The Saudi Arabia's Behavior
サウジアラビアの仕業

サウジアラビア 地図提供:CIA :

■ イスラエル建国さる

1948年5月14日、イスラエルが建国されるとサウジアラビアはエジプト王国軍の指揮下に、1個大隊を派遣します。戦争はアラブ側の敗北に終わりましたが、サウジアラビアは長年の敵、ハーシム家のトランスヨルダンが、ウエストバンクを占領して自国に併合した事を強く非難しました。

ハーシム家とサウード家の戦いはサウジアラビア建国をクリック

 

■ アブドゥルアジーズ国王 崩御

1953年11月9日、初代国王アブドゥル・アジーズ・ビン・サウード陛下が崩御しました。戦闘民族ベドウィンに生まれ、そのリーダーシップでアラビア半島を征服し、砂漠の豹と呼ばれた陛下の時代も終わります。そして、新国王には長男のサウード皇太子が就任しました。

サウード国王のもと、エジプトとの関係が微妙になります。当初は革命後も仲のよかったナセル大統領とサウジアラビアですが、もともと、ナセル主義が国王を否定しているためこの関係が長続きするはずもありません。そして、ついにナセル大統領はサウード国王を暗殺させようとパレスチナ人の殺し屋を送り込みます。

この暗殺は失敗しましたが、これでエジプトとの関係は最悪となります。そして、サウード国王はナセル主義に対抗すべく、同じ王国という国家体制であるイラクとヨルダン両ハーシム家との和解を進めます。

1958年3月、今度はサウード国王がナセル大統領の暗殺を計画します。しかし、これも失敗に終わりました。ナセル大統領はこれに激怒し、両国はますます険悪ムードになっていくのでした。

そんな中、サウード国王に対しサウジアラビアの王子達は不信任案を提出し、実権を弟のファイサル王子に譲るよう要求します。これをのんだサウード国王はファイサル王子を首相に任命し、実権を委譲しました。

ファイサル首相は早速、エジプトとの友好関係を回復するため、カイロを訪問します。

 

■ イエメン内戦と第3次中東戦争

■ イエメン内戦勃発
1962年9月26日、サウジアラビアの隣、イエメン王国で革命が発生し、イエメン・アラブ共和国が誕生しました。これは、ナセル主義を信奉するサラール大佐が起こしたもので、エジプトのバックアップがありました。

そして、1週間前に就任したばかりのムハンマド・アル・バドル国王はサウジアラビアに亡命します。サウジアラビアはナセル主義の波及を恐れていたこともあり、王党派を支持する事を決めます。そして、ジェッダに亡命政権を樹立させ、共和国との内戦に介入しました。

エジプトはといいますと共和国側を支援し、イエメンに軍隊を送り込みます。こうして、この内戦はエジプトとサウジアラビアの代理戦争となっていきます。

さらに、エジプトのバックにはソ連、サウジアラビアのバックにはイギリス、アメリカがついて援助を行ない、まさにベトナムと同じ状態となったのでした。

エジプトはこの内戦に強く肩入れし、自国から3000キロも離れているイエメンに続々と軍隊を送り込みます。エジプト空軍機はサウジアラビアの国境付近まで爆撃に飛来するようになります。
しかし、エジプト正規軍をもってしてもこの戦争はなかなか決着がつきませんでした。業を煮やしたエジプトは毒ガス戦を敢行します。これは王党派の戦闘力を奪うのに十分だっただけでなく、逆にエジプト軍将兵の良心を刺激し、士気を低下させました。

■ サウジ王家のお家騒動
そんな中のサウジアラビアでは、ファイサル首相とサウード王との間でお家騒動が勃発し、サウード国王が親衛隊を動員します。しかし、これはファイサル派が武装解除する事に成功し、サウード国王はギリシャに亡命します。これで、ファイサル首相は名実共に第3代国王となりました。

■ 第3次中東戦争
そして今度はイスラエルです。イスラエルの奇襲攻撃で第3次中東戦争が勃発します。この戦争は完全にアラブの敗北となり、開始から6日で終わっていました。

停戦になると、スーダンで事後会議が召集されました。このときにファイサル国王はナセル大統領とイエメンについて会談し、エジプト軍の撤退を認めさせたのでした。

エジプトのバックアップがなくなった共和国軍は戦力も低下します。さらに権力争いでサラール大統領は失脚し、新政府はサウジアラビアと停戦する方針を打ち出します。
1970年、サウジアラビアはこれを受諾します。これで内戦は終結し、復権できなくなったムハンマド・アル・バドル元国王はイギリスへ亡命します。

 

■ 聖地の守護者 サウード家の憂鬱

ファイサル国王はイエメン内戦に介入した時、アメリカの軍事協力を得てエジプトを追い払うことが出来た事を現実的に受け止め、ますますアメリカを頼りにするようになります。

エジプトやシリアなどはソ連と決別したとはいえそれは政治面だけであり、軍事面では依然と協力関係にありました。

サウジアラビアはもともと宗教を否定しているソ連と仲良くなるわけもありません。そして、軍事面の協力者はアメリカとなったのです。アメリカは中東での拠点にイスラエル、イラン王国、サウジアラビアを考えていたので、サウジアラビアとの軍事協力協定に合意し、最新鋭の戦闘機を売却してくれたのでした。

そんな折の1975年3月25日、突如ファイサル国王が甥のムサーイド王子に暗殺されてしまいます。新国王にはハーリド皇太子が就任しました。

1979年、イスラエルとエジプトが平和条約に調印すると、アラブ諸国は会議を招集します。この会議で、アラブ諸国はエジプトを非難する事を決定します。サウジアラビアはエジプトとも国交を継続させていきたかったのですが、ハーリド国王のアラブとの足並みを揃えよの一言で国交を断絶しました。

そんな中、今度は仲の良かったイラン王国で革命が発生します。イスラームによる革命なので王国としても革命政権を支持することにしました。ところが、イランのホメイニ師はイスラーム革命の輸出を唱えます。これに呼応して、アラブ諸国の国内情勢が不安定になったのです。

サウジアラビアでも例外ではありませんでした。1979年11月20日、メッカのアル・ハラム・モスクが約500人の武装グループに占拠されます。武装グループは救世主を擁し、サウード家が受け入れた異教徒の文化に毒されている王国を浄化すると宣言します。

これに対し王国は鎮圧するためとはいえモスクに対して銃を向ける事が許されるのかという問題を、最高ウラマー会議へ持ち込みます。ウラマー会議で軍事行動の許可が決定し、ファトワーが出されると、王国警護隊の鎮圧部隊がモスクに突入し銃撃戦となります。武装グループは銃撃戦で死亡した者以外は逮捕され、公開処刑されました。

 

■ ソビエトのアフガニスタン侵攻とイラン・イラク戦争

■ アフガン戦争
1979年、ソ連が突如アフガニスタンに侵攻します。クーデターで親ソ連となったアフガニスタンにソ連が軍隊を進駐させたのです。アフガニスタンはイスラームの国なので、イスラーム諸国はパキスタンで会議を招集し、ソ連を非難します。

サウジアラビアはアフガニスタンに義勇兵を送り込み、イスラームとして同胞を救済する事にします。このときオサマ・ビン・ラディン師も義勇兵としてアフガニスタンに入りました。

ソ連の強大な軍事力を持ってしても、なかなかアフガニスタンを制圧できません。義勇兵のバックにはアメリカが付いていたのです。そして、この戦争は長期化します。

■ イラン・イラク戦争
今度は新生イランにイラクが攻め込みイラン・イラク戦争が勃発しました。これはイラクのフセイン大統領が、ホメイニ師の唱える”革命の輸出を防ぐ。”という大儀でイランに攻撃を始めたのでした。

サウジアラビアを含むアラブ諸国はイラン支持とイラク支持で割れてしまいます。サウジアラビアは革命にビビッていた事もありイラク支持を支持します。

そのため対岸にあるイランから直接の攻撃にさらされる可能性が出てきます。これを憂慮した王国は、アメリカに対して武器の供与を要請します。アメリカはこれを受け、最新鋭の戦闘機を供与しました。
イランは直接サウジアラビアを攻撃する事は無かったのですが、もし、そうしていたらイラン空軍のアメリカ製戦闘機とサウジアラビア空軍のアメリカ製戦闘機が戦闘をする事になったかもしれません。

このように中東の火薬が爆発し、王国も危機に見舞われてた事が引き金となり、1982年6月13日、ハーリド国王が心臓発作で崩御してしまいます。

新国王にはファハド皇太子が就任します。ファハド新国王はハーリド国王の元で首相の任にあり、実質王国を動かしていたのでした。

イランとイラクの戦争は1988年、イランの無条件降伏で幕を閉じます。そして、アフガニスタンのソ連軍も撤退する合意に調印し、89年に完全撤退します。 

 

■ 湾岸戦争

イラン・イラク戦争が終わって2年が経った頃、イラクのフセイン大統領がクウェートに因縁をつけ始め、湾岸危機が始まりました。フセイン大統領はイラク軍をクウェート国境に終結させ、プレッシャーを与えます。アラブ諸国がなだめたのにもかかわらず、イラクはウェートに攻め込みます。

クウェートの軍隊ではイラク軍を支えきれるはずもありません。あっさり首都が陥落し、クウェートのジャビル国王はサウジアラビアに逃げ込みます。

隣国クウェート陥落でサウジアラビアは恐怖しました。イラクがサウジアラビアさえも標的にしているかも知れないのです。そして、王国はアメリカ軍の駐留を望みます。しかし、いくら王国が親アメリカだと言っても、イスラエルを支援しているアメリカ軍を王国に駐留させる事はさすがにできません。

そして、国連がイラク非難の決議をした事を幸いに、エジプト、モロッコ、シリアの軍と一緒にアメリカ軍も駐留すると言う形式をとりました。

こうして、連合軍によるクウェート解放のための反撃が開始されました。連合国軍機はサウジアラビアやペルシャ湾の空母から攻撃に飛び立ちました。

フセイン大統領はこれをみて、地対地ミサイルアル・フセインをサウジアラビアに向けて発射します。このミサイルではたいした被害は出ませんでしたが、王国はこういう戦争に備えてアメリカ製の戦闘機を保有しているのです。王国空軍はイラク空軍機と空中戦を行いました。アラブとアラブが戦ったのです。

いくら実戦経験が豊富なイラク軍でも、連合軍には勝てるわけがありません。クウェートは解放され、湾岸戦争は終結しました。

今回の国難で王国はますます軍事面の強化を思い知らされます。しかし、実際に最新鋭ジェット戦闘機を購入しても運用はアメリカ軍に頼っている状態であり、結局は王国の軍隊だけでは自国を守りきれないのです。それよりは、アメリカ軍にこのまま駐留してもらい、王国の防備に一役買ってもらおうと言う考えがおこります。

しかし、これを許さなかったのが、敬虔なイスラームたちでした。異教徒の軍隊で聖地を守護するなどと道理が通っていないと言う事です。しかも、その軍隊がイスラーム第3の聖地を占領している敵国イスラエルのバックにいるアメリカでは妥協のしようがありません。

その敬虔なイスラームの1人にオサマ・ビン・ラデンと言う人物がいました。

 

■ オサマ・ビン・ラディン師

1993年2月26日、アメリカのワールドトレードセンタービル(WTCビル)地下駐車場に止めてある車が突如大爆発を起こします。この爆破テロで6人が死亡、1000人以上が重軽傷を負います。

発見された証拠の1つにラディン師の関与を示唆するものが出ました。明確な証拠ではありませんでしたが、王国は1994年4月、ラディン師の国籍を剥奪したのでした。ラディン師はこの頃、スーダンのハッサン・トゥラビ師の庇護を受け、道路工事などの事業を手がけていました。(本家のラディングループは建設業です)

1995年11月13日、リヤドにある王国警備隊の本部が自動車爆弾で爆破されました。7人死亡42人以上が重軽傷を負います。死亡した7人中、5人はアメリカ人でした。

これは、以前から王国内に駐留するアメリカ、イギリス軍が撤退しなければ、彼らを攻撃すると警告分を発表していた組織、イスラーム変革運動の行動でした。

実際は3つの組織が同時に犯行声明を出しましたが、イスラーム変革運動以外は実態が無いようです。参考までに名前をあげると、イスラーム変革運動、ガルフの虎、アッラー遊撃隊の3つです。

王国は首尾よく犯人を逮捕し、公開斬首刑にしました。この斬首刑に対して、今度は報復として、1996年6月25日、サウジアラビア東部ダハラーンに駐留するアメリカ軍の宿舎に爆薬を満載したトラックが突入します。19人死亡、500人以上が重軽傷を負いました。

1996年8月23日、ラディン師はアメリカの圧力を受けたスーダンから追放され、アフガニスタンのタリバンの元で庇護を受けていました。そこから、聖地を占領するアメリカに対する宣戦布告を行ないます。パレスチナ、レバノン、イラクでイスラームの血が流されているのはイスラエルとアメリカ、つまりユダヤと十字軍の陰謀であると強く非難しました。

そして、1998年8月7日、ケニアの首都ナイロビにあるアメリカ大使館にトラック爆弾が突入し炸裂します。この爆発で291人が死亡5000人以上が重軽傷を負います。この内アメリカ人は12人が死亡6人が重軽傷でした。

同時にタンザニアの首都ダル・エス・サラームにあるアメリカ大使館でもトラックに満載された爆弾が炸裂しました。これで10人死亡77人重軽傷でした。アメリカ人は1人が負傷。

この2つの爆破でイスラーム聖地解放軍と言う名のグループが犯行声明を出しましたが、実態の無いものである事は間違いありません。つまり、ラディン師の宣戦布告もあり、アル・カイダの犯行だと思われます。

アメリカはこれに対し、ラディン師を渡せとアフガニスタンに要求します。しかし、タリバンがこれを拒否するとアフガニスタンのアル・カイダ訓練基地と、スーダンの化学工場を巡航ミサイルで攻撃しました。

これに対しタリバンはアメリカから攻撃を受けようともラディン師を渡す気は無いと発表します。

ラディン師とアメリカの闘争は激化し、2001年9月11日、またもワールドトレードセンタービルが標的となります。

ハイジャックされた2機の旅客機が2つのタワーに突入し、WTCビルは崩れ落ちてしまいます。アメリカに直接攻撃を加えたのは大日本帝国海軍についでアル・カイダ特攻隊(たぶん)となりました。ペンタゴンにもカミカゼが突入し火災を発生させます。

例によってラディン師が関わっているとの証拠は挙がりませんが、他に誰もいないと言うわけで、アメリカはタリバンに圧力を加え、ラディン師を渡せと要求します。

しかし、またもタリバンが拒否するとアメリカはアフガニスタンに対し攻撃を開始しました。すでに向こうから宣戦布告を受けているので改めて行なう必要はありません。

この戦闘でタリバンは壊滅、アル・カイダも殲滅されたようです。しかし、ラディン師の生死はいまだはっきりしていません。

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