1993年2月26日、アメリカのワールドトレードセンタービル(WTCビル)地下駐車場に止めてある車が突如大爆発を起こします。この爆破テロで6人が死亡、1000人以上が重軽傷を負います。
発見された証拠の1つにラディン師の関与を示唆するものが出ました。明確な証拠ではありませんでしたが、王国は1994年4月、ラディン師の国籍を剥奪したのでした。ラディン師はこの頃、スーダンのハッサン・トゥラビ師の庇護を受け、道路工事などの事業を手がけていました。(本家のラディングループは建設業です)
1995年11月13日、リヤドにある王国警備隊の本部が自動車爆弾で爆破されました。7人死亡42人以上が重軽傷を負います。死亡した7人中、5人はアメリカ人でした。
これは、以前から王国内に駐留するアメリカ、イギリス軍が撤退しなければ、彼らを攻撃すると警告分を発表していた組織、イスラーム変革運動の行動でした。
実際は3つの組織が同時に犯行声明を出しましたが、イスラーム変革運動以外は実態が無いようです。参考までに名前をあげると、イスラーム変革運動、ガルフの虎、アッラー遊撃隊の3つです。
王国は首尾よく犯人を逮捕し、公開斬首刑にしました。この斬首刑に対して、今度は報復として、1996年6月25日、サウジアラビア東部ダハラーンに駐留するアメリカ軍の宿舎に爆薬を満載したトラックが突入します。19人死亡、500人以上が重軽傷を負いました。
1996年8月23日、ラディン師はアメリカの圧力を受けたスーダンから追放され、アフガニスタンのタリバンの元で庇護を受けていました。そこから、聖地を占領するアメリカに対する宣戦布告を行ないます。パレスチナ、レバノン、イラクでイスラームの血が流されているのはイスラエルとアメリカ、つまりユダヤと十字軍の陰謀であると強く非難しました。
そして、1998年8月7日、ケニアの首都ナイロビにあるアメリカ大使館にトラック爆弾が突入し炸裂します。この爆発で291人が死亡5000人以上が重軽傷を負います。この内アメリカ人は12人が死亡6人が重軽傷でした。
同時にタンザニアの首都ダル・エス・サラームにあるアメリカ大使館でもトラックに満載された爆弾が炸裂しました。これで10人死亡77人重軽傷でした。アメリカ人は1人が負傷。
この2つの爆破でイスラーム聖地解放軍と言う名のグループが犯行声明を出しましたが、実態の無いものである事は間違いありません。つまり、ラディン師の宣戦布告もあり、アル・カイダの犯行だと思われます。
アメリカはこれに対し、ラディン師を渡せとアフガニスタンに要求します。しかし、タリバンがこれを拒否するとアフガニスタンのアル・カイダ訓練基地と、スーダンの化学工場を巡航ミサイルで攻撃しました。
これに対しタリバンはアメリカから攻撃を受けようともラディン師を渡す気は無いと発表します。
ラディン師とアメリカの闘争は激化し、2001年9月11日、またもワールドトレードセンタービルが標的となります。
ハイジャックされた2機の旅客機が2つのタワーに突入し、WTCビルは崩れ落ちてしまいます。アメリカに直接攻撃を加えたのは大日本帝国海軍についでアル・カイダ特攻隊(たぶん)となりました。ペンタゴンにもカミカゼが突入し火災を発生させます。
例によってラディン師が関わっているとの証拠は挙がりませんが、他に誰もいないと言うわけで、アメリカはタリバンに圧力を加え、ラディン師を渡せと要求します。
しかし、またもタリバンが拒否するとアメリカはアフガニスタンに対し攻撃を開始しました。すでに向こうから宣戦布告を受けているので改めて行なう必要はありません。
この戦闘でタリバンは壊滅、アル・カイダも殲滅されたようです。しかし、ラディン師の生死はいまだはっきりしていません。 |