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客家の円居



1996/04/08
朝6時半というキョーイ的な時間のバスで永定へ向かう。しかhし、6時半に我々が乗り込んだバスは我々を含めて3人しか客がおらず、結局バスは客を求めて市内をゆっくり流して回り、廈門を離れたのは一時間後のことであった。

大きなバスではなく、マイクロバスの老爺車。めっちゃトロイ。しかも地図で見て予想していた最短距離を取る道は走らないらしい。南請から河を渡って山道へ、とたんにタイヤがパ〜ンク。30分かけて修理したのち、なんと舗装されていない道を走り出したではないの。お尻、痛いよう。

こんな道、地図にも乗ってない。舗装もされていない道をこんなに長距離移動するなんて・・・

相棒は前に座っているおっちゃんにバスの行き先を確認した。その人は永定に帰る人で、なんと68年に鼓浪嶼から永定に下放され、現地の女性と家庭を持って、永定に定住したのだそうだ。下放当時は発電所の技師だったという。都市戸籍を持つものが農村戸籍所持者と結婚すると、両名共に農村戸籍所持者となるのが普通だそうだから、この人はおそらくそのケースなのだろう、とは相棒の推測。ちなみに相棒と話すとき、このおじさんは完璧な鼓浪嶼語を話したそうだ。

相棒の伯父一人、叔母ふたりも永定に下放されたことがある。永定は客家語の土地。当時は普通語もほとんど通じず、非常な苦労をしたそうだ。

さて、わたしが永定に行きたかったのは、客家の円居を見たかったため。小規模のものは各地にあるが、永定のは直径50メートル、4階だて、壁の厚さ90センチ、見事なサイズである。これほど見事なものは数えるほどしかないのだろうと思っていたら、あるわあるわ、山道にはいるなりあっちにもこっちにも奇怪な円形の大型建造物がぼかすか建っている。これを見に来た私も、もうええわ!というぐらいあった。









円居の写真一枚目から3枚目までは絵ハガキである。3枚めは魚眼レンズで内部を撮ったもの。













アメリカの軍事衛星が、この完璧に円形で中空の建造物を上空から撮影、ペンタゴンが最初、軍事的な建造物だと判断したというウワサは本当だろうか。出来すぎかな。













夕方4時、永定到着。へとへとである。政府招待所では我々が婚姻証明を持っていないというので同室を拒否、こんなこともあろうかと香港の婚姻証明を見せるも、誰も英語が読めず、菊の御紋のパスポートを盾にねばりにねばって、やっと一室をとることができた。

簡単に食事をとり、7時に就寝。翌日7時までツェツェバエにさされたように眠る。


1996/04/09
客家の円居は、現地では土楼と呼ばれていた。私は知らなかったのだが正方形のものも多く、どちらにせよ外敵の進入を防ぐため、小さな入り口が一個所あるのみで、窓もすべてかなり上部に小さく開けられているのみである。これらは小規模ものも含めると2万楼ほどもあるのだそうだ。










ヒッチでトラックに乗せてもらい、岐嶺−湖坑を経由して地元で一番有名な「賑成楼」を見学に行く。入場料10元。(外国人は30元 ) 「賑成楼」では、内部にもう一つ円形の住居があり、さらに中心には共通の祖先を祭る祭祀堂があった。基本的に、一つの建物に住むのはすべて同族である。

内部は魚眼レンズでなければとても全体を写しきれない。








鳥小屋の扉に貼ってあった春聯。
「鶏も家鴨も群れを成しますように」














さらにヒッチで胡文虎(タイガーバーム社の創始者)の実家を見に行く。なかなか悪趣味な記念館が建っていた。
私は胡文虎は極貧の生まれで、シンガポールに出稼ぎに出た後たいへんな苦労をして薬屋を始め、阿片のくずを混ぜた萬金油が大ヒットして一躍大富豪・・・と勝手に思っていたのであるが、全然違ってた。実は胡文虎はビルマ生まれで、父は中国南部から南洋にかけて各地に店を構える薬商。胡文虎がシンガポールへわたったのは、父親の店のシンガポール支店を任されたためであった。記念館で父祖の写真や胡文虎自身の幼少時代の写真を見ると、どうしてなかなかのお金持ちである。ふーん、そうだったのかという感じ。ちなみに弟の名は胡文豹。

なんか見るからにお金持ちぽいっすね。しかしハイソックス・・・

それにしても胡文虎実家、バスもトラックも通らないド田舎なので、来たはよいが帰れない。このままでは山道を8キロぐらい歩いてトラックが拾える道に出るしかない。・・・と悩んでいると、ちょうど折よくオートバイが走ってきた。交渉し、3人乗りで下洋まで連れていってもらうことにする。

さて、下洋からバスで龍岩へ、相棒によると、特に見所の無い街だそうなので一泊して素通り。本日はやたらめったら疲れた。






1996/04/10
章州行きのバスもおんぼろだった。章州は水仙で有名な街だが、もちろん今はその季節ではない。(花は暮れから旧正月にかけて)

非常にいい感じの旧市街があり、ゆっくり歩いて流すのはいい気分だ。この辺も廈門t同じで、人々は道端に小さな机と椅子を出して功夫茶を楽しんでいる。功夫茶とはお茶の飲みかたの一種で、小さな急須と湯飲みのセット(こげ茶の素焼きの物が多い)でちびちびお茶を飲みながら、おしゃべりを楽しみ、ゆっくり時を過ごすもの。広東の「飲茶」は点心に重点があって、むしろ茶がオマケのような気もするが、こちらは純粋にお茶のみ。ほんの少ししか飲まないので、お茶はいいものを使う。

湯飲みは杯のように小さく、日本の杯ほど。たとえ一人でも二人でも、必ず3つ以上の湯飲みにお茶を入れる。一煎目は間髪入れずに捨て、冷たくなったお茶も惜しげもなく受け盆に捨てる。

駄菓子屋の店先に並んでいたお面。孫悟空が二つも有るのが中国っぽいし、ミッキーマウスと包青天が並んでいるのが時代を感じさせる。

章州の輪タクの運転手(というか漕ぎ手)はみなレモンイエローのベストを着ている。聞くと、2着で70元。着用を義務付けられているのだそうだ。70元って、大金である。だって1キロ漕いで2元とかそこらなのに。

車はすべて政府からの借り物で、借り賃は月100元。(ちなみに中国では200元もあれば新品の自転車が買えるはず。) ベストを借りて自転車の借り賃払ったら、手元にはなんぼほど残るのだろう?

老舎の描いた「駱駝祥子」の世界そのままである。資本家が共産党に替わっているだけ。

バスで廈門に帰った。


1996/04/11
本日は集美へ行く。廈門は実は大きな島で(雅名を鷺島という) 、2本ある廈門大橋で大陸側の集美とつながっている。

集美はマレーシアのゴム王陳嘉 の出身地で、彼が建てた一大教育施設群で有名なところである。一応「集美中学」という名ではあるが、幼稚園から大学、水産大学、語学大学、華僑大学、などなどすべてそろっている。ちなみに廈門大学建学の費用もこのひとに負うところが大きい。

陳嘉 は弟・妻とともに中国への新教育の普及に力を注ぎ、福建省には彼の建てた学校が数え切れないほどあるそうだ。福建・広東人はこういう事にたいそう熱心だが、上海人はそうでもないらしい。上海人がケチだと言われる理由のひとつである。陳嘉 はその事業に財産と遺産を費やし、子孫に美田を残さなかったらしく、彼の子孫がどこでなにをしているかはわからない。


1996/04/12
廈門観光再びの日。私のリクエストと相棒の郷愁で、動物園に行くこととなった。動物園は中山公園の中にあった。相棒の記憶よりずいぶん小さいそうだ。そんなもんやって。

動物園は確かに小規模で、ゾウもキリンもパンダもなし。カバがいた。熊と虎と狼もいた。サルの種類がなかなか多く、楽しかった、特に仔ザル。寒い日だったので、4匹の仔ザルがぴったり体をくっつけ合ってじっとしているのが、とくにかわいらしい。

ダチョウに似た鳥もいた。エミュか? ダチョウは漢字では駝鳥だが、横の檻に駱駝がいたのは、ひょっとしてシャレだろうか。

相棒、動物園を出たとこの西門で超おいしい(本人談)土筍凍を発見、何皿も食う。


1996/04/13
1996/04/13 杭州行きのチケットはどこで買えるのかと聞いただけで、叔父さんが4時間も並んで取ってきてくれた。本当にすみません。

叔母さん一家は3人でホームまで見送ってくれた。私たちが泊まってた一週間、相棒のイトコは居間のソファで寝てたのである。ほんとにありがとう。

さてさて、硬臥は乗ってうんざり向かいが子ども連れ、しかも3人。以前に南寧から広州まで乗ったとき、母親が子どもに床で大便をさせたことをすかさず思い出し、気分が暗くなる。今回のは推定4歳・2歳・生まれたて。上二人は女の子、下はどうやら男の子の様である。

しかし子ども3人というのは少数民族でもないかぎり犯罪なのだがなあ。相棒の推測;上の二人が女の子だったので、3人目を生みによそへ逃げていたのでは?

余談だが、廈門では、夫婦の年齢合計何歳か以上の夫婦については、申請すればある期間中に子どもをうんでもいい許可が下りるので、その期間にちょうど出産できるよう十月十日計算して、 夫婦でせっせと仕込むのだそうだ。 悲劇の究極は喜劇だと言う点で、ジョージ・オーウェルまっつぁおである。

で、思ったとおり、うるさくてこっちが泣きそうだった。上の女の子はあちこち動き回るたびに私や相棒の足を踏むし、生まれたての子は四六時中泣きっぱなし。泣き止ませるために母親がおっぱいを含ませると、下の女の子はそれまで自分専用だったおかあちゃんのおっぱいを人に取られたのを見て火がついたように泣き出すし、それをみたおとうちゃんは娘のうしろあたまを手加減無しにはりとばして怒鳴りつけるし・・・いやはや戦場のようであった。

なによりツラかったのは、至近距離でしょっちゅうおむつ紙(なんかごわごわの紙。おしり大丈夫か?)を替えるのだが、使用後のそれをそのまま共用のテーブルの上に置くのだ・・・頼むから床に置いてくれい・・・

結局、食欲がわかず、サツマイモを干したおやつをかじって眠る。


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