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【今回のあらすじ】廈門とその周辺。ひっとこともわからん広東語世界にオサラバできたとおもったら、さらにわからん廈門語世界に突入。 1996/04/01 ![]() 何枚か写真を撮る。相棒の5番目の叔母のご主人が我々を出迎えに来ていた。白鷺賓館へとチェックイン。シャワーを浴びて、叔母さんの家へご挨拶に行く。4人で食事に行く。帰ると相棒のイトコが仕事から帰ってきた。相棒が香港へ移民したときには小学生だったというが、今では立派な男性である。つーか、私と同い年。 しかしなんだこれは。旅行じゃないのか。これでは嫁ぎ先の実家に帰省モード炸裂ではないのか。しかも、ひとっこともわからん広東語の世界にオサラバできたかと思ったら、これではひとっこともわからん廈門語の世界突入ではないか。話がちがう。 白鷺賓館、キレイだが250元で我々には高すぎる。(<やつあたり) 午後、廈門の街を散策。中山路と思明路は洋館が多く、不思議なところだった。静かで清潔な上海という感じもする。しかしやはり上海・広州といった大都会と比較すると小さな都市だけあって、近隣からの流入人口が少ないのだろう、見たところ貧富の差があまり感じられないし、治安もよさそうだ。物乞いの数も少ない。 夕食は輪渡(対岸の島へのフェリー乗り場)のある、めっちゃ見晴らしのよい「必勝客」(ピザハット)で食べた。外人のヨメでごめんな。ピザ・スパゲティ。コーラ二つで63元と高級レストラン並み。 1996/04/02 やはり250元は我々には高すぎる、ということで、相棒の叔母さんのうちにごやっかいに。実家へ帰省モードますます炸裂。 日本の団地そっくりの4階建てで、日本と違うのはやはり椅子生活だけあって天井が高いこと。香港の感覚でいうと大きなリビングに、寝室が二つ、台所とトイレ・シャワーにベランダ付き。まずまずうらやましいお宅ですなあ。(くすん・・・) 荷物を置いて観光へ。バスで南普陀寺へ。山の中腹に段々に並ぶ寺はとても見事である。精進料理を食べたが、これも見事なお味であった。それから華僑博物館へ行く。たいそう立派な洋館で、もともと何か由緒ある建物だったのだろう。 ![]() 輪渡から座席の無いフェリーで5分。鼓浪嶼はすっかり観光名所となっているようで、相棒はびっくりである。 ![]() ![]() 「ワシは廈門で死ぬのじゃぁ」と言って香港から廈門に帰ってきたおばあちゃんは、相棒の生家に長男・次男夫妻と住んでいた。実家は最近立て替えたのでとってもキレイ。三階だて屋上付き。床なんかピカピカの花崗岩張りである。(南タイの華僑のウチで見たやつといっしょや。)各階に独立しており、一階なんか住む人がいないというありさまであった。思ったより立派なんでびっくりだ。写真は相棒んちではない。念のため。 1階においてある酸枝と大理石の椅子セットは、100年モノの骨董だそうである。相棒は子どものころ、よくこの椅子の上でうたた寝をしたそうだ。私にはヨダレのでそうな家具であるが、相棒の一の伯父・二の伯父夫妻にはそういうシュミはないらしく、彼らの居間にはそれぞれピカピカの応接セットが置いてあった。 1996/04/03 シ眉(さんずいに眉)州島へ行く。「女馬(女偏に馬)祖」、別名「天后」の生誕地と言われているところである。まず、バスターミナルで11時20分発「蒲(蒲のさんずい無し)田」行きのチケットを買ったのだが、このバスが廈門を離れたのが1時ときたもんだ。 けっきょく蒲田に着いたのが5時半。ここで乗り換えて文甲という港町から船で島へ向かうはずが、最後の船が5時半なのでもう乗れない。あきらめて蒲田で一泊することに。 夕方、外出しようにも雨がざあざあ降り、さんざんな一日であった。ここの方言は、もはや相棒には全く聞き取れないという。ビン(門構えに虫)南語には広東語のような広がりはないらしい。 1996/04/04 ![]() お香と紙幣(燃やすもの)を買って、熱心にお祈り(主に相棒)。相棒はなんとも気前よくお賽銭を入れていた。相棒いわく、「天后は航海・旅の神様だから、俺様の守護神なのだ!」 へいへいそうですか。「しかも天后は3月23日生まれだ!」 ううむ、それって私の誕生日やん。「つまりオマエは天后が俺様に与えてくれた旅と人生のパートナーなのだ!」 ・・・そうやったんかい。わしに何の断りもなく。 船とバスを乗り継いで蒲田に帰り、そこからバスで泉州へ向かった。元代にはザイトンと呼ばれた世界最大の貿易港であった街で、イスラム教やゾロアスター教の遺跡が残ることでも有名だ。本日はここで一泊。 (追記)泉州のゾロアスター教遺跡についてお問い合わせがあり、改めてちゃんと調べたらゾロアスター教遺跡ではなくマニ教遺跡であった。訂正いたします。 (ここや ここなどをご参照のこと。) 1996/04/05 昨夜の夕食と本日の朝食は雲南から出稼ぎに来ている耳の聞こえない男性の店で食べた。安くておいしくて、しかも清潔!この人は建水の出身で、もう5年、泉州で働いているという。建州行ったことあるよ、朝陽楼が有名な町でしょう?などと筆談を交わす。 さて朝食後、散策。大きな建物があったのでとりあえず入ってみる。孔子廟だった。居間は小学校として利用されている。宋代の建立だそうだ。日本だったら重文指定でもおかしくないが・・・ ![]() 猿神はインド叙事詩「ラーマーヤナ」に搭乗する神様で、これが商人たちによって中国にもたらされ、孫悟空のモデルとなったというのが中野教授の説。 少林寺にも行ってみた。清代に反清活動の拠点となったため、キレイさっぱり焼き払われており、小さな御堂が残っているだけだった。湖南の北少林寺とはおおちがいだ。(一般的に少林寺と言えばこの北少林寺) 李連杰のクンフー映画「洪 官」(子連れ狼みたいな設定の話)の冒頭は、確かこの泉州南少林寺焼き討ちのエピソードであったはず。 ![]() 泉州の天后宮にお参り。台湾最大の天后宮、鹿港のはここから勧請したはず。廈門へ帰還。しかし、ちょこまかしいの相棒のペースで動いたため、私はヘトヘト。お風呂に入ったはいいけれど、たちの悪い風邪をひいたらしく、セーターを着て靴下はいて、ふとん+毛布2枚着て寝てるというのに寒くて寒くてしょうがない。体もだるくて死にそう。しかし不思議なことに、熱はまったくないのであった。苦しい夜であった。 1996/04/06 起床。体の節々が痛くて死にそう。出発から一週間も立たないうちにダウンか? お腹が痛くていたくて、フラフラである。とりあえず征露丸を5つ飲んでみた。それからまた3つ飲んでみた。さらに2つ飲んでみた。どうも食欲がわかない。(あたりまえ) また1つ飲んでみた。 どうにもならんので、作戦を変えて風邪薬と抗生物質を飲んでみた。うーうーうなっていると、みなが医者へ行け行けという。あまりにツライのでタクシーで中山医院へ。昭和大付属病院で一年間の研修を終えたばかりだという若い医者が、錠剤を3種と、水薬を一種出してくれた。 大量に薬を飲んだので、無性に眠くなり、眠る。3時間ほどで起床。体調は全快していた。いったいどのクスリが効いたのか? 直ったといってもだれも信用してくれず、病人扱いをされて白粥を食せらる。圧力釜で大量に炊いた白粥、おーいしい! 本日は下雨天、休息天。(雨が降っているので休息日とする。) 1996/04/07 起床。「好清香酒楼」という、廈門では有名な福建料理屋へ行く。一階が小吃、二階がレストランになっている。私は下の方でよかったのだが、相棒がとんとんとんと二階へあがる。なんと二階は広東菜。廈門でモヒトツの点心を食べて不機嫌な我々であった。 食後、あんまり暑いんで半袖に着替えにもどったところ、ちょうど相棒のイトコが起きてきたので、そのまま叔父さん叔母さん入れて5人で昼食に出る。オナカ、いっぱいやがな。 昼食後は我々とイトコで廈門市内観光に出かけた。 まず、湖里山砲台という、金門・大担などの台湾領の島々が見える小高い丘に上った。ガイドブックには「一人一分一元の望遠鏡が大人気。ピントを合わせてもらうと、台湾領のスローガン「三民主義・祖国統一」が見える」とあったが、それってやっぱりまずかったらしく(笑)、望遠鏡は撤去されていた。 しかし大砲は見事なものだった。全長13.9メートル。1891年の建造のドイツ製で、口径280ミリ、重量60トン、購入時の価格は6万両(テール)であったという。 次に南普陀山寺へ。達磨大師が手足が腐り落ちるまで瞑想にふけったのはここと書いてあるが、ヨソでもそういう説明見たような気がするな。布袋和尚と同じく実在の人物なのだろうとは思うが、伝奇的だ。 本日は天気がよく、寺の後ろの山に登ることにする。山は全体が大きな岩山で、名前は「万石山」そのままである。中国人好みの奇観であった。相棒はもちろん健康、イトコは毎朝5キロばかり走っているそうで、もちろん健康。彼らには山登りは楽しかっただろうが、病み上がりの私にはしんどかった・・・ 万石山の向こう側は万石公園であり、南普陀山寺から山を越えて公園側へ降りてゆくと、立て札があった。「この山、外国人立ち入り禁止」。立て札は公園の方を向いていた。 立ち入り禁止もなにも、禁止されている方の側から公園へ降りてきたのであって、いくら順法精神あふれるわしでも仕方が無い。 日曜の万石公園は人でいっぱいだった。90年に、私が最初に来たころに比べると、人々の様子は格段に違って見える。考えてみれば、タクシーがみなメーター制になったこと、バスや電話で磁気カードがつかえること、一般家庭のトイレが西洋式の水洗で、台所や湯沸かしのガスは、香港ではあんまり普及していない天然ガスだったこと、などなど、大変な速さの進歩だ。 夕食は、鷺江賓館という、上海で言えば和平飯店のようなホテルの最上階にあるレストランへ。港に面しているので、鼓浪嶼がよく見渡せる。 福建菜は油を余り使わないところや、煮込み料理が多いこと、海の幸を多用するところなどが日本料理によく似ていて、私の口によく合う。特に、こんぶやワカメのつきだしなど、ばつぐん。 この日、生まれてはじめて兎肉を食す。鶏肉と似ている。生前の姿を思いうかべてみると、かわいそうで喉を通りにくくなるが、食べた。相棒は豚の大腸をほくほく食べている。 |