日々の覚書

1998 9/17~12/26

私が聞いた戦争の話1(12/26)

このハナシはやっぱり仕事上の付きあいのあるやつから聞かせてもらった話です。
(あたりまえのことなんですけど、勿論戦争というものには否定的な立場をとらせてもらっています。詳しいことをここで書くつもりはないのでおおまかで申し訳ないのですが・・。ですから戦争を妙に肯定的に描くきらいのあるアニメ、映画全般に対してあまりいい感情はもっていません。どうしても不必要に感情的になりすぎるか、夢想的になりすぎてしまい一番重要な現実の痛みをうざなりにしすぎる傾向があるからです。これが不道徳に徹してくれてればまだいいんですけど、適当なニゲを作って見せてくれるから余計ムカつくんですね。ですから、私が書くのは痛いハナシです。興味だけで読むつもりだとちょっと辛いかも知れません。)
ベトナム戦争がまだたけなわだった60年代の終わり頃のハナシだそうです。
 当時アメリカにあこがれ、アメリカに渡った若者がいました。

仮に名前をヨシとでもしておきましょうか。

彼はオヤの反対をおしきり、バイトでカネを貯め大変な苦労の果てになんとかアメリカに渡ることが出来ました。
でも、ビザの期間がせまり日本に帰る日が目前に迫ってきていました。
折角ここまで来たというのにもう、帰るのか・・。
実際ヨシの考えはアマチャンもいいところでした。
なんのあてもなく、アメリカに行けばなんとかなるとイキオイだけで来てしまったのですから・・。
だんだんおカネも残り少なくなり、公園で野宿と言う日々が続きました。
すっかり、落ち込んでしまったヨシでしたが公園で知りあったヒッピーがいい事を教えてくれました。
ベトナム戦争に志願すればアメリカでの市民権と永住権がもらえる!
しかも、軍隊にいる間の生活は保証されるし、ちゃんと兵役をまっとうすれば軍人恩給だって貰えるようになる。
これは本当のハナシで当時から不法在留の外人対策にネをあげていたアメリカ政府の政策のひとつでした。
勝手に居れば罪になる。
居たいのならアメリカ人としての義務を果たせとそういうことです。
ヨシは1も2もなく志願しました。
志願した次の日からヨシにはアメリカ軍の兵士としての訓練が待っていました。
でも訓練の内要はヨシにとってとても辛いものでした。
もともとアメリカにくるだけの気力と体力位は持ちあわせていたわけですから、ロードや射撃訓練等は大して辛くなかったそうです。
辛かったのは上官が皆、黄色人種(日本人はいなかったそうです。)で意味もなく彼らに暴力をふるわれることでした。
訓練といっても内容は大半が黄色人種に理不尽に痛めつけられることで、要はたかが1ヶ月の訓練期間では大した訓練ができないので、少しでも黄色人種にたいして増悪をうえつけるようにしようというのが目的だったようです。

体中アザだらけの状態で1ヶ月の訓練を終え、ヨシは他の志願兵達と一緒にベトナムに送られそこで再編成され上陸用舟艇にのせられました。
まだ、早朝だというのに海の上でさえゴムが焼ける匂いがし、舟艇のすぐそばで凄まじい音がして水柱がたち、舟艇はひどく揺れました。
揺れのせいか何人もの新兵たちが自分のズボンにゲロを吐きましたが、誰も気にする余裕などなく、ヨシは船酔いにはならなかったそうですが全身が緊張しすぎるのか妙に喉が乾いたのを覚えているそうです。
ガツンという大きな衝撃のあと舟艇の前扉がたおれ、少し遠くにヤシ林がみえたそうです。
そこからは無我夢中で走り、砂浜の爆弾の跡らしい穴に飛び込みました。
周り中いたるところで銃の音が響き爆発音がし、ゴムが焼けるきな臭い匂いが充満しています。
後ろを振り返ると自分の乗ってきた舟艇は火に包まれていて逃げそこねたらしい新兵達が倒れているのが見えました。
でも、どうすることもできないまま、ヨシはその穴のなかでひたすらじっとしているしかありませんでした。
夜になっても少しも銃火のおさまる気配はありません。
クソも小便もそのままズボンのなかに垂れ流しでした。
そうやって幾日かがすぎ、やっと後続の部隊が到着し、ヨシは穴の中からひっぱりだしてもらえました。
ヨシは穴の中で5日間もじっとしていたのでした。
一緒に来た仲間のうち生きているのは3割にも満たない数だったそうです。

辺りの景色も一変しており群生していた筈のヤシはきれいさっぱり焼き払われ、あたりは焦土と化していたそうです。
暫くしてヨシは自分の権利を放棄し、日本に帰ってきました。
今は家業を継いで結婚もし、子供もいるようです。
たまに思い出すとこのハナシをしてくれるのですが、その度に涙を流すそうです。

それが一体何に対しての涙なのかは知る由もありませんが・・・・・・・。

 


 

最近かわした知人との会話(12/16)

仕事の関係でそれなりに懇意にしてもらっているあるオジサンと話していたときのことです。
まぁ、いろいろ話しているうちに何故かハナシが原爆のほうへいっちゃいました。
そのオジサンは結構分別のあるいい人でとっている人で、年と世代の割りにはアタマも柔軟なハナシの解るオジサンとして仲間内(仕事関係のね)でも評価の高い人気のあるひとです。
で、彼がいうには
「原爆が落ちてよかった。あれでもなければ日本はまだまだ戦争を続けていただろうから、もっともっと多くの犠牲者がでていて、もっと大変なことになっていただろう。広島や長崎で犠牲になった方には申し訳ないが、あれは、あれでよかったんだと思わなければあそこで死んでいった人も浮かばれないだろう。彼らの死は戦後の平和な日本の礎になったわけだから感謝せねばならないと思う」
というようなことをかれは、彼なりの結論として私にいったわけです。
これって、よく聞くハナシですよね?私も別に彼からじゃなくても何度か本で読んだこともやっぱり彼くらいの年の人と話していて此れとにたようなことをいわれた経験があります。
何で、彼がこんなことを言い始めたかというと、私が何故、あの時期にアメリカが原爆を広島と長崎に落とす必要があったのか?という疑問を彼に呈した答えとしていう必要があったからです。
勿論私のなかでの答えはでています。
原爆は日米の戦争を帰結するためには落とす必要はなかった。
アメリカは戦後のソビエト(というよりコミュニズム)ととの二極化構造を睨み新兵器としての原爆の実験(その後にも自国兵士を被爆地点にわざと配置し、被爆データーを集めたりするような無茶な実験をしている。:映画アトミックカフェ:なんかが見やすくて解りやすいようです。)をかねてのプロバガンダであったと正しく理解しているつもりです。
私にとって重要なのは戦争に対する言い訳ではなく事実です。
誰が何のために起こした戦争で、結果何がどう変化しそのためにどれだけの犠牲を払い、かわりに誰が何を手に入れたのかをちゃんと把握しておきたいのです。
彼は私のそんな態度を訝しがり、戦争で死んだ無為な人たちに対する冒涜だとまで言い切りましたが、私にすれば死んだ人たちの犠牲の上に自分の現在の生活があると思っているんなら、私の言い分はむしろ最低限の今を生きる人にとっての原則のようなモノだと思うんですが、皆さんはいかがお考えなんでしょうか?もし、なにか御意見があればゲストブックにでも書き込んで頂ければ幸いです。


 

最近かわした友人との会話12/6)

ちょっと頼まれ事があって半年ぶりくらいに友人のウチに電話をしたんです。
ところが目指す友人はボーリングにでかけて留守でそこの奥さまと話すことになりました。
彼女には2人のこ憎たらしいガキがいて(なにしろ私のことをゴキブリと呼ぶからね。上が6歳で男、下が4歳で女だとおもったけど・・)、年齢30歳くらいの内容さえ知らなければ美人で知性的にみえる女性です。
で、彼女どうもタイクツが貯まりまくっていたらしくて中々、電話がきれない。
用件だけ伝えてさっさと切りたかったんだけど半年ぶりの電話ではそうもいかず、でまぁ、ダンナの愚痴から隣近所のオバサンたちのワルクチまで色々と聞かされているうち話題がカメラのほうにいきました。
オット、カメラのことならまかしてくんねぇ、おいらカメラにはちょいと知識があるんだぜぇということになって、やっとハナシの糸口がみえてきました。(切るタイミングもね)
どうも奥様は写真がとってみたくなったらしい。
はじめは子供の運動会に<写るんです>ではちょっとムリがあるというのから始まって、気持ちのなかでそれがどんどん膨らんでクビからでっかいレンズついたカメラさげてたらかっこいいジャーン、プロみたいで・・になったらしいんだけど、彼女はもともとメカ的なものに弱い上にカメラとガメラ(カメラ-主に家族にみはなされたオヤジの味方であることがよくある、ガメラは自閉症気味の子供の味方であることが多い、程度の差)のちがいが解る程度にしかカメラの知識がありません。
それでまた、余計なことにヘタに趣味的なことに詳しいもんだから、ライカ(只の偏見なんですけどライカのマニアって、裏でロリコン本とか集めてそうな気がするのは私だけでしょうか?)とかの名前を聞きかじってたりする。
友人関係にもデザイナーとかディレクターやってますとかのクリエイティブなヒト(バカしかいません。えぇ、勿論偏見ですとも!)たちが揃っているもんだから、ハナシは(彼女のなかで)とっても込み入ったことになってたんです。
情報を整理して彼女の要望を聞き入れつつ、予算なんかも考慮にいれ、じゃぁ、カメラの機種を絞り込もうということになり、電話口でメモをとろうとしている彼女に機種名を伝えようとするのですが、携帯電話で丿イズがはいるのか中々、上手く伝わりません。

私「いい?アサヒペンタックスのS,P.Fね・・・。」

奥様「エエー?なにー?ペンタックスのえふー?」

私「いや、えす!えふじゃなくって、えすー!」

奥様「あー?えー?えふじゃなくって、なにー?」

私「だーから、エスだって、えす!!」

奥様「えすー?えすーて、セックスのえすー?」

私「そうそう!セックスのえす!」

奥様「なぁーんだ!そういってくんないとわかんないよー」

私「いい、わかった。じゃぁ、次はぴーね、ぴー。ペニスのぴーだからね!」

奥様「わかったー!ペニスのぴーね!!なぁんだ、そういってくれればすぐわかるじゃーん!」

私「エフはねぇ、ふぁっくのえふねー!」

奥様「え・ぇ・・と・ふぁっくのえふと・・。じゃぁ、アサヒペンタックスでー、セックス、ペニス、ファックだからーSPFっていうの捜せばいいんだよね?」

私「そうそれでいいと思うからー!新宿辺りの中古カメラ屋でさがせばそんなん安いはずだからー!」

 とまぁ、そんなこんなで半年ぶりの会話がこれかよ!などと思いつつなんとか、会話を乗りきることができたのでした。
電話を切った後、彼女の頭のなかでは、絶対にSPFがスポーツマティックFであることが理解されることがないであろうことを祈らずにはいられない私でした。

 


ハヤリスタリ(12/4)

確か、5〜6年くらい前だと思うんだけど、その頃TVでよく特集組んでた一つに食品添加物をネタにしたのって良く在ったような気がするんだけどあれってどうなったんでしょう?

鼻に付くくらい正義の味方面しテレビの司会者共が、アメリカの米をコクゾウとかいう日本の虫に食わせたら暫くして死んじゃったとか、オレンジなんかに使ってる農薬はアメリカ国内だと許可にならないものを日本用には平気で使ってるんだとかツバ飛ばして喋ってましたけど・・・。時々、オレンジ買うかなってときに思い出すんだけど、あれ、どうなったんでしょう?
思い出すとスゴイ気になって、スーパーの寿司とか食えなくなるんだけど・・

 

それで思い出したんですが、私なんかが、高校生位のときは兎に角コカコーラが良く、やり玉にあげられてました。
ちょうど、ベトナム戦争たけなわのころで、脳みその腐っっているとしか思えない反戦運動家と称するいい大人たちがヤマほどいてがマジメな顔して
ベトナムにメンタムや赤チン送ってた時代でした。
彼らは時々テレビに出てきて、アメリカを詰り、小難しいことをいってましたけど、やることは
ギター弾いて地下鉄の前で下手くそな唄謳ってりゃベトナムと連帯できるとでも思ってるようなバカ共とたいして変わりませんでした。
多分、コカ、コーラっていうのはそんな彼らにとってみても、まだマクドナルドだってみたことがないその当時としては一番解りやすいアメリカだったんですね。

元々、コカ、コーラってコカインをっていうか、その大元の南米インディオの嗜好品のひとつだったコカの葉をソーダで割わったようなもんだったんです。で、これは当然麻薬売ってるのとなんにも変わらないんだけど、コカインのもつクスリ的な効果と感習性のおかげで、コカ、コーラは一気に世界中に蔓延しました。(今、考えたらスゴイハナシですよね。コカイン、コーラが、その辺で買えてみんなラッパしてんだから!)

一体この後、絶対とんでもないくらい居たはずのコカイン中毒者をどうしたのかまでは知りませんが、流石アメリカ政府の横やりがはいりコカ、コーラはコカイン抜きで販売されるようになりました。(考えようによっては、今のアメリカの南米からのコカイン流入なんかは彼らのやったこと考えりゃ屁みたいなもんですよね。
食品なんだから前もって調べないといくらなんでもマズイでしょう)こんな素性も手伝ってか、(勿論、日本にはいってきたときにはコカインはいってませんでした。)コカ、コーラってよく叩かれてたんだけど、コカ、コーラ自体が全く相手にしないから、なんだか
負け犬の遠ぼえ状態でした。
コカ、コーラって解りやすいアメリカで在ると同時に強大で尊大なアメリカそのものでもあったんです。
だから、その当時にも、盛り上がった食品添加物騒ぎのときでも、コカ、コーラは内容物にかんしては(確か、企業秘密に関する理由だったように思いますが)一切公表しなかったように記憶しています。でも、現実には
夏場に若い妊婦がコカ、コーラのペットボトル(ちょうどその頃発売された)を毎日のように飲んでいたら、生まれた赤ちゃんが死産でしかも、骨が穴だらけだったとか、歯をコーラの原液につけてみたら、溶けはじめたとかいわれるようになり、(私、コカ、コーラは勿論信じてませんけど、そういう反対情報も疑ってかかれる位の大人にはなっていますので、若い妊婦が云々であるとか、歯が溶けるなんていうのも当時あれだけ有名なハナシだった割りにはデーター的なものがなかったということも付け加えておきます。)一部地域では販売されなかったこともあったんです。

此れは、本質的には今も変わりないですけど、多分にあまりにもアメリカの顔色ばかりを気にする日本政府への反発も在ったのだと思います。そのうち、流行らなくなったのか、食品添加物はもちろんのこと、ミナマタチッソカドニウムPCBと一緒にどこかへいってしまいました。(なんてことだ)で、今はダイオキシン。この前、仕事してたらその件でいきなり若い主婦に絡まれました。う〜ん、そりゃぁ、大変な事も、大事なことも解るけど・・だからって今絡まれても〜〜。しょうがないんで、その人と約束しました。3年たってそれでもアナタの満足できる活動が続けていられたなら、ちゃんと本気でハナシを聞かせてもらいますって。そうしたら、怪訝な顔して帰って行きました。彼女の目にはこんな大事なことにも耳を貸さず、たかがチラシ1枚うけとって読もうともしないヤナオヤジにうつったんだと思います。

いいんです、私、本当にヤナオヤジですから・・・。

でも、気になります。いろんなことが・・・・。


私の立場(11/23)

情報というのはかなり厄介なもんだとこのところ考えるようになりました。
良く、インターネットはあくまでも自由なのがいい、どんな情報でもタダで手に入るしとか、特にエッチ系のものにかんしては殆ど制約無しという状況でこれを目当てにして、インターネットを楽しんでいる人も多いはずです。

別に世間の良識ある大人たちのように子供に見せられない様な情報はどんどん規制して等というつもりは在りません。
 現実に目を向ければまだまだ世界の多くの国々の子供たちの生存環境そのものにかなりの問題があり、エッチがどうのこうの言うような状態ではないからです。(確かにこの国は現在不況の真っただ中に突入中で失業者も増えまくり、上野公園なんかでは浮浪者たちがあふれ、時々死体が転がっていたりしますけど、少なくとも子供が飢え死にするような環境にはまだ大分間があるようです。)

私が恐れている無制限な情報開示とは、それによって弱者が守れなくなりうるものということです。

この場合の弱者とは知識のない子供たちという意味ではなく、社会的に制約をうけている立場にいる弱者ということです。
 情報は一見無制限に解放されているような場合だとそれによってあたかも公平に公開されているような錯覚に陥りがちですが、現実にはやはり力の強い側に有利なように展開されています。

もともと弱者というのは大体において少数派でも在りますから、規制のない状態ではその情報量においても不利な立場であることは否めません。
 表現の自由という問題もこれとだぶることが在るのですが、此れに関しても私としてはある一定の制限は必要だと考えています。
 理由は同様である特定の権益集団によって反論する力のない弱い個人もしくは、集団の権利を冒涜するような宣伝がなされたり、社会そのものから排撃されるようなことがあってはならないと考えているからです。

ただ、何処に線ひくかというのがかなりむずかしいというのも事実です。
 この国はそれでなくても臭いものには取り敢えずフタでもしておくかってノリでこの2,000年位をのりきってしまってますから、差別感覚がとても曖昧になってしまっているところが在るようにおもえます。
 よくあるのが差別なんかしていないというヤツ、でも、きっちりしてるんです。TVマスコミなんかではあたりまえになっていますけど、エタ、非人、チョン、キチガイ、メクラ、等の言葉さえつかわなければ、OKで女性タレントなんかにおもいっきりセクハラかましてたりするパターンなんかはよくありますが、ちゃんと考えれば、現実には差別が歴然と存在するのに、その事実を認めず、我関せずと暮らしていけることのほうがヘンなハナシなんです。
 上野の公園でのたれ死んでいる浮浪者を汚物でも見るように眺め、タイタニックという作り物のお涙ちょうだいに涙を流して自己満足に浸っているような人間たちが安易な表現と言論の自由を過信しつつ、このインターネットを支えているのだとしたら、ちょっと空恐ろしい気分にとらわれてしまいます。

チンポをおったてて、エッチものを検索しまくるのをとやかくいうつもりはありませんが、其れは、本来あるべき自由や、理想とは随分懸け離れたものであることを忘れないようにしたいものです。


パンクなお友達

今はもう死んじゃったんですけどお友達でパンクなバンドをやってるやつが居ました。
 頃は80年代にはいったばかりでちょうどパンク全盛期、当時私は映画をとったり劇団やったりと結構強気で世間様と睨み合っておりました。
 映画だの芝居だのといってもカネも力もなかった若造(今はオヤジになりましたけど、もっとビンボーです)にすぎなかった私にとって最大のネックはやはりお金、映画をつくるにも芝居をつくるにも仲間たちの手弁当で献身的な協力があったにせよどうしたってお金は必要です。
 この時代一緒に活動してた連中はみなこのお金に行く手をはばまれていました。でも所詮文句をたれることしか能のない当時の私たちにとってこいつは本当に強敵でした。
 そのパンクバンドのダチもまあミュージシャン系にしてはマトモなやつでちゃんとバイトなどに精を出せるやつだったんですが(寿司職人の見習い)、にしたってお金はいくらだって出ていきます。
 スタジオ、ライブハウス、移動用のレンタカー、楽器代にそのメンテ費用だってバカになりません。ヤツは外でカネを使うのを嫌いまず喫茶店やメシ屋には絶対にはいらない。待ち合わせはどんなに遅れてくるやつがいようが、
死んでもハチ公前だし、打ち合わせは公園か自分ち。
 熱い夏の日は
クビからマヨネーズの容器を洗っただけの自作水筒に麦茶をつめ、なぜだか理由はわかりませんがモヒカンヘアの襟足にカスタネットをぶらさげ、電車にのってもバスには絶対乗りません。
 (電車は川とかトンネルとかヒトの歩けないところをとても歩く気になれない距離を移動するけど、バスはヒトの歩いてるところをちょこっと走るだけでカネをとろうっていうんだから、そりゃぁ許せないぜ!と確かそんな理由でしたね)
 勿論
タクシーなどは論外かつ法外な乗り物でしたね。なにしろ自家用車どころか免許すら仲間内でもってるヤツはおらず、たまにそういう知りあいができると寄ってたかって用事を押し付けていました。そのパンクバンドのダチの場合結構車は必需品だった筈なんですが、毎日のご飯が近所のパン屋がウサギにあげるものと信じて疑わずにヤツにくれてた、パンのミミでたまの御馳走がダチのおごりの「焼きさんま定食」四百五十円ナリですから、そんなモン、ユメのまたユメだったんです。

ある日流石にこのままではいけない、日曜になるとにわかキリスト教徒になりすまし、子供たちの御菓子をがめてはいけないと考えたヤツは事業を起こすから手伝ってくれ!といいはじめました。ヤツはなにを血迷ったのかスタジオを作るといいはじめたのです。ちょうどバンドブームが始まり始めた頃で巷ではスタジオが不足しがちでした。ヤツは自分の住居の地の利にかけることにしたのです。しかも自分ちをスタジオにしてしまえばもう電車賃だってかかんないし、メンバーからおカネだって貰える!好きなときに好きな時間演れて兎に角自分は絶対ソンをしない、うまくすればこのまま寿司屋にいかなくてもやっていけるかも!斯くしてスタジオ駒場計画は仲間達の協力で実行に移されたのでした。ヤツのへやは雑居ビルの屋上に立てられた8畳一間のプレハブ住宅。問題はどうしたって階下へぬけるドラムの音と密閉したことによって生じる換気のワルサでした。結局壁や床にゴム板とグラスウールを敷き詰めることで音のほうはなんとかカバーできたんですが、換気と温度をコントロールするためにはやっぱりクーラーが必要だということになりました。粗大ゴミの日を狙って何台か拾ってきたものの役にたつものはなく、知人に頭を下げ強引に買い替えてもらいなんとかスタジオに据え付けました。
 なんだかんだでそれでも10万円位はかかったと思います。当然ですがそんな大金はいいだしっぺのヤツにあるわけもなくバンドメンバー全員の負担するところとなったため、当初の目論見はまんまとはずれ、ヤツの寿司屋づとめはその後も暫く続いていました。
 ヤツとヤツのバンドはその過激なステージをウリにインディーズシーンでやがて注目を集めるようになったころには、こちらともなんとなく疎遠になっていてあまり連絡もとりあわなくなっていましたが、死ぬちょっと前にメジャーデビューを果たし、律義に遊びにきてくれたときには結構嬉しかったものです。
 この前仕事であるメジャーな女性ボーカルのとこでベースを弾いてるというバンドマンと話す機会があったのですが、彼もスタジオ駒場で練習したことがあるとかで、なんとなくヤツのことを思い出してしまいました。
 ヤツが死んだとき、映画も芝居もすっかりやめて、ただ、ただ日々の生活におわれていた自分がまるでアカの他人のように思え、意味もなく情けなく感じたことを昨日のように思い出すことができます。

今年でヤツがいなくなってもう8年が経過してしまいました。
 いまだになにができているわけでも、また、ヤツにしたってなにかをやったってわけでもないんですが、その時に感じた焦燥感らしきものは今でも意識のどこかに張り付いているようです。
 結局メジャーデビューは果たしたもののそれだけで食えるわけもなく土方にせいを出し、あまり日の目をあびるヒマもなく敢え無く他界してしまったわけですが、別になんにも気にしていないで天国のどこか片隅でヘラヘラ笑いながら暢気にやっているような気がします。
 ヤツの冥福を祈って合掌しつつちょっと湿っぽくなってしまったこの項を終わろうと思います。


ペットが大好き
(大丈夫人間のペットのハナシじゃないから)(10/22)

ウチにはネコが5匹ほど居まして、なおかつ全員家ネコです。

しかも貸家で狭いお家ですからかなり濃厚なネコ密度といえます。これだけの数に加え奴等基本的に表にだして貰えませんからこの狭い家のなかで其れなりの棲み分けをやらねばならないから大変です。
おかげで家中の柱という柱は爪研ぎの餌食となり、ウンコの片づけが少しでも遅れようものなら洗濯物、台所の床、果てはゲタ箱などあっというまにウンコのヤマを築いて貰えます。
例えば一日家をあけて帰ってくると玄関にはウンコ、廊下にはゲロ、台所には食い散らかしたゴキブリの残骸、部屋にはいれば追いかけっこの末、蹴倒されたカメラやら、CDやら灰皿やらが所狭しと転がっています。
 一体どうしてこんなことになってしまったのか、いまだに良くわかっていません。
 始めは友人の奥様が生ゴミの日にゴミ袋に入れられた状態で回収されてきた生後1ヶ月位の小猫たちでした。
 友人宅にはまだちいさいガキなどもいるため、ネコまでは飼えないということになり急遽里親探しが始まったわけです。取り敢えず、1匹はウチで引き取ることにして(全部で4匹いたんだね)見せてもらったら、同居人が2匹欲しがり始めた。
 まあ、そのときはサイズも小さいし、泣き声だってかわいいもんです。この位なら平気だろうとタカをくくった私が
バカでした。
 まだ、まだ小さかったので避妊を先送りにしているうちにあっという間に御懐妊めされ元気なお子様を4匹出産。なんとか2匹を里子にだしたものの、残ったのがまた御懐妊というわけで、里親探しもむなしく5匹手許に残ってしまったわけです。
 今は、皆立派な大人サイズに成長し、毎日元気にお家を荒らしています。エサ代とか便所のすな代とかも結構侮れない金額になります。これでまとめて流行り病などにかかられた日には、家賃代位軽く吹っ飛ぶイキオイです。
 ここまでくるとペットと言うよりは家畜にちかいものがあります。(なんの役にも立たない家畜だけどね)夏場はいいんですが、冬場ともなると暖をもとめて布団に潜り込んでくる5匹の暴れん坊将軍たちのおかげで、寝返りすら満足に打てない始末です。
 ただ蚤にかんしては家ネコである分随分ラクなようです。でも上には上をいくバカはいくらでもいます。
 知人にアングラ劇団(死語〕を主催していた精神科医がいて、いきおい美術に凝るオヤジでしたから動物なんかはリアリズム追及の為か、本物を使いたがるのです。
 結果、公演が終わるたびに犬が増え、カラスが増え、其れが、
ヤギだのブタだの大型化し気がついたら彼のお家はモノホンの家畜で一杯になっていました。
 勿論彼も彼の子供もそんな
かわいくない動物の世話は絶対にしません。
 しかも、都内の結構密集住宅地に家を構えていましたから、散歩に行くと言っても、犬はともかく、ヤギだのブタだのを連れて御近所のオバサンと挨拶をかわすわけにも行かず、ヤギは使わなくなったタンスを居城とし、ブタはタタミ1枚分のせこい中庭に放し飼い、犬(勿論雑種の駄犬)カラスは家のなかで放し飼い状態であったと彼の近しい友人に聞いたことが在ります。
 メシを御馳走になっていても予断を許さず少しでもスキを見せようものなら、カラスや犬がオカズをくわえて逃げていき、最悪は
ヤギがタンスを蹴破りブタが居間に突っ込んできて、なにもかもがブッ壊れてしまうことだそうです。
 家族は慣れたもんで自分の皿とメシ茶わんをもってヤギ、ブタ、駄犬、カラスの
複合攻撃をかわすそうですが、そんなこと一言も聞いてない客はまんまと全員の集中攻撃にあい、あえない最期を遂げるそうです。ですから、彼のうちのメニューには鍋物は存在しないそうです。(そりゃあ、そうだよね、鍋だと命がけでやるようだものね)最近その劇団で役者やってた女の子と偶然再開してハナシを聞いてたらヤギとかブタくんたちは無事天命を全うしたそうで人事ながらほっとしました。
 でも、まだ上には上がいてそれは親戚のオバサンなんですが
ネコを30匹程飼っているそうです。
 ここまでくるともうエサ代だけでもハンパじゃないらしく、どんなに押さえても月に
10万円はかかるらしい。
 しかも最近判明した新事実によると
全員家ネコだということでした。
 あたりまえのように避妊等していませんから、このさきどれだけ恐いことになるのか考えたくも在りません。
 ちなみに彼女のウチはいま旦那が事業でおおごけし、危機一髪なんですがそれでも、「ネコを1匹でも捨てるくらいなら旦那のほうを
ポイするわよ」と豪語してはばからず、親戚中のブーイングを浴びています。一応、子供は4人、孫も3人いるのですがロクに掃除もしないヒトですから、(ワーイ!うちとおんなじだぁ!)降り積もったネコの毛と所狭しと転がり場所によってはてんこ盛りになっているウンコのせいで誰も近寄るものは居ないそうです。
 旦那はまいにち、昔、テレビで見た
ブゥドゥの神様にお祈りを捧げているそうですが、大した効果があがらなようで「伝染病かなんかで後腐れ無く全滅するように御願いしてるんだけど効き目なくってさ・・・いい神様紹介してよ」等とその苦悩の日々を訴えていました。
旦那の朝の目覚めは全員参加で夜明けとともに始まる追いかけっこだそうです。そいつが始まると家の中は一気に
市街戦の様相を呈し、ありとあらゆるものが原形をとどめない姿へと粉砕されていくんだそうです。 旦那唯一の趣味であるH.Oゲージもしまい込まれて久しく、ヤマのような借金を返すアテもなく脱力して家に帰るとそこはネコランドで自分の居場所はテレビの前のネコの毛とゲロにまみれた座布団1枚・・・・ヤレヤレ、こんな大人にはなりたくないモンです。
 ちなみにこのおうちネコを飼うようになったのはこの5年位のことだって言ってましたから、このイキオイでいけば
100匹を越えてしまうのは時間の問題でしょう。ま、それに比べればウチなんてみたいなもんすよ。


 

お葬式と私(10/13)

このところお葬式が続いています。
 此の夏に友人のオヤジさんがなくなり、この前の金曜日には叔父が動脈瘤で急死し、通夜、本葬と行って参りました。
 こういうときに一番困るのが一般常識というやつです。
 幸か不幸か好き勝手にこの年までやってこれたのをいいことに一般常識をどこかに置いてきてしまったらしいのです。取り敢えず知人友人関係は多かれ少なかれ破れかぶれなやつが多いんでその辺りの事は暗黙の了解になっているんでこちらも気にしなくていいんですが、親族親戚関係となるとその辺りの調整が非常に面倒くさいことになってしまいます。
 もともと思春期を過ぎた辺りからぐれてしまった私はそのあたりから親戚関係とのつきあい等一切ナシできましたので、親戚の話題のなかではかなり得たいのしれない人間像になっています。まあそういう煩わしい付きあいなどこちらから願い下げですから私の知らないところで、ヤクザといわれていようが、ゲリラ(死語)と言われてようが一向に気にはなりません。
 ただこのところめっきり老け込んでしまった両親と合うたびにここで親孝行とやらの一つでもかましておかないと、いきなりポックリ逝かれてしまった日にはちょっとシンド過ぎるんで最近は親孝行にはげむようにしているのです。
 ですから意には反しますが、似あいもしない黒いスーツなどきて田舎から出てきた親の荷物をもち孝行息子になりきります。
 さて式場にはほぼ二十〜三十年ぶりにあおうかという叔父さんだの叔母さんだのイトコにマタイトコなどがうようよいます。親戚のあいだでは私はヤクザゲリラみたいなコトをしている人間??ということになっていますからはじめのうち皆遠巻きにしていました。
 それでも通夜が始まるころには懐かしさも手伝ってかある程度は会話が弾むようにはなりました。
 でもどうしても会話が成立しづらいのです。
基本的に共通の話題がないし、へたに時事ネタに持ち込むとお互いいやな思いをすることになるのは分かり切っているのでそういう話題もできない、で、どうしても昔話に終始するわけですがこれも長続きしないのでここに来ていない人間のウワサ話めいたものになっていきます。
 それでこれが大体悪口になる。なんだろうなぁ・・と聞いてたんですけど、コレ、今までは私がネタにされてたんだよなと、ふと気がついたんです。で、方針を替えていつも通りにやることにしました。
 結果通夜の席は奇妙な盛り上がりをみせ、私はイトコや叔父達に好き勝手な御託をならべ、寿司をあらかた食いまくり、糖尿のはいった叔父に一気のみを強要し、心筋梗塞の叔母には煙草を勧めました。
 途中でフト我にかえり、いかん、親孝行するはずだったのにとオヤジをみたら、なんだか彼もすっかりハイになっているらしく通夜のやり方を巡って喪主を捕まえなにやら一方的になじっています。
 結局オヤジはワガママを通し喪主とその家族を引き連れ棺桶の前で尺八を吹きまくりました。通夜がおわり、ホテルまで送っていく間もオヤジはハイなままで自分の義弟にさんざん(それはおそらく関西と関東の風習のちがいにすぎないと思うんですが)通夜のやりかたについて難癖をつけています。
 次の日の本葬でもオヤジのパワーは全開で坊主の歩き方から、棺桶の持ち方、果ては火葬場の焼き加減にまでケチをつけ、あげくに火葬場の人間が叔父さんの金歯をガメたに違いないと騒ぎだす始末でした(ウチのオヤジは別にアルツハイマーというわけではありません。むしろ対外的には其れなりに要職についている人間です)。さすがにこれには皆も呆れそんなことは在りえないといくら説明しても少しも納得してくれません。最後の食事会も途中で抜け出して勝手に帰ってしまいました。これも全ての発端は私のせいかしら?等と考え(昨日説教をたれまくったイトコたちが本葬にきてないし、一気飲みさせた叔父はホテルからでてこないし・・・後、葬儀屋の進行係のニイちゃん態度が気に入らないから通夜の日にしめちゃったし・・・・)反省している私に比べ、オヤジはなんだか全然気にしている様子がありません。あとで母親に聞いたハナシによると今回などまだ
全然マシなほうで一度イトコの葬式のときに袈裟をきて参列し、あげくに坊主の読経にあわせていきなり尺八を吹いたことがあるそうです。あれは死ぬほど恥ずかしかったと母親は教えてくれました。私は喪服に(たまたまエンジニアがなかったのでかわりの)ややウエスタンな茶のブーツに腰チェーン(クロムハーツじゃない)というだけでオヤジにボロクソに言われ、今朝届いたメールにまで非常識であるとシツコク書いてありましたが、私にはなにもいうことはありませんでした。常識など屁みたいなもんだとオヤジ自らがそういってるとしか思えないからです。まあそんなわけで私の親孝行第一弾は終わったわけですが味をしめた両親たちは四十九日にも出てくると言い始めており、暫く頭痛の日々が続きそうです。

 
お引っ越し(9/30)

 

昨日寝ながらふと思いついたんですが、私、引っ越しが大好きでした。

十八のときから一人暮らしを初めて、此の二十年位で、京都烏丸、大阪南河内3回、天王寺、豊中、川口、浅草2回、吉祥寺、みたか、岸和田、みたか、吉祥寺、国立、国分寺、神奈川と、ホントはこの春あたり引っ越したくてウズウズしてたんですが残念ながらいい物件がなくて諦めて、その時貯めてた引っ越し資金で、いまのパワーマックかったんです。
 エエ17回か?おおまかにかぞえれば一年に一回は引っ越してる計算になりますね。実際に、一番長いところでも5年位でひどいのになると1週間なんてのもありました。
 これだけ引っ越しまくるとダブって借りてたようになることも在るんですよ。いまでも時々ユメで魘されたりするんですが、自分がどこに棲んでんだか解らなくなってどこにも帰れなくなったり、あまりにも何軒も平行して借りすぎていて、家賃を払い忘れている家があったりして大変な思いをするのです。
 そんなユメから目覚めた朝は必ず混乱していて自分が今、目を覚ました此の家がちゃんと把握できなかったりします。エ?俺どこにいんの?今?いつなの?俺なにすんだっけ?てな感じなんですが、あんまり他の人はそんな経験ないみたいですね。
仕事もそんな訳でマトモに会社にはいるというのやったことがありません。ボーナスなんてこの年まで見たこともないです。

いつも働いた分だけまあ、おおまかだけど入ってくるような感じなんで、先のこともそんなに考えることができないようです。今、世間は不況であえいでるようですが、日本なんて大体の人間がそれなりの教育を受けることが出来て、病院にもたかが風邪や歯痛程度で誰でも通えて、必要以上に食べることができるようになったのなんて、ほんとこの3〜40年のことなんですから、此の程度なんて事ないと思ってます。まあ確かにというかこの年にしては情けないくらいに貧乏なんでしょうけど。

そんなわけで今お家を募集中です。一時期職人やってメシ食ってたこともあるんでどんなボロい家でもかまいません。

どなたか安い貸家があったら誰か教えて下さい。


(9/29)

 

昨日猿がフランスへ帰りました。

猿というのは私のダチの一人です。
十九歳の時になにを血迷ったか、その頃あまり面識のない私のとこへ突然押し掛け家出をかましてきた男です。まあ十以上年齢差があったので猿には私が信頼できる大人に見えたのかも知れません。(勿論、大きな間違いですが)
当時すでに一浪でしかも並外れてアタマが悪かった此の男はパントマイムに夢を抱く少年(本人の希望による表記)でもありました。でもそんな猿の夢は現実感の塊のような、彼の父親に理解されるわけもなく日夜争いが絶えなかったようです。
遠路はるばるウチに辿り着いた猿の決意は堅く、たとえホモにケツを売るようなことになっても家には帰らないというので、親御さんと連絡をとり暫くウチで預かることにしました。
ただ私は親ではないので養うことはできません。
 その頃やっていた店である程度店番することで二階の空き部屋を貸してやり、それとは別に自分のめしは自分で稼ぐということと、初志貫徹して必ずパントマイムをやり抜くことを条件に猿を迎え入れることにしました。
ウチによく来る
暇なホモの求愛も辛くもかわし、年がら年中私に怒鳴られるのも耐え、セコイバイトに汗水をたらし、パントマイムスクールに通う日々が続きました。
 皆ではじめたバイクのチームでも
万年パシリ状態の辛い生活です。それでも一年程が経ちなんとかカネをため、猿はアメリカへと渡りました。

英語なんて喋れるわけもなく、勿論向こうに知りあいなんているわけもありません。ハリウッドのはずれにあるお世辞にも奇麗とは言えないモーテルで猿は、二十歳の誕生日を迎えたそうです。

そうやってハリウッドをさすらい、彼が師匠と慕っていたパントマイマーになんとかあえることは出来たのですが、かれは既に引退しており猿を受け入れてはくれませんでした。

失望し、一時はおちこんだそうですが、帰りたくてもあまり早く帰るとバイククラブの短気な副長のケリが待っているだけだし、折角きたのになにやら勿体ないと前向きに考え直した猿は取り敢えず喋れるようになるべえと教会の無料英会話スクールへと出かけ、そこで、たまたまで知りあった親切な人たちが只で家を世話してくれたりしたことでビザの有効期限ぎりぎりまでアメリカにいることができました。おかげでそれなりに喋れるようになった猿はアメリカに新しい自分の展望を見つけたらしく、その後はアメリカに自分の金で留学し、ハリウッドで大道芸師をめざしての修業が始まりました。
たまに日本に帰ってくると狂ったように土方をして稼げるだけ稼いで帰っていきます。
そんな年月が二〜三年経過したある日、猿はマルセル、マルソーのワークショップに参加し、惰性化し始めていた自分の生活を悟ったんだそうです。
 猿は突如マルソーのスクールにはいることを決めていました。
もう猿の年齢は受験資格ぎりぎりだったし、フランス語なんて勿論喋れる筈もないのですが、アタマのワルサとそれ故の無謀さを武器にしつつあった猿はいとも気軽に試験を受け、あっさりと合格をはたしました。
 おそらくはその後筆舌に尽くしがたい苦労があったんでしょうが弱音をはくほどのボキャブラリーがなかったのも幸いしたか、トップクラスの成績で卒業できたのです。その報告がてらこっちに帰ってきていたのですが、今回も資金稼ぎだけはかかせませんからひたすら土方をやりまくるなか、合間をぬって、バイククラブのれん中と深酒し、今は大阪で大工の修業をやっているクラブのもと親衛隊長兼色情狂エロガッパ(猿がそういってたよ)と奥様と子供たちに会いにカブで大阪までいくしと忙しい中、きちっと一日店を手伝っていってくれました。
 多分、今日本でなんかやってる連中の比ではなく、当たり前に努力ができるようになったのが猿の一番変わったところで、奴の武器になっているのでしょう。
 奴のいうように相変わらず絡まれやすく、基本はそんなに変わったわけじゃないんだろうけど、ここ二年位特にたくましくなったような気がします。別に何をしてやったわけでもこれから何をしてやれるわけでも在りませんが、ここんとこロクな若いやつを見ないぶん猿には頑張って欲しいものです。

 

 


日本は立派なアメリカの植民地です。(9/28)
私の唯一の趣味はバイクにのって世間様に迷惑をかけることです。

 おかげで貸家にすんでいる癖に後先考えずにバイクを(それも屑鉄にしかみえないような腐ったバイク)次々買ってきては家の前に並べるので家人は言うに及ばず飼っているネコにまでバカにされています。(ここに引っ越してくる前は十五台位いて、でも実働するのはたったの三台でした。)一応仲間達とツーリングクラブめいたものも作り、恐山とか甲府に水晶堀に行ったりとかして遊んでいたのですが、ある日クラブで副長を勤めていた短気な男が仲間内で初めての限定解除をはたし、いきなりハーレーの旧車を購入しました。
 当時大型にのるためには直接試験場にいって試験に合格せねばならず、10回や20回試験場に通うのは当たり前のことになっていました。
 此の短気な男ですら限定解除出来たということでクラブのなかでは限定解除にたいする情熱が一気に燃え上がり一時は全員取得と言うハナシまででたほどでしたが、実際に取得したのは数えるほどのものでした。
 そう、ちょうどその頃限定解除が教習所でも出来るようになるというハナシが聞こえてきたのです。こういうハナシは過去なんどもウワサ話としては聞こえてきましたが今度ばかりはホントのハナシだというのです。
 折しもバブル最後の風が吹いていたころで、若いライダー達の間でやたらハーレーの人気が高まっていた頃でも在りました。
 私は根っからのビンボーということもあって興味があるのは国産の変な旧いバイクに限られていましたので若い連中があのやたらにカネばかりかかる重たいだけが取り柄の不必要に乗りづらいバイクになんで乗りたがるのは今一理解できなかったのですが、それでもやたらに売れ、結果、似合いもしないヒョロヒョロの若造どもがハーレーに跨がっているのを良く見かけるようにようになりました。(短気な副長はその時点であれだけ自慢にしていたオイルが漏れまくるハーレーを叩き売り、カワサキのZ1を買った。)
 ウワサによるとアメリカで売れまくる日本車に業を煮やしたハーレー社が日本政府に圧力をかけ、限定解除制度をなくさせるか、最悪でも取得が教習所で簡単にとれるようにさせるというのです。
 かつてトイジャラスが日本で認可されたのもアメリカ大統領が訪日したときに強引に認めさせたからだというハナシもありましたし、それは結構説得力の在るハナシでした。
 結局日本のライダー達の宿願は叶い教習所で限定解除できるようになったわけですが肝心のハーレーブームはどこかへ消えてしまい、最近はそんなにもみかけなくなってしまいました。
 今回の快挙は確かに当時の沢山の関係諸氏の奮闘努力によるものと理解はしているのですが、かつてあちこちでいろんな闘争に顔を突っ込みウンとヘソを曲げてしまった私としましては「ヤッパ日本ナンだよな」とつい思ってしまうのです。
 そんなことは有りとあらゆるところにウンザリするくらい転がっています。タイトルには植民地なんて書きましたが現実はそれ以前でまずマトモな国家として存在すらしていないんじゃないかとさえ思えてしまいます。
 つまるところはやはり連綿と続く村社会の集合体だというあたりが日本というアジア系多民族集合国家を原点としたこの国の基本的なスタンスなのかもしれません。

 最近はそれが企業体へとすりかわっただけのことで、マトモな村長(ムラオサ)のかわりに強欲な企業主とその仲介役として信じがたいまで道義心のない官僚たちが管理統括為ているとんでもない状態が続いているというわけです。此の状態で私たちが向かう先は誰がなんといっても明るい未来などではありません。
 私よりやや若いかなって感じのダチがいまして、そいつがガキのころ見てた鉄腕アトム(ロボット三原則は守っても、非核三原則をものともしないヒーロー)やら8マン(おっと、こいつも核兵器だぜ)果てはスーパージェッターなんかが描いていた沢山の未来のなかでどう考えても一番悪い未来に向かっているような気がするっていってたけど、それからプリウスの宣伝を見るたびにムカつくようになってしまいました。(勿論手塚治虫が悪い訳じゃないよ、個人的にはあんまり好きじゃないけど。)多分日本人と言う輩は国だとか国家という概念がもともとあんまりないんじゃないか?と最近考えてます。ま、でもこんなこと書き始めるとまたウンと長くなるんでこの辺でやめときます。

 

 

只のよもや話ッス。(9/26)

(しかも楽屋オチです)

実は今年の春位からパソコンを始めたんです。

 その前に(ホントにもうはるかに前のことなんですが)福引きで当てたと言うパソコンを親にもらったことがありました。MSXってやつでカートリッジいれてファミコンのかわりに使う以はベーシックでめちゃめちゃ簡単なプログラムを打ち込んで遊んでいました。

それなりにはたのしかったんですが、やがてファミコンを購入しMSXは押し入れにしまい込まれて忘れられてしまいました。その頃私は今の仕事を始めたばかりでまだ、業界に知り合いなどおらず好き勝手に仕事をこなしておりました。この業界はいわば職業のうば捨て山のようなところがあって、実にいろんな経歴を持った人たちの集まりでもあります。プライドばかりが妙にたかかった私は他人とつるむのを嫌い結構長い間業界で友人を作ることはありませんでした。
 2〜3年ばかりたってようやく業界の右左が見え始めた頃、私はある男と知り合いになりました。背がひょろりと高くどこか調子のいいこの男はそのうち行く先々で顔を会せるようになり世代が近かったことも手伝ってか暫くして個人的に行き来するようになっていました。
 でもしばらくして持病が悪化した彼はこの業界を去り、殆ど何の仕事もしない状態で日本の辺境出身の奥様と東京のはずれで暮らし始めていました。
 たまに持病が悪化すると電話がきて其の度にできるだけ顔をだすようにしていましたが、そばにいても何もできず、自らの無力を思い知らされる日々が続きました。
 彼の生活は普通のレベルから考えれば
貧困の極致でしたが持ってうまれた才覚か、まるで魔法使いのように食べることだけはなんとかなっていました。
 ある日いつものように遊びに行こうとして用意をしていると、たまたましまい込んでいたMSXがでてきました。
 当時彼の家には娯楽設備となるようなものは
トランプすらありませんでしたから、プレゼントすることにして彼の家に持っていってみるとゲームというものを其れまで全く知らなかった2人は殆ど猿オナニー状態ではまり、そのままゲームおたくと化していきました。
 やがて持病もだんだんと治まり、また業界に復帰し、収入が安定するにつれ、ハードもソフトも増えて行ったようです。
 私もゲームは好きでしたが少なくとも彼らのように
収入のあらかたをゲームに注ぎ込むようなまねはできませんでした。
 そのうち世間の景気も彼の頭髪もだんだんと後退をはじめ、私達の業界にもそれまで居なかったタイプの人間たちが参入してくるようになり、だんだんとやりづらくなってきました。
 ところがその景気のなか彼は突然コンピューターを購入したのです。しかもMacだったため他のMacオーナー同様
布教活動まではじめました。
 私もさんざん勧誘されているうちにコンピューターが欲しくなり、その手の会社に勤めていた友人に聞いてみたら太っ腹な友人はポンと
Macポータブルをくれたんですがなにしろ旧すぎました。(目一杯つんでも9MBではちょっと辛すぎる)其れを見兼ねたのか彼はパフォマー630をどこからか見つけてきてくれました。おかげで今はすっかりコンピューターにはまりホームページまで開設することができました。これも全て彼の奥様の指導の賜物でございます。
 事のはじまりは福引きであたったMSXだったのがなんだかんだでMac7600までいったわけですからなんだかよくわからないけどスゴイことになってるような気がします。
 私達のまわりではこの話を彼のすっかり少なくなった頭髪とひっかけて、
ツルの恩返しと呼んでますが世話になりっぱなしのこの夫婦にいまだになんの恩も返していないのは私のほうです。たまに彼らの好物のたこ焼きナンかを焼いてお茶を濁している今日この頃です。

 


日々の覚え書き(9/17)

 

ぼくは仕事がきらいです。

だからこれまでいかに仕事というものとかかわり合いにならずに生きていけるかをずっと考えながら生きてきました。

一番ひどい頃は年間二十日間しか働いていなかった時期もあります。このときはまだオクサンやコドモがいたので本来ならやっていけるわけないのですが家族一丸となってナマケモノと化しやり過ごしていました。盆と正月にそれぞれ10日づつ働いて後は日がな家でゴロゴロしてましたから御近所の人たちはさぞ胡散臭かったでしょうがそこはそれフリーのモデルとカメラマンだからと全く自らを顧みないおおウソをついて誤摩化してました。
でもさすがにそこまでヒマだとホントに退屈です。毎日深夜3時位までゲームとかして起きてて、夕方4時位に起床。全員でずるずると駅前のスーパーで買い物をしつつ夕飯は其のスーパーの食堂ですまします。家に辿り着くともう8時位になってますから、まあ、1日の過ぎるのがはやいはやい。
其の頃となりに何故かホモが住んでたんですがこいつも徹底的に働かないヤツでしたからたまに早起きすると一緒に駅前の放置自転車をガメテきて改造して遊んでました。
よく遊びにきてたダチなんかにこの改造チャリをかしてやると大体はポリに捕まって没収されてしまうのでこの遊びは比較的長く続けることができました。
そのホモを含めて当時はマトモに働いてるやつがまわりにいませんでした。みんなごろごろして仕事してませんでした。どうやって食えてるのか不思議でしたがみなそれぞれにワザがあるらしくそのあたりはお互い詮索しないというのが暗黙の了解になっていました。
なかに1人バカがいて毎朝、毎夕必ずいなくなる。此のバカに仕事なにやってるのか聞いたら経済関係に絡む仕事だっていうから、
総会屋か?ってハナシになってたんですが、バレてみれば新聞配達で日本経済新聞配ってたんですね。以来他人のそういうハナシはあまり詮索しなくなりました。(まあでもこのバカそれから2年後には麻薬で刑務所に入って、でてきたハナを今度はヤクザに追われ1年位逃げまくってましたがその後どうなったかは、知りません。)あれからもう大分たち、オクサンもコドモもどこかへ消えてしまいましたが、僕といえば相変わらずで今でも月に3〜4日くらいしか働いていません。

いろいろ仕事を変えてみて、ま、いまのが適度に忙しくていい感じかなと思っています。そんなわけで僕は相変わらず貧乏ですが当時の仲間たちはというとやっぱり貧乏なようです。たまに在る程度有名になったやつもいるんですがそいつらは結構忙しいようでなんだか見るも無残なくらい必死で働いてます。でもまあ仕事と名が付けばやりたくなくなるのはこれはもう天性のものなんで死ぬまできっとこのペースでいくんでしょうね。      by muhoumono(man)


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