流石アメリカ政府の横やりがはいりコカ、コーラはコカイン抜きで販売されるようになりました。(考えようによっては、今のアメリカの南米からのコカイン流入なんかは彼らのやったこと考えりゃ屁みたいなもんですよね。
食品なんだから前もって調べないといくらなんでもマズイでしょう)こんな素性も手伝ってか、(勿論、日本にはいってきたときにはコカインはいってませんでした。)コカ、コーラってよく叩かれてたんだけど、コカ、コーラ自体が全く相手にしないから、なんだか負け犬の遠ぼえ状態でした。
コカ、コーラって解りやすいアメリカで在ると同時に強大で尊大なアメリカそのものでもあったんです。
だから、その当時にも、盛り上がった食品添加物騒ぎのときでも、コカ、コーラは内容物にかんしては(確か、企業秘密に関する理由だったように思いますが)一切公表しなかったように記憶しています。でも、現実には夏場に若い妊婦がコカ、コーラのペットボトル(ちょうどその頃発売された)を毎日のように飲んでいたら、生まれた赤ちゃんが死産でしかも、骨が穴だらけだったとか、歯をコーラの原液につけてみたら、溶けはじめたとかいわれるようになり、(私、コカ、コーラは勿論信じてませんけど、そういう反対情報も疑ってかかれる位の大人にはなっていますので、若い妊婦が云々であるとか、歯が溶けるなんていうのも当時あれだけ有名なハナシだった割りにはデーター的なものがなかったということも付け加えておきます。)一部地域では販売されなかったこともあったんです。
此れは、本質的には今も変わりないですけど、多分にあまりにもアメリカの顔色ばかりを気にする日本政府への反発も在ったのだと思います。そのうち、流行らなくなったのか、食品添加物はもちろんのこと、ミナマタチッソやカドニウムやPCBと一緒にどこかへいってしまいました。(なんてことだ)で、今はダイオキシン。この前、仕事してたらその件でいきなり若い主婦に絡まれました。う〜ん、そりゃぁ、大変な事も、大事なことも解るけど・・だからって今絡まれても〜〜。しょうがないんで、その人と約束しました。3年たってそれでもアナタの満足できる活動が続けていられたなら、ちゃんと本気でハナシを聞かせてもらいますって。そうしたら、怪訝な顔して帰って行きました。彼女の目にはこんな大事なことにも耳を貸さず、たかがチラシ1枚うけとって読もうともしないヤナオヤジにうつったんだと思います。
いいんです、私、本当にヤナオヤジですから・・・。
でも、気になります。いろんなことが・・・・。
私の立場(11/23)
情報というのはかなり厄介なもんだとこのところ考えるようになりました。
良く、インターネットはあくまでも自由なのがいい、どんな情報でもタダで手に入るしとか、特にエッチ系のものにかんしては殆ど制約無しという状況でこれを目当てにして、インターネットを楽しんでいる人も多いはずです。
別に世間の良識ある大人たちのように子供に見せられない様な情報はどんどん規制して等というつもりは在りません。
現実に目を向ければまだまだ世界の多くの国々の子供たちの生存環境そのものにかなりの問題があり、エッチがどうのこうの言うような状態ではないからです。(確かにこの国は現在不況の真っただ中に突入中で失業者も増えまくり、上野公園なんかでは浮浪者たちがあふれ、時々死体が転がっていたりしますけど、少なくとも子供が飢え死にするような環境にはまだ大分間があるようです。)
私が恐れている無制限な情報開示とは、それによって弱者が守れなくなりうるものということです。
この場合の弱者とは知識のない子供たちという意味ではなく、社会的に制約をうけている立場にいる弱者ということです。
情報は一見無制限に解放されているような場合だとそれによってあたかも公平に公開されているような錯覚に陥りがちですが、現実にはやはり力の強い側に有利なように展開されています。
もともと弱者というのは大体において少数派でも在りますから、規制のない状態ではその情報量においても不利な立場であることは否めません。
表現の自由という問題もこれとだぶることが在るのですが、此れに関しても私としてはある一定の制限は必要だと考えています。
理由は同様である特定の権益集団によって反論する力のない弱い個人もしくは、集団の権利を冒涜するような宣伝がなされたり、社会そのものから排撃されるようなことがあってはならないと考えているからです。
ただ、何処に線ひくかというのがかなりむずかしいというのも事実です。
この国はそれでなくても臭いものには取り敢えずフタでもしておくかってノリでこの2,000年位をのりきってしまってますから、差別感覚がとても曖昧になってしまっているところが在るようにおもえます。
よくあるのが差別なんかしていないというヤツ、でも、きっちりしてるんです。TVマスコミなんかではあたりまえになっていますけど、エタ、非人、チョン、キチガイ、メクラ、等の言葉さえつかわなければ、OKで女性タレントなんかにおもいっきりセクハラかましてたりするパターンなんかはよくありますが、ちゃんと考えれば、現実には差別が歴然と存在するのに、その事実を認めず、我関せずと暮らしていけることのほうがヘンなハナシなんです。
上野の公園でのたれ死んでいる浮浪者を汚物でも見るように眺め、タイタニックという作り物のお涙ちょうだいに涙を流して自己満足に浸っているような人間たちが安易な表現と言論の自由を過信しつつ、このインターネットを支えているのだとしたら、ちょっと空恐ろしい気分にとらわれてしまいます。
チンポをおったてて、エッチものを検索しまくるのをとやかくいうつもりはありませんが、其れは、本来あるべき自由や、理想とは随分懸け離れたものであることを忘れないようにしたいものです。
パンクなお友達
今はもう死んじゃったんですけどお友達でパンクなバンドをやってるやつが居ました。
頃は80年代にはいったばかりでちょうどパンク全盛期、当時私は映画をとったり劇団やったりと結構強気で世間様と睨み合っておりました。
映画だの芝居だのといってもカネも力もなかった若造(今はオヤジになりましたけど、もっとビンボーです)にすぎなかった私にとって最大のネックはやはりお金、映画をつくるにも芝居をつくるにも仲間たちの手弁当で献身的な協力があったにせよどうしたってお金は必要です。
この時代一緒に活動してた連中はみなこのお金に行く手をはばまれていました。でも所詮文句をたれることしか能のない当時の私たちにとってこいつは本当に強敵でした。
そのパンクバンドのダチもまあミュージシャン系にしてはマトモなやつでちゃんとバイトなどに精を出せるやつだったんですが(寿司職人の見習い)、にしたってお金はいくらだって出ていきます。
スタジオ、ライブハウス、移動用のレンタカー、楽器代にそのメンテ費用だってバカになりません。ヤツは外でカネを使うのを嫌いまず喫茶店やメシ屋には絶対にはいらない。待ち合わせはどんなに遅れてくるやつがいようが、死んでもハチ公前だし、打ち合わせは公園か自分ち。
熱い夏の日はクビからマヨネーズの容器を洗っただけの自作水筒に麦茶をつめ、なぜだか理由はわかりませんがモヒカンヘアの襟足にカスタネットをぶらさげ、電車にのってもバスには絶対乗りません。
(電車は川とかトンネルとかヒトの歩けないところをとても歩く気になれない距離を移動するけど、バスはヒトの歩いてるところをちょこっと走るだけでカネをとろうっていうんだから、そりゃぁ許せないぜ!と確かそんな理由でしたね)
勿論タクシーなどは論外かつ法外な乗り物でしたね。なにしろ自家用車どころか免許すら仲間内でもってるヤツはおらず、たまにそういう知りあいができると寄ってたかって用事を押し付けていました。そのパンクバンドのダチの場合結構車は必需品だった筈なんですが、毎日のご飯が近所のパン屋がウサギにあげるものと信じて疑わずにヤツにくれてた、パンのミミでたまの御馳走がダチのおごりの「焼きさんま定食」四百五十円ナリですから、そんなモン、ユメのまたユメだったんです。
ある日流石にこのままではいけない、日曜になるとにわかキリスト教徒になりすまし、子供たちの御菓子をがめてはいけないと考えたヤツは事業を起こすから手伝ってくれ!といいはじめました。ヤツはなにを血迷ったのかスタジオを作るといいはじめたのです。ちょうどバンドブームが始まり始めた頃で巷ではスタジオが不足しがちでした。ヤツは自分の住居の地の利にかけることにしたのです。しかも自分ちをスタジオにしてしまえばもう電車賃だってかかんないし、メンバーからおカネだって貰える!好きなときに好きな時間演れて兎に角自分は絶対ソンをしない、うまくすればこのまま寿司屋にいかなくてもやっていけるかも!斯くしてスタジオ駒場計画は仲間達の協力で実行に移されたのでした。ヤツのへやは雑居ビルの屋上に立てられた8畳一間のプレハブ住宅。問題はどうしたって階下へぬけるドラムの音と密閉したことによって生じる換気のワルサでした。結局壁や床にゴム板とグラスウールを敷き詰めることで音のほうはなんとかカバーできたんですが、換気と温度をコントロールするためにはやっぱりクーラーが必要だということになりました。粗大ゴミの日を狙って何台か拾ってきたものの役にたつものはなく、知人に頭を下げ強引に買い替えてもらいなんとかスタジオに据え付けました。
なんだかんだでそれでも10万円位はかかったと思います。当然ですがそんな大金はいいだしっぺのヤツにあるわけもなくバンドメンバー全員の負担するところとなったため、当初の目論見はまんまとはずれ、ヤツの寿司屋づとめはその後も暫く続いていました。
ヤツとヤツのバンドはその過激なステージをウリにインディーズシーンでやがて注目を集めるようになったころには、こちらともなんとなく疎遠になっていてあまり連絡もとりあわなくなっていましたが、死ぬちょっと前にメジャーデビューを果たし、律義に遊びにきてくれたときには結構嬉しかったものです。
この前仕事であるメジャーな女性ボーカルのとこでベースを弾いてるというバンドマンと話す機会があったのですが、彼もスタジオ駒場で練習したことがあるとかで、なんとなくヤツのことを思い出してしまいました。
ヤツが死んだとき、映画も芝居もすっかりやめて、ただ、ただ日々の生活におわれていた自分がまるでアカの他人のように思え、意味もなく情けなく感じたことを昨日のように思い出すことができます。
今年でヤツがいなくなってもう8年が経過してしまいました。
いまだになにができているわけでも、また、ヤツにしたってなにかをやったってわけでもないんですが、その時に感じた焦燥感らしきものは今でも意識のどこかに張り付いているようです。
結局メジャーデビューは果たしたもののそれだけで食えるわけもなく土方にせいを出し、あまり日の目をあびるヒマもなく敢え無く他界してしまったわけですが、別になんにも気にしていないで天国のどこか片隅でヘラヘラ笑いながら暢気にやっているような気がします。
ヤツの冥福を祈って合掌しつつちょっと湿っぽくなってしまったこの項を終わろうと思います。
ペットが大好き
(大丈夫人間のペットのハナシじゃないから)(10/22)
ウチにはネコが5匹ほど居まして、なおかつ全員家ネコです。
しかも貸家で狭いお家ですからかなり濃厚なネコ密度といえます。これだけの数に加え奴等基本的に表にだして貰えませんからこの狭い家のなかで其れなりの棲み分けをやらねばならないから大変です。
おかげで家中の柱という柱は爪研ぎの餌食となり、ウンコの片づけが少しでも遅れようものなら洗濯物、台所の床、果てはゲタ箱などあっというまにウンコのヤマを築いて貰えます。
例えば一日家をあけて帰ってくると玄関にはウンコ、廊下にはゲロ、台所には食い散らかしたゴキブリの残骸、部屋にはいれば追いかけっこの末、蹴倒されたカメラやら、CDやら灰皿やらが所狭しと転がっています。
一体どうしてこんなことになってしまったのか、いまだに良くわかっていません。
始めは友人の奥様が生ゴミの日にゴミ袋に入れられた状態で回収されてきた生後1ヶ月位の小猫たちでした。
友人宅にはまだちいさいガキなどもいるため、ネコまでは飼えないということになり急遽里親探しが始まったわけです。取り敢えず、1匹はウチで引き取ることにして(全部で4匹いたんだね)見せてもらったら、同居人が2匹欲しがり始めた。
まあ、そのときはサイズも小さいし、泣き声だってかわいいもんです。この位なら平気だろうとタカをくくった私がバカでした。
まだ、まだ小さかったので避妊を先送りにしているうちにあっという間に御懐妊めされ元気なお子様を4匹出産。なんとか2匹を里子にだしたものの、残ったのがまた御懐妊というわけで、里親探しもむなしく5匹手許に残ってしまったわけです。
今は、皆立派な大人サイズに成長し、毎日元気にお家を荒らしています。エサ代とか便所のすな代とかも結構侮れない金額になります。これでまとめて流行り病などにかかられた日には、家賃代位軽く吹っ飛ぶイキオイです。
ここまでくるとペットと言うよりは家畜にちかいものがあります。(なんの役にも立たない家畜だけどね)夏場はいいんですが、冬場ともなると暖をもとめて布団に潜り込んでくる5匹の暴れん坊将軍たちのおかげで、寝返りすら満足に打てない始末です。
ただ蚤にかんしては家ネコである分随分ラクなようです。でも上には上をいくバカはいくらでもいます。
知人にアングラ劇団(死語〕を主催していた精神科医がいて、いきおい美術に凝るオヤジでしたから動物なんかはリアリズム追及の為か、本物を使いたがるのです。
結果、公演が終わるたびに犬が増え、カラスが増え、其れが、ヤギだのブタだの大型化し気がついたら彼のお家はモノホンの家畜で一杯になっていました。
勿論彼も彼の子供もそんなかわいくない動物の世話は絶対にしません。
しかも、都内の結構密集住宅地に家を構えていましたから、散歩に行くと言っても、犬はともかく、ヤギだのブタだのを連れて御近所のオバサンと挨拶をかわすわけにも行かず、ヤギは使わなくなったタンスを居城とし、ブタはタタミ1枚分のせこい中庭に放し飼い、犬(勿論雑種の駄犬)カラスは家のなかで放し飼い状態であったと彼の近しい友人に聞いたことが在ります。
メシを御馳走になっていても予断を許さず少しでもスキを見せようものなら、カラスや犬がオカズをくわえて逃げていき、最悪はヤギがタンスを蹴破り、ブタが居間に突っ込んできて、なにもかもがブッ壊れてしまうことだそうです。
家族は慣れたもんで自分の皿とメシ茶わんをもってヤギ、ブタ、駄犬、カラスの複合攻撃をかわすそうですが、そんなこと一言も聞いてない客はまんまと全員の集中攻撃にあい、あえない最期を遂げるそうです。ですから、彼のうちのメニューには鍋物は存在しないそうです。(そりゃあ、そうだよね、鍋だと命がけでやるようだものね)最近その劇団で役者やってた女の子と偶然再開してハナシを聞いてたらヤギとかブタくんたちは無事天命を全うしたそうで人事ながらほっとしました。
でも、まだ上には上がいてそれは親戚のオバサンなんですがネコを30匹程飼っているそうです。
ここまでくるともうエサ代だけでもハンパじゃないらしく、どんなに押さえても月に10万円はかかるらしい。
しかも最近判明した新事実によると全員家ネコだということでした。
あたりまえのように避妊等していませんから、このさきどれだけ恐いことになるのか考えたくも在りません。
ちなみに彼女のウチはいま旦那が事業でおおごけし、危機一髪なんですがそれでも、「ネコを1匹でも捨てるくらいなら旦那のほうをポイするわよ」と豪語してはばからず、親戚中のブーイングを浴びています。一応、子供は4人、孫も3人いるのですがロクに掃除もしないヒトですから、(ワーイ!うちとおんなじだぁ!)降り積もったネコの毛と所狭しと転がり場所によってはてんこ盛りになっているウンコのせいで誰も近寄るものは居ないそうです。
旦那はまいにち、昔、テレビで見たブゥドゥの神様にお祈りを捧げているそうですが、大した効果があがらなようで「伝染病かなんかで後腐れ無く全滅するように御願いしてるんだけど効き目なくってさ・・・いい神様紹介してよ」等とその苦悩の日々を訴えていました。
旦那の朝の目覚めは全員参加で夜明けとともに始まる追いかけっこだそうです。そいつが始まると家の中は一気に市街戦の様相を呈し、ありとあらゆるものが原形をとどめない姿へと粉砕されていくんだそうです。 旦那唯一の趣味であるH.Oゲージもしまい込まれて久しく、ヤマのような借金を返すアテもなく脱力して家に帰るとそこはネコランドで自分の居場所はテレビの前のネコの毛とゲロにまみれた座布団1枚・・・・ヤレヤレ、こんな大人にはなりたくないモンです。
ちなみにこのおうちネコを飼うようになったのはこの5年位のことだって言ってましたから、このイキオイでいけば100匹を越えてしまうのは時間の問題でしょう。ま、それに比べればウチなんて屁みたいなもんすよ。