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Updated on December 28, 2001 |
Column
2:
Behind
the Southern Groove
南部音楽の裏方たち ―ドン・ニックス
バングラデシュ救済コンサートに登場するドン・ニックス ジョージ・ハリスンの音楽活動のハイライトの一つだった「バングラデシュ救済コンサート」(前回のコラムを参照)。その実現に向けて、ハリスンに協力を求められた一人がドン・ニックス 彼の代表曲「ゴーイング・ダウン」は今もカヴァーされ続けているが、残念ながら英米ではニックスの名前を覚えている人は少ない。しかし、日本では根強い人気があり、最近までにソロ作品が一通りCD化されている。 米国南部音楽の聖地メンフィスに育ち、サザンソウルからハードロックまで関わったという経歴は、60年代の南部音楽を支えた白人ミュージシャンたちを典型的に代表するものだ。厳しい言い方をすれば、彼は、裏方に徹しながら黒人歌手からも敬意を集める実力を備えたダン・ペン
それでも、彼のキャリアは、白人ロックと黒人音楽が絶妙のバランスで交錯するスワンプ・ロックの縮図であり、ポピュラー音楽の歴史の中で興味深い局面に登場する立役者であることは間違いない。
ゴスペル風のアレンジには欠かせないソウルフルなコーラス隊は、こうして主にニックスの人脈を通じて編成された。当日の写真(上の写真)をみると、左から順に、ドロレス・ホール、ジョー・グリーン、クローディア・レニア、ジーニー・グリーン、マーリン・グリーン、ドン・プレストン、そしてドン・ニックス本人の参加が確認できる。 彼らはいずれも、マッスル・ショールズやロサンジェルスで、様々なセッションに参加していた裏方たちだが、なかでもクローディア・レニアは、当時活躍の目立った黒人女性ヴォーカルだ。 アイク&ティナ・ターナーのバックを務めるアイケッツの一員だった彼女は、70年代には白人ロッカーに好んで起用された。彼女がバックに参加したミュージシャンは、リオン・ラッセルをはじめ、アル・クーパー、デヴィッド・ボウイ、スティーヴン・スティルズ、デイヴ・メイスン、ハンブル・パイなど数多い。
また、デヴィッド・ボウイの「レディ・グリニング・ソウル」(1973年『アラジン・セイン』収録; 邦題「薄笑いソウルの淑女」)のモデルになったのも、レニアのようだ。じゃ香のような匂いの肌をみせながら微笑む娼婦という歌のイメージは、実になまめかしい。 ジョー・コッカーの1970年の全米ツアーを記録した映画『マッドドッグズ&イングリッシュメン』の中で、「レット・イット・ビー」を独唱するクローディア・レニアの姿も印象的だ。ドン・ニックスは当時、コッカーのこのツアーを仕切っていたリオン・ラッセルの弟分のような存在で、ツアーの先々で一行と頻繁に合流していた。そして、ニックスとレニアはこの時に出会って、1970年頃に結婚している。 2人の関係は長く続かなかったが、交際していた頃の親密さを伝えるこんなエピソードがある。70年末リオン・ラッセルのコンサートの楽屋に、たまたまボブ・ディランが訪ねてきたときのことだ。ニックスが一同の記念写真を撮ろうとカメラを持ち出した瞬間、ディランは「ヘイ!」と声を上げて、傘の先を突き立ててニックスを威嚇したらしい。すると、クローディア・レニアが咄嗟に2人の間に立ちはだかった。そしてディランの目の前でニックスに、「ボブ・ディランなんか、くそ食らえよ。あたしの写真を撮ればいいじゃない」と言い放ったそうだ。 ドン・ニックスの名前を日本のロックファンの間で有名にしたのは、やはりジェフ・ベックとの繋がりだろう。1972年の『ジェフ・ベック・グループ』に収録され、以後ベックのライヴの見せ場になった「ゴーイング・ダウン」は、ニックスの代表曲だ。この曲は、アルバムのプロデューサーを務めたスティーヴ・クロッパーが、ベックに薦めたようだ。クロッパーは、後で述べるように、ニックスとは小学校で同じクラスになって以来の親友で、スタックス・レコーズ時代の仲間だ。 録音はジェフ・ベックが憧れるサザンソウルの本場メンフィスで行われ、収録後に開かれた完成記念パーティの席で、ニックスはベックから、次回作のプロデュースを打診された。因みに、ニックスとベックはこれが初対面ではなく、遡って1966年に知り合っている。この年ベックはヤードバーズの一員としてアメリカ公演を行ったが、一緒にツアーを回ったゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズのバックメンバーに、ドン・ニックスが加わっていた。尚、ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズは当時リオン・ラッセルが手掛けていたポップ・グループだ。
ただドン・ニックス自身は、このアルバムにそれほどいい記憶を持っていないようだ。ベックの強い希望で、ブルース界で伝説的なチェス・スタジオを一部収録に使ったが、当時チェスはすでに廃業していて、スタジオの機材も半分以上失われ、とてもまともに録音できる状況ではなかった。また、ニックスは、ティム・ボガートとカーマイン・アピスの2人とは、個人的に反りが合わなかったようだ。 そもそもジェフ・ベックが2人と意気投合したのは音楽面だけでなく、短気でやることが破壊的、そして無類の車好きという性格がうまく合ったからで、特にボガートとアピスのハチャメチャぶりは凄かったらしい。ニックスは、会ったその日に、彼のカードで借りたレンタカーを、2人があちこち壊し始めたのを見て、先行きに不安を感じたという。 さらに決定的なのは、そもそもボガートとアピスの売りである轟音のリズム隊を、ニックスがあまり好まなかったことだ。2人のリズムは音だけ大きくて、グルーヴが欠けているというのが、ニックスの密かな感想だった。ある日アピスがドラム用のマイクをもっと増やせと主張したとき、ニックスはマイクだけ取り付けて、実際にはこっそりマイクの電源を切っていたこともあった。 だが、ボガート&アピスの、ロック界屈指の重く安定感のあるリズムこそ、当時のジェフ・ベックが求めていた音だとすれば、プロデューサーとしてのニックスの役割にも、もともと限界があった。同様の問題は、ベックの前作をスティーヴ・クロッパーがプロデュースしたときにも存在していた。ベックは後のインタビューで、クロッパーの手掛けたサウンドはのんびりしていて、60年代のスタックスのレコードから期待したような熱気は感じられなかったと不満を漏らしている。 おそらくこの微妙なずれは、雰囲気を大事にするスタックス系の音作りと、ミュージシャンの自己主張がぶつかり合う緊張感からマジックが生み出されるギターロックとの間の壁が表われたと考えていいだろう。よく聞けば「ゴーイング・ダウン」にも、もともとのサザンソウル系の音色をもっとハードに仕上げようと、無理に頑張ったように感じられる部分がある。 エリック・クラプトンの場合は、アメリカ南部のサウンドに接して以来、芸名まで変えて南部音楽に融け込もうとした。その点、ジェフ・ベックは、同じように南部音楽に憧れても、あくまでギターヒーローの自分を捨てなかったのであり、ここには2人の個性の違いがよく表われている。 とはいえ、印象的なリフを持つ「ゴーイング・ダウン」は、ジェフ・ベックのおかげで世界的に有名になった。この曲はJ・J・ケイル、ジョー・ウォルシュ、サヴォイ・ブラウン、ヴァン・ヘイレン、ディープ・パープル、レスリー・ウェストなどがこぞって取り上げ、今も毎年新たな録音が出ている。またドン・ニックス自身がプロデュースしたフレディ・キングをはじめ、ジョン・リー・フッカー、ルーサー・アリスンなどの黒人ブルースマンにも演奏された。
モロクは、まだバンドの体も整っていないうちに、地元メンフィスでドン・ニックスに発掘され、彼の肝いりでスタックスのサブレーベル、エンタープライズと契約した。1970年のアルバム(写真)は、曲作りから録音、ジャケットに至るまで、すべてニックスが先導した、事実上ニックスのアルバムと言ってもいい作品だ。 収録された「ゴーイング・ダウン」の歌詞には、「俺は自分の大きな足を窓から突き出して/頭は地面の上」というくだりが登場する。後にニックスが語ったところでは、これは彼の実体験に基づいた歌詞だということで、ある蒸し暑い夜に、窓を開け放って窓枠に足を掛けて寝ていたところ、彼は誤って窓から2階分転落し、地上のゴミ入れに落ちてしまったらしい。 70年代に、いわゆるスワンプ・ロックの周辺で活躍したドン・ニックスだったが、ミュージシャンとしての彼の原点は、全盛期のスタックスに関わった体験にある。61年に誕生したスタックス・レーベルは、極上のサザンソウルを世界に発信し続けたレコード会社だ。ブラック・ミュージックの中でも特にディープなサウンドの背後に、多数の白人スタッフがいたことは今や実に有名で、60年代の同レーベルは、白人と黒人が協調して生み出した音楽のモデルとして記憶されている。 ドン・ニックスは、後にブルース・ブラザーズ・バンドで人気を博したドナルド・"ダック"・ダンとスティーヴ・クロッパーとともに、スタックスに最初期から関わっていた。この3人は小学校時代からの同級生で、60年に一緒にバンドを組んでいる。この白人グループ、マーキーズ
因みに彼らのバンド名は、最初はマーキス(Marquis; 「侯爵」の意)だった。しかし、フランス語源のきどった単語では正しく発音してもらえないことが多かったので、発音に間違いのない表記として、マーキーズ(Mar-Keys)に変えた。新しい名前の方には、ピアノの「キー」(鍵盤)という意味もかけてある。(写真; 後列の右から2人目がニックス、左端がダック・ダン、前列右端がクロッパー。) マーキーズは、61年6月、スタックスから発売したシングル「ラスト・ナイト」で思いがけず全国ヒットを生んだ(R&Bチャート2位、ポップ・チャート3位)。この曲は、メンバーで練習中に作り上げた曲ではあったが、実は最終的に収録されたテイクでは、"ダック"・ダンとニックスは演奏に参加していない。クロッパーは、ギターではなくピアノでの参加だ。演奏のハイライトはいずれも黒人ミュージシャンのもので、「ウー、ラスト・ナイト」という掛け声の後にソロを披露するのも、黒人サックス奏者のギルバート・ケイプルだ。 ところが、収録に参加した黒人ミュージシャンたちは、マーキーズのライヴからは外され、ツアーはもともとの白人メンバーだけで行われた。当時のアメリカ社会では人種混合のグループで人前に出るというのは、まだなかなか考えにくかったようだ。 この時代は、ドン・ニックスが人気スター的な派手な生活を楽しんだ、生涯で唯一の時期ということになりそうだ。彼は長身で痩せ型の好青年だったから、女性にももてたらしい。だが、マーキーズはまもなく活動を休止する。クロッパーとダンはブッカー・T&ジ・MGズに移って、スタックスの中枢で活躍するようになったが、ニックスはそうした機会を求めず、その後しばらくスタックスとは疎遠になった。 この頃彼の目は、メンフィスの外に向いていた。ロサンジェルスの音楽界で裏方として活躍し始めていたリオン・ラッセルと親交を深めたのが、この頃だ。彼はメンフィスを離れてラッセルの家に居候して、ラッセルからスタジオワークを学んだ。ちょうど、後にLAスワンプとも呼ばれた、南部音楽とハリウッドの音楽的伝統とを結んだ新たなロックが生まれる現場を、ニックスは目撃したことになる。そして、新たな技能を手に、68年頃、彼はふたたびメンフィスに戻ってきたのだ。 ドン・ニックスは、ロサンジェルスで得た経験を活かして、プロデューサー業を始めるつもりでいた。経済的には当時無一文だったニックスは、メンフィス周辺でデビューを目指している新人バンドを見つけては、古巣のスタックスに売り込もうと努力を続けた。この頃、黒人音楽中心のレーベルは、いずれも白人ロックの世界への進出を図っていた。アトランティックはクロスビー・スティルズ&ナッシュ結成を仕掛けて、本格的にロック市場に進出し、モータウンもレア・アースを売り出したところだった。 それはスタックス・レコーズも同様で、この動きから直接の恩恵を被ったのがドン・ニックスだ。彼はメンフィスに戻るとまもなくして、スタックスのスタッフライター兼プロデューサーの地位を得て、白人アーティストの開拓を委ねられた。前述のモロクはこうして発掘されたグループだった。さらにニックスは、同じ頃に、シド・セルヴィッジ、ダラス・カウンティ、スティルロック(ドン・プレストンのグループ)、パリス・パイロットなどを次々とスタックスと契約させ、アルバムを出させている。これらの作品はいずれもセールス的には不発だったが、雑多ながらもハードロック、カントリーからファンクまで様々な要素が散りばめられたサウンドには興味深いものがある。 ドン・ニックスのスタックスでの仕事の中でも特に目立つのは、デレイニー&ボニー
彼らのバックを務めていたリオン・ラッセル経由で知り合ったニックスは、2人にデビュー話を持ちかけて、メンフィスのスタックスに連れて行った。後にニックスが告白したところでは、実際の収録作業は、彼が助っ人に依頼した親友のドナルド・ダック・ダンが主に取り仕切ったようで、彼はほとんど傍観しているだけだったらしい。因みに、録音中のデレイニー・ブラムレットの性格の悪さは、ニックスやダンを辟易させるほどだったと伝えられている。 いずれにしても、レコーディング自体は、スタックス・スタジオの常連の布陣がしっかり脇を固めて、約1週間で完成した。こうしてデレイニー&ボニーは、マーキーズとMGズを除けば、スタックスが契約した白人アーティスト第1号となって、このソウルとゴスペルの伝統を受け継いだロックの名盤で、スワンプ・ロックの夜明けを告げた。ただアルバムの売れ行きは芳しくなく、スタックスとデレイニー&ボニーの関係はこの1枚で終わっている。
70年夏のある日、ニックスは、ジャクソンの電話を受け取る。そして、キングのセッションには「気が狂いそうだ」といつになく切迫して語る彼に、ニックスは後を引き受けることを快諾したのだ。 この仕事をはじめてすぐ、ドン・ニックスは、ジャクソンが言っていたことの意味を悟ることになった。彼は、予定されていたキングのフィルモアでのライヴに際して、親友のリオン・ラッセルや、彼のバンドにいたジム・ケルトナーなどを呼んで、バックバンドを編成した。ところが、リハーサル中にキングは、バックが気に食わないと主張して、彼が常に携行していたピストルをコートの陰からのぞかせ、有無を言わせずコンサートをキャンセルしてしまったのだ。 ニックスは、その2週間後に、謝罪の電話を受け取ったようだが、こうして波乱含みでアルバート・キングとの仕事が始まった。収録に移った後も、心労は絶えなかった。最大の難関は、キングにどうやって歌詞を覚えさせるかという問題だった。ニックスによれば、キングは文字が読めなかったが、彼はそのことを隠していた。だから、ニックスたちは、キングと一緒に食堂に入るといつも、「チキングリルもうまそうだし、ラザニアもいいかな」と独り言を話しているふりをしながら、キングにメニューを教えていたらしい。 しかし、さすがに歌詞を教えるのに同じ方法は使えなかった。ある夜ニックスは、意を決してキングに語りかけた。「文字を読めないのはもう気付いてるよ。でも、あんたほどギターを弾けるなら、俺だったら、文字を読めても読めなくてもどうでもいいけどね。」 長い沈黙の後、キングはにっこり笑みを浮かべ、手を差し出し、「お前が気に入ったよ、ドン」と語った。これで翌日からは、ニックスがヘッドフォンを通じて次の節の歌詞を教える方法が採られるようになった。その後もキングの目の前には譜面台を置き、傍目にはあたかも彼が歌詞を読んで歌っているように見せたらしい。 スタックス・レコーズでの日々は、今もニックスの記憶に焼きついているようだ。68年マーティン・ルーサー・キングが暗殺された日も、ニックスはスタックスのスタジオにいた。この事件を契機に、メンフィスは人種抗争が激しくなり暴動に見舞われる。後にニックスは、この日を境に「メンフィスの音楽シーンは致命的な傷を負って、それからゆっくりと苦しい死への道を歩んだんだ」と回想している。 人種問題はスタックスにも暗い影を落とした。そして、長引く経営難の末、スタックス・レコーズは1975年、ついに破産する。ドン・ニックスは、この知らせをイギリスの新聞で読んだという。当時彼は、マイケル・チャップマンのレコードをプロデュースするため、ロンドンに滞在していた。ニックスは、この日から仕事に気持が入らなくなって、ロンドンを後にする。そのうえ、彼がメンフィスの自宅に帰ると、運悪くも、家は強盗に入られていた。その後ドン・ニックスは、十年もの間、過去の記憶を引きずりながらドラッグに頼る苦しい日々を送ったようだ。
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