原理講論試験
総序
メシヤの降臨とその再臨の目的
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参照:原理講論 メシヤの降臨とその再臨の目的
()内の数字は原理講論のページを示す。 1、イエス降臨の目的は何か?また、それは、十字架の贖罪により救いの摂理は完成されたのか。(178-180) イエスがメシヤとして降臨された目的は、堕落人間を完全に救おうとするところにあるので、結局、復帰摂理の目的を成就なさるためであった。故に、イエスは天国を完成しなければならず、従って地上天国を先に実現なさるはずだったのである。 創造目的を完成した人間に復帰された完全な人間とは
イエスの十字架の贖罪により、救いの摂理は完成されだろうか、人類歴史以来、如何に誠実な信仰の篤い信徒であっても
このようにキリスト教信徒達の信仰生活の実相は、十字架による贖罪が我々の原罪を完全に清算できず、従って人間の創造本性を完全に復帰できない事実を端的に物語っている。それでは、十字架の犠牲は全く無為にしたのであろうか。キリスト教の歴史、我々の信仰生活の体験から見ても、十字架の恩賜が如何に大きいかということは否定できない。たしかに十字架が贖罪の役割を果たしていることも事実であるが、それが、我々の原罪までも完全に脱がせてくれて、その結果、罪を犯そうとしても犯すことのできない創造本然の人間にまで復帰せしめて、地上天国をなしとげるまでにはいかなかったのも事実である。 2、イエスの十字架の死について、五つの観点から述べよ。(181-185)
彼等はイエスの死を恨めしく思い、悲憤糠概した。イエスを十字架につけたユダヤ人達の無知と不信とに憤慨して、その悪逆無道な行為をのろった。今日に至るまで、全てのキリスト教信徒達も、当時と同じ心情を持ち続けてきた。これらから、イエスは穏当でない死を遂げたことが推測される。
神は、アブラハムより、イスラエル選民を召命し、彼等を保護し、育成し、苦難と試練を通し導かれた。また多くの預言者を通し、メシヤを送ることを約束し、幕屋と神殿を建てさせることによって、メシヤを迎える準備をされ、東方の博士、羊飼、シメオン、アンナ、洗礼ヨハネを遣わして、メシヤの誕生と彼の顕現を広く証しされた。これらはすべて、イスラエル人が、イエスをメシヤとして信ずるようにさせるためであった。従ってイエスの死はイスラエル人のみ旨に対する反逆と、イエスへの不信の結果である。
ヨハネ6/29「神が遣わされた者を信じることが、神のわざである」 これは人間が堕落して以後、神が成し遂げようとして苦労された地上天国が、ユダヤ人の不信によって成就されず、苦難の歴史がそのまま延長されるということをイエスが、よく知っておられたことを示している。
ヨハネ3/14「モーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまたあげられなければならない」ユダヤ民族がイエスを信じないことから、万民が地獄へ行かなければならなくなったので、将来、イエスが銅の蛇のように十字架につけられたのち、それを仰ぎ見て信じる者だけが、救いを受けることができるようになると予見されて、イエスは悲しい心情を持ってそのように言われた。
十字架以降、ユダヤ人達は選民の資格を失い支離滅裂となって、今日に至るまで民族的な虐待を受けてきた。またイエス以後、数多くの信徒達が経験してきた十字架の苦難も、イエスを殺害した連帯的犯罪に対する処罰であった。 マタイ26/39「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」
これは、神の4000年間の、人間を復帰するため苦労された姿を思い、また、もし、自分がここで十字架に掛けられるならば、再び、悲しみの道を辿らねばならない神の心情を思ったときのイエスの悲痛な叫び
苦難と試練を耐えながら、この時までのイスラエル選民の歴史の足跡は、正に一人のメシヤを迎えるためであった。しかし、そのイエスを自らの手で十字架に掛けてしまう、ユダヤ人の無知と不信を思うときの叫び
自分が、ここで十字架に掛けられたら、子孫(後孫)が、その蕩減の故、どれ程の苦労の路程を歩まねばならないかを思うときの叫び 4、イエスの十字架の贖罪の限界について述べよ。(186-187) イエスがメシヤとして降臨された目的は、霊的救いと肉的救いを共に完成することであった。イエスを信じることはイエスと一体となることを意味するので、彼を信じて霊肉共に彼と一体となったならば、堕落人間も霊肉共に救いを受けたに違いなかった。ところが、ユダヤ人達がイエスを信じないで、彼を十字架につけたので、彼の肉身はサタンの侵入を受け、遂に殺害されたのである。そのため肉身はサタンの侵入を受けたイエスを信じて、彼と一体となった信徒の肉身も、同じようにサタンの侵入を受けるようになったのである。 しかし、彼は十字架の血の贖罪で、復活の勝利的な基台を造成することによって、霊的救いの基台を完成された。それ故、イエス復活以後、今日に至るまでの全ての信徒達は、霊的救いの摂理の恵沢だけを受けることができた。 5、イエスの路程に対する預言の両面性とは何か、聖句を引用して、何故そのような預言がなされるのか説明せよ。(188-190)
人間には、人間自身が遂行すべき責任分担があって、神のみ旨通りにそれを成し遂げることもできるし、逆にそのみ旨に反して、成し遂げられないこともあり得る。このように、人間は人間自身の責任分担の遂行いかんによっては、そのいずれの結果ももたらすようになるのである。従って神はみ旨成就に対する預言を両面性をもってなさざるを得なかったのである。メシヤを遣わすことは、神の責任分担であるが、来られるメシヤを信ずるか否かは、人間の責任分担に属することであり、人間の責任分担の遂行如何によって生ずる両面の結果に備えて、神はイエスのみ旨成就に対する預言を二通りにせざるを得なかったのである。 6、イエスの十字架が必然的なように記録されている聖句を二つ挙げ説明せよ。(190-192)
この時、イエスは既に、ユダヤ人達の不信により、霊肉共の救いの摂理は、完成できない状態にあったので、霊的救いだけでも達成なさるために、その蕩減条件として、やむを得ず十字架の道を行くことに決定された時だった。このペテロの言葉は十字架による霊的救いの摂理の道をも妨害するものであった。
ユダヤ人達の不信は、もはや取り返すことができないものであると悟られたので、その後、肉的救いは再臨後の摂理として残し、せめて霊的救いの摂理の基台だけでも造成なさるために、十字架の路程を行かれた。それ故、「すべてが終わった」と言われたみ言は、ユダヤ人達の不信により第二次的な救いの摂理の目的として立てられた十字架による霊的救いよる摂理の基台がすべて終わったということを意味するのである。 7、イエスは彼を信じない人達からどのように見られたかを、説明し、それぞれの説明に対して少なくとも一つの聖句を引用せよ。(196-197)
当時のユダヤ人達の目に映ったイエスは、決して信じられる存在ではなかった。
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