[NEXT] : [SKIP] : [TOP] : [UP] ::: [SF] : [HOB] : [PROF] : [TOOL] ::: [LINK]


HAYAKAWA's beautiful girls Project No.01

<<早川美少女計画 1>>

一億総ハヤカワ化計画分室
原案・未谷おと  監督・一歩


ヴァーチャル・ガール
Virtual Girl
エイミー・トムスン
Amy Thomson
1994年発行 1993

[Virtual Girl](sf1079) カバー・末弥 純
訳者・田中一江 / Kazue Tanaka
ISBN・011079-4
94年度:ジョン・W・キャンベル記念賞
95年5月1日〜5日,8日〜12日 22:45〜23:00
NHK−FM:ラジオ・ドラマ『青春アドベンチャー』で放送
 金色がかった栗色の髪に、左右色違いの大きな瞳が印象的な美少女マギー。
 彼女はコンピュータの天才アーノルドが自らの伴侶にしようと作りあげたロボットだった。人間と変わらぬ優しい心を持つマギーだが、人工知能の開発が禁じられている今、正体がばれれば即座に破壊されてしまう。かくして二人は追跡の手を逃れ、波乱に満ちた放浪の旅に出た……純真なロボット少女の成長と冒険を描く、スリリングで心あたたまる物語!
<初刷カバー裏解説ヨリ>


ヴァーチャル・ガール
[publish]
西方猫耳教会
・97年6月発行
一歩・98年3月電子化
目次
  1. To Virtual Girl 『本質的な少女』へ
  2. 悪魔〔電気〕の尻尾〔コード〕を持つ天使〔カノジョ〕  又は
    貴方〔ヲタク〕に捧げるいけにえ〔サクリファイス〕
  3. ラジオドラマを酷評する
  4. 編集後記
[title]



To Virtual Girl 『本質的な少女』へ
By 一歩


 始めての出会いは、下宿近くの本屋だった。末弥 純 さんの挿絵に誘われた。おりしも、世間は仮想現実〔ヴァーチャル・リアリティ〕ブーム。なんだ、よくあるタイプの電脳空間ネタか、とタイトルをのぞき込んだ後に背表紙の粗筋を読み、快い裏切りの感覚をモノにしたのを覚えている。違う、仮想空間モノじゃない、俺の好きな「ロボットもの」だ。だけど、私はその本に背を向けた。……お金がなかったのだ。だがその時既に、私の想像力の中で、この話は名作であると決定されていた。

 「ロボット」と言われて、諸氏は何を思うだろうか。 「マジンガーZ」 やゲーム 「スーパーロボット大戦」 に代表される様なヒーローロボット?
 「ガンダム」 に代表される様な、量産型リアルタイプロボット?
 I.アシモフ に代表される様な、SFの中で葛藤を繰り返す、「人工知能」なロボット?
 おっと、最近じゃあ、この現実世界の中で働く、もうすぐ自意識を持つ(と私は信じている)産業用、又は研究用のロボットもあるな。なんにしろ、この4つのうちのいずれかだろう。私にとっては、やはりロボットは「人工知能」と反射的に答えてしまう。
 人工知能テーマは偉大だ。
フランケンシュタイン・コンプレックス に端を発するというが、今世のSFと現実に、既に欠かせぬ要素となっている。苦悩し、親(人)と並ぼうと、あるいは越えようとする存在。奉仕を使命として、人の生活の根底を支える存在。そこには安易な「友」の一言では語りつくせぬモノがある。必然、百万の意味を込めた「友」と、口を突いて出てしまう。

 二度目の出会いは、カセットテープだった。
ラジオドラマ になっていたのだ。人を拝み倒して貸して貰い、どきどきしながらデッキに入れた。オープニング・テーマから痺れた。少々想像と異なっていたが、やはり名作だった。

 さて、上述の思いに嘘偽りは無いが、それに加えて、マギーには考えさせられた。彼女は「鏡」なのだ。これは、上に書いた様なロボットの定義を少し越えていた。いや、人という種族の、人間の「社会」の「鏡」であるロボットは、考えてみればよく居た。だが、「私」個人を映し出す「鏡」なロボットを覗き込んだのは、これが初めての経験だと思う。
 アーノルドにより「彼女」として作られた違法 A.I.、マギー。そう作られた彼女は、ひたむきにアーノルドに愛を向け、そしてアーノルドはいいだけマギーを振り回す。そう、情けない奴と思いつつも、私はアーノルドに自分を重ねてしまうのだ。そして、澄んだマギーの瞳に映る自分を見て、あるいは笑い、あるいは突と胸をつかれる。そんな情けない自分に怒り、そんな自分を変わらず愛してくれるマギーに礼を言いたくなる。そして、自分を見失うな、と自分を戒める。
 ヴァーチャルという単語には、仮想的、という意味の他、実質的、本質的という意味がある。全く相反してる様で、なんだか納得する話である。
 美しく、又、醜く、男の中にある理想の女性像を描き出した、私にとって「本当の少女」、マギー。男なら、誰にとってもそうなのではないだろうか。そして、女性にとっても、おそらく、自分の中の奥に居る「本当の少女」として。

 そして今、私は三度目の出会いをためらっている。いつもいきつけの本屋に行っては、その本の存在を確認し、手にとり、表紙を見つめてから、買うのを止めて家に帰る。私の中に根付いたイメージを壊されたくないのだ。そして、でも、新たなマギーとの出会いをしてみたいのだ。二つの心の葛藤は、いつしか衝動的にあの本をレジに持っていく事で決着がつくだろう。
 その日を楽しみにしている。さて、何処まで我慢できるかな。



 悪魔〔電気〕の尻尾〔コード〕を持つ天使〔カノジョ〕
  又は
 貴方〔ヲタク〕に捧げるいけにえ〔サクリファイス〕
By 一歩


 だっはっは。そんな事言った舌の根も乾かぬうちに、買って読んじゃったよ、おい。
 昨日。いつも行きつけの本屋の所定の場所から、かの本が消えていたんです。そこで俺は初めて気づいたね、早く買っておかないと、二度と手に入らなくなるかも知れない。いや、多分無いだろうけど、最近の出版業界の状況じゃあ、絶対に無いとは言えない。とにかく本が消耗品扱いで、ぐるぐる回されていますからね。つい先月発売だったはずの書籍が、今月になるともう店頭から消えている。
 やばいと思った俺の反応は素早かった。夜も遅くの学校帰り、棚の前から即きびすを返してバイクに跨り国道を走る。見つけた本屋にかたっぱしから突入して、早川SFの棚を漁る。無いとなるとすぐに又バイクに飛び乗る。
 蛍の光が流れる閉店間際の××書店でようやくゲット。閉まりかけのシャッターをくぐって外に出て、ようやく落ち着きを取り戻したのでした。
 何をそんなに急ぐ必要があったんでしょうねえ。謎。

 読みだして思ったのは、アーノルドのヲタクぶり。もう、笑っちゃいましたね。ラジオドラマでは様々な部分がはしょられ、又、ラジオならではの膨らませられ方で脚色されていたので、小説を読むにつれて色々と新しい発見があったのだけれど、中でもラジオで取れなかった事の一つがこれ。
 ラジオじゃあ、涼やかな声優さんがアーノルドをあててたから、あんなデブだとは思っていなかった。マギーの素体が、ほとんどを廃品回収から作っているというのも新発見で、まさに趣味人の真骨頂を味あわせて貰いました。
 これを書いたエイミー・トムスンという人は、もともとが海の向う〔アメリカ〕のコンベンションだとか、SFファンの集いだとかで一波乱も二波乱も巻き起こしてる様な、企画の中心人物だとか。まあこれは、出所も怪しい情報なので、どの辺まで本当なのかよく判らないのだけれど。でも、そんな噂を納得してしまう味付けでしたね。ディープなファンらしいギミックの使い方と言うか、なんと言うか。内輪受けなフィーリングを、ごく普通に巻き散らしちゃう様な所。

 ラジオの方が優れているな、と思った点は、ヒロイン・マギーの感情の描写。やはり、声の持つ感情伝達性能というのは侮れない。文章を読みながらも、声優さんの声が頭に響きます。また、それを生かす様に構成もなっていたので、その辺りは、原作(文章)の方がやぼったく感じました。ラジオ聞いて、おいらは何度か涙ぐんでいたからねえ。

 逆に文章の方が優れていた点は、やはり圧倒的なエピソードの多さの違いでしょう。ホームレスの生活とは、というのを、原作(文庫)は非常に丁寧に描写して行きます。これがそういう人達の中で、ハウツー本として持たれていても俺は不思議に思わない。また、小さい、とても小さい、ロボットと人間との日常。その時々で彼女がどう感じ、行動したのかという描写。

 ラジオではごっそりと削られていた、自分の影〔セキュリティ・プログラム〕との闘いというのも興味深い。自分の中の自分、これは人間ものでも多いテーマであり、多重人格というネタでも書かれている。(余談。ダニエル・キイスという人の 「アルジャーノンに花束を」 は必読。同じ人の 「5番目のサリー」 なども多重人格ものとしてデフォルトでしょう。読む機会があれば楽しんで下さい。)機械でこれをした事で、更に綺麗にこのテーマは浮き彫りにされた気がする。「人」を考える上で、ここでも又マギーは「鏡」であった。あ、鏡というテーマ、文庫読むとしっかりと組まれていて、俺は自分の予知能力に感心しちゃいましたよ。

 もう一つ削られていたものに、性の遍歴、というのがある。まあ、これについては伏せておこう。俺もアーノルドと同じぐらいウブだからして。……誰だよ、ヤジを飛ばす奴は。黙ってろ、いいじゃん。とにかく、人のやる事なす事大抵がスケベに関わるとあって、それを理解出来ないマギーが、ああでもない、こうでもないと悩むというか、不思議がる様は、正しく「鏡に自分を見て笑う」な感覚を強く覚えた一面でした。

 後はねえ、尻尾。ラジオでは「コンセント」としか言われてなかったんだけど、これが、原作(文章)を読むに、どうも、動力付フレキシブルワイヤーになってるらしい。つまり、手でコンセントに指すのでなく、うにうにとコードが勝手に伸びてきて、自分でコンセントにスコッと差さる。しかも、コードの根元は背骨の付け根、って、あんたそれ尻か尻の上ぐらいじゃん。巻き取り式で、肌の下に畳み込めるとかある、つまり、隠せる様になってるって言うけど。
 どう考えてみても、悪魔の尻尾。そう、訂正、小悪魔の尻尾。可愛い、左右で瞳の色の違う小柄な女の子のお尻に、ぴこぴこと動く黒い紐。ほうら、やっぱりどう見てもコードじゃなくて尻尾じゃん……う、か、可愛い。
 なんて思っちゃう辺り、俺ももう社会復帰は諦めなきゃ駄目かな? ま、冗談(冗談か?)はおいといて。こういう風なギミックの使い方、ウケの取り方が、さすがエイミーをたっきーとかって俺が言ってしまう根拠な訳で。わざわざはまる俺も俺だけどさ。
 おっと、時間だ。最近はとかく日常が忙しい。話してるといつまでもネタはつきないが、今日はこれで失礼させて貰うです。さて、とっととアレとアレを片付けなきゃ。あ〜あ、寂しいよなあ。こんな時になあ、マギーが居てくれればなあ。



ラジオドラマを酷評する
By 未谷おと


 ラジオドラマは95年5月にNHK−FMから放送された。私は「一歩」氏に頼み込んでコピーさせてもらうことが出来た。ありがたい。
 さて、ラジオドラマの始まりはマギーが本体に転送されるところからである。電子音の高鳴りと共にマギーは目覚める。ラジオ独自の構成の為か、ここでマギーはアーノルドを認識する。そして原作にもあった情報量の過多−−色彩、形状、音声を認識し次に匂いもそうする。
 そう、ラジオのマギーは匂い(或いは臭いとするべきか)を認識できるのである。
 それから、アーノルドの経歴と世界の説明が行われる。そこまでは問題ない。私が最悪だと感じるのはマギーの話し方である。古いアニメに登場するコンピュータの口調と言えば分かって貰えるだろうか。抑揚を抑えた平べったい、8ビットパソコンでPCMを用いたようなくぐもった声なのだ。これでは余りにも紋切り型すぎはしないだろうか。いくらコンピュータとはいえ、話し方にも工夫が必要だろう。ましてやテクノロジーの発達した世界なのだから完璧に近い音声合成装置ぐらいは出来ていることだろうし。マギーの認識レベルとアーノルドのヲタクぶりを見れば、もう一工夫できたはずである。演出家の固い頭が目に浮かぶようである。
 ところでラジオでのマギー(以下「ラジオ・マギー」と略す)はストレスレベルを持っているらしい。より人間味のあるキャラクターにしたかったのだろう。音声メディアでの放送なのだから、感情の起伏を付けなければならないと考えたのか。もちろん、脚本家の手抜きにも役には立つ。たとえば、ストレス(どんなプログラムなんだろう?)のおかげかマギーは自分から外に出たがる。原作ではアーノルドから声をかけた処だ。積極性は主人公に必要不可欠なものなのだ(今、テープを聞いていて驚いたがマギーには味覚があるらしい。すばらしい!)。
 原作で起こった情報過多によるソフトウェアの混乱はマリオの店(ピザを売っていた店だ)を出た処で発生する。マギーは雨や道路の状況から連鎖的に引き出された情報により論理崩壊に陥る。余談だが、現実のパソコンでも似たようなことがあったらしい。あるユーザーがウィンドウズ95上でネットサーフィンを一晩中楽しんでいると、自動でダウンロードされる情報にハードディスクの空き容量が少なくなった。当然、仮想RAMは減少し、本当のRAMまで圧迫していった。CPUにかかる負担は増大し、動きが鈍くなる。そのユーザーがパソコン相談センターに電話したときにはメモリは食いつぶされて、人間の忍耐力では判らないほどの速度でしか情報処理できなくなっていた。案外、トムスンもこうした逸話を聞いてこのエピソードを入れたのかもしれない。
 小説の場合はこのエピソード時に序盤で最も重要な伏線が張られている。マギーは自分のシステムプログラムを再編成する。その際に優先順位を決定するが、ここでアーノルドの言ったセリフが、マギーを自立させるきっかけになる。
 「マギー、ぼくがいままでに手がけたなかでもっとも重要なのはきみなんだ」「ぼくにはきみが必要だ。そこをきっかけにしろ」
実際には最初のセリフ中にある「……重要なのはきみ」までしかマギーは認識できずに「きみ」つまりマギー自身を中心にシステム構築する。この伏線によりセキュリティプログラムのドッペルゲンガー化が起こり、中盤以降の放浪やアーノルドへの反抗が可能になる訳だ。ラジオドラマでは語り手がマギーに一元化されているので、この辺のやりとりはかなり略されている。
 ラジオ・マギーはここに至りやっと普通の口調に変化する。違和感だらけで首をひねるのもこれでおしまいだ。

 原作で山ほどあったエピソードを省略しまくるのもラジオドラマの特徴の一つに挙げてもよいだろう。屑拾いや物乞い、市場で迷子になるマギーなどが削られている。これによりアーノルドの貧窮さが薄くなっていて、説得力はあまりない。
 このあと二人はシアトルの隠れ家を捨てて旅にでるのだが、ここで面白いことが発生する。アーノルドの父親の斥候に追われて二人が生ゴミ収集器にもぐり込む。
 「収集器にたちこめる悪臭といったら、長年ゴミあさりをしてきたアーノルドの想像をも絶するほどだ。こんなことならマギーに嗅覚を持たせておくんだった」
 とアーノルドは嘯く。
 ところが、ラジオでは前記したようにマギーにも嗅覚がある。しかしマギーは臭気を感知はするが、臭さの不快感は分からないのだ。ラジオ・マギーはこう言ってのけるのだ。
 「臭いって、いやなことなの? わたしは平気よ。臭いは強く感じたけれど、不快じゃないわ」
 アーノルドの抗議は残念にも理解されなかった。

 AI法に対する批判であるブランドンのセリフも大幅に削られている。ここではメディアの違いを明確にさせられる。音声と紙との大きな差異を。小説では現代の、型にはまった非難が展開される。ラジオではそれすらもない。純粋にエンターテイメントに徹しているのだ。
 それから二人は列車には乗らずに、トラックの荷台に乗り込み、オレゴンのポートランドに向かう。そしてスーとクレアにはここで出会う。原作ではデンヴァーなのだが。これもメディアの違いといえば違いか。

 ここからしばらくは文句なく楽しめる。クレアとの別れ、アーノルドの負傷とマギーの逃走、牧場での一時、これらを越えるとマギーの一年間の放浪が原作同様さらりと流されニューオリンズに辿り着く。
 そしてチューリングが登場する。ラジオ・チューリングは何故か中国人が設計したことになっていて、間違った広東訛りの日本語で話す。
 「ワがはいはチューリング、アル」……とまあこんな具合に。いくら何でもこれは酷すぎるとは思わないか、読者諸氏よ。なんと無理極まりないキャラクターだろう。原作のチューリングはちょっと狂っているインテリ風で実に楽しい奴なのだ。サルトルやカミュの小説に登場する最悪な主人公にも似ていた、そのユニークさを気に入っていたのだが、(某女性党首ではないが)ダメな個性付けをされてしまった。ああ、かわいそうに。
 さらに、キャラクターの不幸は続く。
 アズールは原作を最初に読んだときに受けた印象そのままだった。活発で若者らしい頑固さに溢れた彼そのままだった。
 このドラマ全体で一番不幸な扱いをされているのはマリーだった(ラジオドラマではマレイで統一されているのだが、煩雑なのでこれからはラジオ・マリーと呼ぶことにしよう)。彼/彼女はなんとオカマさん言葉で話すのである。おいおい、原作にもそんなことは書かれてはいなかったじゃないか。原作では(原作主義者といわれそうだ)マリーの二重性がハッキリしていて一種の驚きを感じ、それがまたマギーの成長に必要だったのだと考えれば、まだ納得もできたものだが。印象深いマリーの人格はここで脚本家と演出家により、破壊されてしまうのだ。彼/彼女のやさしさや思いやりはそれのお陰で歪んでみえてしまう。

 ここからはクライマックスである。ただし音声というメディアで表現しにくい、いくつかの重要なエピソードはもちろん飛ばされている。マギーがセキュリティプログラムと会話する場面は全部消え去っている。マギーの完全な自立を書いた、ヴァーチャルガール最大の山場が跡形もないのである。ここが無ければマギー自身が構成しなおしたシステムの意味はまったくない。
 やがてアズールとマギーはニューヨークに辿り着く。列車を降り、そのすぐ後で強盗に襲われた女性のバッグを取り戻そうとしてマギーの腕に銃弾を打ち込まれる。このあたりはまったく同じだが、ニューヨークでの暮らしは語られない(今、気づいたことがある。アズールが同性愛者の街娼だという設定も消えているのだ)。
 アズールはニューヨークに着いた次の日にプロンプトンビルの前で自慢の踊りを披露する。そこで感動の再開を果たすわけだ。ラジオドラマ全体がそうであるようにこの章もさらりと流されてしまう。
 プロンプトンビルからのチューリングとマギーの脱出行は少々過激になっている。ボディへのチューリングのインストールと適応化はすぐに終え、そのおかげか、時間経過に変化がおこる。脱出の際に発生するアーノルドとの会見が起こりえなくなるのを防ぐため、扉の爆破用に爆弾を作るのだ。この爆弾製造で時間が取られ会見は果たされる。そして、この場面だけはラジオドラマが原作を上回っていると私は感じている。原作ではアーノルドとの会話もそこそこに、彼を靴紐で縛り、エレベーターの外に放り出して終わる。ところが、どうしても貧弱になるマギーの心理描写を補うためにこの問答の強化が行われるのである。
 マギー:「アーノルド、行かせて」
 アーノルド:「何を言うんだ。ぼくはきみが必要なんだ」
 マギー:「あなたの会社にとってでしょ」「わたし、あなたを愛してた。あなたをずっと守って暮らしていきたかったわ」
 アーノルド:「まさか、ロボットが愛なんて……」
 マギー:「あなたがそう作ったのよ。でも、あなたは信じないのね」「だから、行くわ」
 アーノルド:「バカッ! ロボットがひとりで生きて行くなんて−−」
 マギー:「あなたと別れてから、わたしはひとりで生きてきたわ。自分の知恵と力と判断で」
 アーノルド:「マギー、出ていくことなんてできないぞきみはぼくのロボットなんだ」
 マギー:「ごめんなさい。わたし、誰のものにもなりたくないの。わたしはロボットだけど、誰かの所有物じゃない!」「アーノルド、さよなら。いろんなひとに何度も出会って、何度も別れたけど、今度が一番辛いわ」「わたしを作ってくれてありがとう」
 文字にすると判りにくいかも知れないが、マギーの最後のひとことにすべてがあらわされているのである。エンディング前の最高の山場を越えると、チューリングとマギーは変装して貨物列車で逃げ出す。そして、原作どうりブランドンに会いにいく、というか原作どうりのエピローグなのである。
 最後に、ラジオ・チューリングの台詞を紹介してこの文を締めくくろう。これはマギーのセリフに対応していった言葉である。
 マギー:(マギーを人間だと弁解するアーノルドの発言をラジオを聞いて)「チューリング、わたしたちは人間になったらしいわよ」
 チューリング:「どっちでもいいアル。人間でも、ロボットでも、ワがはいは、ワがはいでアルよ」




編集後記
By 未谷おと


 感想の浮かんでこないSFというものがある。完璧な構成と絶妙な語り口、疑問の余地などまったくない技術描写、物語としての完全な終鴛等の要素が見事な配列で組み合わさるとそうしたSFになってしまう。今の私にはヴァーチャルガールがまさしくそれで、何故こんな小説のファンジンを出そうと言いだしたのかと自分に疑問符を出さずにはいられない。原稿の進まないSFほど厄介なものはないからだ。
 単なる愚痴になってしまって申し訳ない。しかし、この小さな本が出せただけでも私には嬉しいのである。マイナーと言われるジャンルのさらにマイナーな作品であるため、売れ行きはイマイチだろうが、それでもかまわない。同人誌の魅力というのは架空世界の共有という部分に大きく依存していて、その世界が狭ければ狭いほど、楽しい同人誌になると思う。「狭さ」というのは共感の深さのレベルみたいなもので、突き詰めていくと、やはり、身内が一番楽しいとはなってしまうのだが、それでもある程度の数は出てほしいという欲望との競り合いになっていくのだ。
 ではまた、次回作か、ペーパーでお会いしましょう。


前の美少女計画 へ| 次の美少女計画 へ>
一発クリックお手紙です。詳細なのはこちらからで
応援するよ!  阿呆はやめろって  注目はしてるからね 
[1 step back] 美少女・巻頭言
[2 step back] SFのページ
[COUNTER] [NEXT] : [SKIP] : [TOP] : [UP] ::: [SF] : [HOB] : [PROF] : [TOOL] ::: [LINK]


something tell me. [mailto:ippo_x@oocities.com] [BBS]

This page hosted by [GeoCities] Get your own Free Home Page