原理講論試験
総序
モーセとイエスを中心とする復帰摂理
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参照:原理講論 モーセとイエスを中心とする復帰摂理
()内の数字は原理講論のページを示す。 1、何故モーセは象徴献祭を捧げなくてよいのか、彼は信仰基台を造成するために、どのような過程を通過しなければならないのか?(352-353) モーセは、アベル、ノア、イサク等が、三次にわたる象徴献祭を成功させることにより、象徴献祭による摂理を完了した基台の上に立っていた。 人間始祖が堕落して「信仰基台」を立てるための神のみ言を失ったので、そのみ言の代わりの条件物として立てられたのが供えものであった。供え物を条件物として「信仰基台」を復帰した、復帰摂理時代は過ぎ去り、再び神のみ言を直接に対し得る、復帰摂理時代となる。 アダムの家庭を中心とした摂理が、長い歴史の期間をかけれ延長されるに従い、サタンが侵入して延長されたその摂理的な期間を、蕩減復帰する条件を立てなければならなくなった。復帰摂理時代では、「40日サタン分立基台」の上で、供え物の代わりに神のみ言を中心として立つことができさえすれば、「信仰基台」を復帰することができた。
イエスが救い主として来られ、サタンの世界を滅ぼすということを象徴したもの。神として立てられたモーセの前で、奇蹟を起こしたアロンの杖は将来、神の前で奇蹟を起こすであろう権能的な面から見たイエスを象徴した。又、杖は身代わりの支え人、身代わりの保護者として、不義を打ち、真実なる道案内人である使命の面から見たイエスを象徴したものであった。蛇になった杖は、悪なる人間達を誘って善に導かなければならない善なる知恵の蛇として来られるイエスを意味している。モーセの杖が魔術師の蛇を飲みつくしたということは、イエスが天の蛇として来られ、サタンの蛇をのみ滅ぼしてしまわれることを象徴的に見せてくれたものである。
将来イエスが後のアダムとして来られ、後のエバの神性である聖霊をおくられることによって、贖罪の摂理をされるということを、象徴したもの。最初に手をふところに入れて、不治のらい病にかかったということは、最初に天使長がエバをふところに抱くことによって、人間が救われがたい立場に堕落してしまったということを意味したものであり、再びふところに手を入れたとき、病気が完全に治ってしまったということは、人類の父性の神であられるイエスが来られて、人類の母性の神であられる聖霊を復帰し、再び全人類をそのふところに抱くことによって新生せしめ、完全復帰することを表示された。
無機物(水)に等しい生命のない存在が、有機物(血)に等しい生命のある存在として復帰されることを象徴。水は堕落して生命を失った世間一般の人間を意味するので、この奇蹟は将来イエスと聖霊とが来られて、生命を失った堕落人間を、生命のある子女として復帰されることを見せて下さったものである。 以上の三つの権能は、将来イエスと聖霊が、人類の真の父母として来られ、全人類を子女として復帰し、サタンに奪われた創造本然の四位基台を復帰することのできる象徴的蕩減条件を意味する。 理由:ヤコブがハラン21年苦役生活で、ラバンに10回も欺かれ、又、パロも民族を過度に苦役させた上、10回も彼等を解放するといいながら、そのつど、欺いたので、これらに対する蕩減。 意味:
神が災禍の奇蹟の度にパロの心をかたくなにされた理由
4、モーセがエジプト人を打ち殺した理由を述べよ。(357)
5、十戒を受けるに当たり、モーセが断食をしなければならなかった理由は何か、また神が幕屋を立てられた理由は何か?(374-376) イスラエル民族はみな不信に流れてしまった。そしてついには、モーセまでが不信の行動をとるかもしれないという立場に陥ってしまった。神はたとえ人間は変わっても変わることのできない或る信仰の対象を立てなければならなかった。幕屋がそれであった。もしモーセまでも不信に陥ったとしても、その民族の中の或る一人がモーセを代理して、最後まで幕屋を守るならば、また、彼を中心ととして、不信に陥った残りの全民族を復帰する摂理を、再びなさることができるのであった。幕屋はイエスと聖霊の象徴的な表示体である。 メシヤを迎えるためには、「メシヤのための基台」が造られなければならないのと同様に、象徴的なメシヤである幕屋を迎えるためにも、「幕屋のための基台」が造られなければならない。従って、この基台を立てるためには、幕屋のための「信仰基台」と幕屋のための「実体基台」とが、必要であった。モーセが、幕屋のための神のみ言を信奉し、断食の祈りをもって、「40日サタン分立期間」を御意に適うように立てれば、幕屋のための「信仰基台」が造られるようになっていた。 6、岩を二打したことが何故罪となったのか?(385-387) 岩(盤石)は完成したアダムを象徴していた。サタンはエデンの園で、将来盤石となるはずであったアダムを打って、堕落させた。それで、アダムは神から流れている生命の水を永遠に飲ませ得る盤石(岩)となれなかった。それゆえ、モーセが杖をもって打つ以前の、水を出し得なかった盤石は、堕落したアダムを象徴するものであった。神は、堕落した第一アダムを、完成した第二アダム、即ち、イエスに蕩減復帰することができる条件としてモーセが盤石を一度打つこと許された。モーセが一度打って生命の水を出すようになった盤石は堕落した人間に生命の水を下さるはずのイエスを象徴するので、モーセがもう一度盤石を打ったという行動は、将来復帰した石として来られ、万民に生命の水を飲まして下さるはずのイエスを打つことができるという表示的な行動となった。それは、もしイスラエル民族が不信に陥るならば、盤石(岩)の実体となられるイエスの前に、サタンが直接、出現しえるという条件を、成立させたことになるので、それが罪となったのである。 7、メシヤのための民族的基台は如何にして造成されたか、又、何故メシヤは降臨されなかったか?(398-399) ヨシュアは、モーセが立てた第二次路程の「信仰基台」の上に立ち、幕屋のための「信仰基台」の上で、偵察40日のサタン分立期間を信仰と忠誠をもって立てたので、「幕屋のための基台」が造成された。モーセを中心とした外的イスラエルは、全部荒野で倒れてしまったが、荒野生活中に出生した内的イスラエルは、モーセの身代わりであるヨシュアを中心として忠誠を尽くし、契約の箱を信奉してカナンに入り、民族的カナン復帰路程の「実体基台」が、つくられ、「メシヤのための民族的な基台」が造成されるようになった。 ところが、そのとき既に、堕落人間達が、サタンを中心として、エジプト王国等の巨大な王国を建設し、天の側の復帰摂理と対決していたので、サタンと対決することのできる天の側の王国が建設されるときまでは、メシヤは降臨させることができなかった。 8、第一次世界的カナン復帰路程におけるメシヤを迎えるための条件に関して述べよ。(404-408) 第一次世界的カナン復帰路程において、「信仰基台」を復帰しなければならなかった中心人物は洗礼ヨハネであった。メシヤ降臨準備時代の400年間の「サタン分立基台」の上に立っていた彼は、荒野でいなごと野蜜とを食べながら、メシヤを迎えるために、天に対する忠孝の道を立てたので、「40日サタン分立基台」が立ち、第一次世界的カナン復帰のための「信仰基台」をつくることができた。 ユダヤ人達は、洗礼ヨハネを信じ、彼に従ったならば、彼等は「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立て、「実体基台」を復帰することにより、「メシヤのための基台」を復帰することができた。しかし洗礼ヨハネはイエスを疑うようになり、「実体基台」を立てるにあたってのアベルの位置を離れてしまった。これによって、ユダヤ人達がイエスの前に出てゆく道をふさいでしまい、彼等がイエスを逆らう立場まで追いやってしまったので、ユダヤ人達は、「堕落性を脱ぐための世界的蕩減条件」を立てることができず、「メシヤの為の基台」を造成することができなくなった。 9、イエスの三大試練の理由とその内容を説明せよ。(410-416) モーセが盤石をニ打したことは、盤石であられるイエスの前にサタンが侵入しえることの表示的な行動、遠因となった。また洗礼ヨハネが不信に陥いったために、「信仰基台」にサタンが侵入し、イエス自身が洗礼ヨハネの立場で「40日サタン分立基台」を立て、「信仰基台」を蕩減復帰するための荒野40日断食と三大試練を受けなければならない近因となった。 イエスは神の三大祝福を復帰することによって、神の創造目的を成就するために来られたので、サタンは祝福復帰の道をふさぐため、三つの試練をもって、創造目的が達成できないように妨げようとした。
モーセと洗礼ヨハネの失敗により、キリストを象徴する石をサタンが所有することとなった。イエスはサタンの所有している石を取り戻すため40日断食してサタンを分立しなければならなかった。サタンはイスラエルの祖先達が飢餓に打ち勝つことができず、不信に陥ったと同じ立場にイエスを立たせ、飢えをしのぐため石をパンに変えさせることにより、石を永遠にサタンが所有し続けようとした。 イエスは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるのである」(マタイ4:4)と答えられた。これは、イエス自身が、飢餓のなかにあったも、肉身を生かすパンが問題ではなく、イエスが勝利して、全人類を生かすことのできる、神のみ言の糧とならなければならないという意味であった。イエスがこの試練に勝利されたことは、個性を復帰したメシヤの立場を取り戻し、神の第一祝福復帰の基台を造成することとなった。
イエスは第一試練を勝利して神殿の主人公(本神殿)の立場を確立されたので、サタンはイエスを宮の頂上に立たせた。従って、そこから飛び下りるというように言ったのは、主人公の位置から下りて堕落人間の位置に戻るならば、自分がイエスの代わりに神殿主管者の位置を占領するという意味であった。 これに対してイエスは「主なるあなたの神を試みてはならない」(マタイ4:7)と答えられた。元来、天使は創造本然の人間の主管を受けるように創造されていたので、サタンが非原理的な行動をもって、原理的摂理をされるされる神の体であるイエスを試練することによって、神を試練する立場に立つなど、あり得べからざることであった。また、イエスは、既に第一の試練に勝利し、個性を復帰して実体神殿として、神殿の主人公の立場を確立されたので、サタンの試練を受けるなんらの条件もなかった。 第二試練を勝利されたことにより、本神殿であり、新郎であり、また人類の真の親として来られたイエスは、すべての信徒達を分神殿と新婦、そして子女の立場に復帰することができる条件を立てられ、神の第二祝福の復帰の基台を造成された。
完成したアダムの位置で来られたイエスは、被造世界の主管者であったので、サタンはイエスを一度万物の主人公の立場に立たせて、アダムがサタンに屈服したように、イエス(第二のアダム)もサタンに屈服するように試練した。 イエスは「主なるあなたの神を拝し、ただ神のみ仕えよ」(マタイ4:10)と答えられた。元より、天使は創造された神を崇拝し、仕えるようになっていたので、サタンは当然創造主、神の体として現われたイエスにも屈服して、拝し仕えるのが原理であった。また、イエスは二度の試練に勝利し、第一、ニの祝福を復帰しえる基台を造成し、その上に第三祝福を復帰して万物世界を主管するのが当然であったから、万物世界に対し、それ以上試練を受けるべき余地がなかった。 イエスは第三の試練にも勝利されたことにより、被造世界に対する主管性を復帰し得る条件を立てることによって、神の第三祝福の復帰の基台を造成された。 |