原理講論試験
総序
人間歴史の終末論
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参照:原理講論 人間歴史の終末論
()内の数字は原理講論のページを示す。 1、人類歴史が神の復帰歴史であるという証拠を四つの観点から述べよ。(140-146)
古今東西を問わず、悪を捨てて善に従おうとする本心だけは誰でも共通に持っている。それは、善の主体であられる神が、神の善の目的を成就するための善の実体対象として、人間を創造なさったので、堕落人間がサタンの業により、善の生活ができないようになってしまったとしても、人間の本心は、時間と空間を超越して、善を指向しているのである。しかし既に悪主権の上に置かれているこの世界に、善の実相を見ることができなくなっているので、人間は時空を超越した世界に、その善の主体を探し求めなければならなくなった。この必然的要求によって誕生したのが宗教である。その中でも影響力の大きい宗教は、必ず文化圏を形成し、文献(A.トインビー「歴史の研究」)に現われている文化圏だけでも21〜26を数える。それらは、歴史の流れに従って、劣等なものは、より優秀なものに吸収或いは融合され、近世に至っては、極東文化圏、印度教文化圏、回教文化圏、キリスト教文化圏の四大文化圏だけが残されてきた。これらはまた、キリスト教を中心とした一つの世界的な文化圏を形成して行く趨勢を見せている。結局、これは、人類世界が、一つの統一世界へと復帰されつつあることを示している。
堕落人間の両面の無知を克服するために生じた宗教と科学が、有史以来、互いに関連することなく独自的に発展してきたが、今日に至って、統一された一つの課題として、解決されなければならないときが来た。今日の科学社会は極めて高度に発達し、外的には理想社会へと転換することのできる、その前段階にまで復帰されてきている。
財産を奪い、土地を略奪し、人間を奪いあう闘争は家庭、氏族、民族、国家、世界を中心として、その範囲を広め、民主と共産の二つの世界が最後の闘争を挑むところまで来た。この最後の戦いは理念の戦いであり、宗教と科学とを、統一された一つの課題として解決することのできる真理が現われるとき、宗教を否定して科学偏重の発達を遂げてきた共産主義思想はくつがえされ、二つの世界は一つの理念の下に、完全に統一される。
人類歴史の目的は、「生命の木」(創2:9)を中心とするエデンの園を復帰するところにある。エデンの園とは、地球全体を意味する。「生命の木」とは完成したアダム、即ち、人類の真の父を意味している。父母が堕落して、その子孫もまた原罪をもつ子女達となったので、歴史は、人類を再び生んでくださる真の父であるイエスを探し求めてきた。歴史の終末期において、信徒達が願望し、探し求めて行くものとして記録されているヨハネ黙示録の「生命の木」とは、イエスのことであり、歴史の目的は「生命の木」として来られるイエスを中心とした、創造本然のエデンの園を復帰するところにある。 2、キリスト教が復帰摂理歴史の中心となった理由を述べよ。(161) キリスト教は、全人類の真の父母を立てて、その父母によってすべての人間が新生し、善の子女となることによって、神の創造本然の大家族の世界を復帰するところに、その目的があるから。 3、いつが終末のときであったか説明せよ。(148-149)
神は人間の堕落以来、罪悪世界を清算して創造本然の善の世界を復帰するための摂理を、幾度もしてこられたが、人間はその責任分担を完遂し得ず、その目的が成就されなかったので、結果的には、終末が幾度もあったかのように聖書に記されている。 4、終末に起こる現象を五つの点から、聖句を用いて説明せよ。(150-156)
ノアのときも終末であったので、地を滅ぼすといわれたが、実際には滅ぼされなかった。伝道1:4「世は去り、世は来たる。しかし地は永遠に変わらない」と詩篇78:69「神はその聖所を高い天のように建て、とこしえに基を定められた地のように建てられた」と言われたみ言から地は永遠なるものである。主体なる神が永遠であられるから、その対象なる地もまた、永遠でなければならない。 一つの国を滅ぼすということは、その主権を滅ぼすということを意味し、新しい国を建設するということは新しい主権の国を建てることを意味する。従って、天と地とを滅ぼし新しい天地を建てるということは、それを主管しているサタンの主権を滅ぼし、イエスを中心とする神主権下の新しい天地を復帰することを意味する。
ルカ12:49にイエスは火を地上に投じるために来られたとあるが、実際はイエスが火をもって審判なさったという何の痕跡もない。ヤコブ3:6「舌は火である」と言われたみ言から、火の審判は舌の審判であり、即ちみ言の審判を意味する。 神の創造理想は、人間始祖がみ言の実体として、み言の目的を完遂することであったが、彼らは神のみ言を守らないで堕落した。それ故、神は、再びみ言によって、堕落人間を再創造なさることにより、み言の目的を達成しようとされた。これが、み言で審判なさる理由である。従って、復帰摂理の目的のための審判も、み言を、その基準として立てて行われる。(ルカ12:49)
これは、腐敗してしまった彼らの肉身が再び生き返ったことを意味するのではない。もし、文字通りなら、彼らはイエスがメシヤであるということを証明したはずである。そうすれば、イエスを信じない人は一人もいなかったであろう。また聖書には彼らに関するなんらの記事も、この他の箇所にはない。この記述は、旧約時代の霊人達が、再臨復活のために地上に再臨したのを霊的に見て、記録した言葉だったのである。旧約時代の聖徒達がとどまっていた霊形体級の霊人の世界は、より暗い世界であるために、そこを墓と言ったのである。
空中とは、空間的な天を意味するのではない。地は堕落した悪主権の世界を意味し、天は罪のない善主権の世界を意味する。マタイ6:9「天にいますわれらの父よ」でもわかる。従って空中で主に会うということは、イエスが再臨されてサタンの主権を倒し、地上天国を復帰されることによって建てられる、その善主権の世界において、主と会うようになるということを意味するのである。
創世記37章9節から、日と月は父母を象徴し、星は子女達を象徴していることがわかる。この日と月はアダムとエバの代わりに人類を新生させて下さる真の父母として来られたイエスと聖霊を象徴し、星は子女に該当するキリスト教信徒を象徴している。従って日と月が光を失うというのは、イエスと聖霊による新約のみ言が、光を失うことを意味する。み言がその光を失うというのは、新しい時代が来ることによってそのみ言の使命期間が過ぎ去ることを意味する。従って、イエスと聖霊が再臨されて、旧約のみ言を成就するための新約のみ言を下さることにより、旧約のみ言が光を失ったと同様に、イエスが再臨され新しいみ言を下さるとき、初臨のときにくださった新約のみ言はその光を失うようになるのである。また、星が落ちるというのは、終末において、多くのキリスト教徒達がつまずき落ちることを意味する。 5、三大祝福復帰現象から現代が終末であることを説明せよ。(158-167) 1)神の第一祝福復帰の現象
アダムとエバは神と一問一答した段階から、堕落によってその子女達は、神を知らないところまで落ちてしまった。 復帰摂理の時代的な恩恵を受けるようになるにしたがって漸次その心霊が復帰され、今日、多くの信徒達が、神と霊通するようになった。(使徒2:17)
人間は堕落によってサタンの主管下に置かれ、本心の自由が拘束されるようになったので、神の前に出てゆくことのできる自由を失った。ところが、現世に至っては、肉体の生命を捨ててまでも、本心の自由を求めようとする心情が高められ、神の前に自由に出て行くことのできる時代に入っている。
人間の創造本性は天を中心として縦的に見るとき、各個性体は、最も尊い天宙的な価値を持っているが、堕落することにより、このような価値を失ってしまった。ところが、現代に至り、民主主義思想の高調して、奴隷解放、黒人解放、弱小民族解放等を主張し、人権擁護、男女平等、万民平等を叫ぶことによって、創造本然の個性を価値を最高度に追求するようになった。
堕落によって人間は神との縦的な愛の関係を断たれ、人間同士の横的な愛も切断された。 今日、博愛主義思想が高調してくるに従い、漸次その本性愛を探し求めてきている。 2)第二祝福復帰の現象 アダムとエバは真の父母として完成し、善の子女を繁殖して、善主権の世界を成就すべきであった。しかし、彼らは堕落して悪の父母となり全人類は悪の子女となったことにより悪主権に拘束された世界をつくってしまった。神は宗教を立てて内的なサタン分立の摂理をされ、闘争と戦争による外的なサタン分立をすることにより、内外両面における主権復帰の摂理をしてこられた。
神は堕落人間に聖賢たちを遣わされ、善を指向する人間の本心にしたがって、宗教を立たしめ、文化圏を起こしてこられた。歴史上、数多くの文化圏が形成されたが、形成されたが、時代が流れるに従い、互いに融合、吸収され、現代に至っては世界がキリスト教を中心として一つの文化圏を形成し、人類の真の父母であられるイエスと聖霊を中心として、すべての人間が善の子女の立場に立つことにより、神の第二祝福復帰の現象を見せている。
神はより善なる主権をしてより悪なる主権を滅ぼさせながら、漸次、天の側の主権を復帰なさる摂理をしてこられた。従って、復帰摂理の目的を成就するためには、闘争と戦争という過程を経なければならず、善主権が悪主権を滅ぼすことは、善となる。このサタン分立のための闘争歴史は、個人より、家庭、社会、そして国家へと、天の側の基台を広め、今や、天の主権を立てようとする民主主義世界とサタンの側の主権を立てようとする共産主義との二つの世界に分立されている。結局、サタンの世界は永遠に滅び、天の側の主権のみが永遠なる神の単一主権として復帰される。このように善悪二つの主権の歴史路程が交差するときを終末という。 3)第三祝福復帰の現象 人間は堕落することにより内外両面の主管性を失ってしまった。内的主管性は心情的主管性を意味する。完成した人間は被造世界に対する神の心情と同一の心情をもって、被造世界に愛を与え、美を受けるようになっていた。宗教、哲学、倫理などによる神の復帰摂理によって、堕落人間の心霊は、漸次開発され、現代にいたって、心情的な主管者の資格を復帰しつつある。 外的主管性とは科学による主管性を意味する。現代において、科学の発達は最高度に達し、安楽な生活環境ができている。今日において、国家形態は一つの主権機構、世界政府を模索する段階に来ており、経済的には、世界共同市場をつくり、交通通信機関は、時間と空間を短縮させて、地球を一つの庭園のようにさせている。また、異民族同士が四海同胞の兄弟愛を叫び、今や天宙的理念を持たれた人類の父母であるイエスが再臨すれば全人類は一つの大家族を形成することができるのである。 6、終末に新しい真理が現われなければならないという時、その根拠は何か?(169-172)
人間は復帰摂理の時代的な恩恵を受け、その心霊と知能の程度が、歴史の流れに従って、漸次高まってゆくので、それを開発するための神霊と真理もまた、その程度を高めてゆかなければならない。神霊と真理は唯一であり、永遠不変のものであるけれど、次第に復帰されてゆく人間に、それを教えるための範囲、表現する程度や方法は、時代に従って異ならざるを得ない。このような意味からして、聖書は真理を表現する一つの方法であり、真理それ自体ではなく、心霊と知能に応じた一つの過渡的な教科書であったのである。従って、今日の知性人達に真理を理解させるためには、より高次の内容と、科学的な表現方法が必要となる。これを新しい真理という。 象徴と比喩で表現されている聖書に対する解釈の差異によって、多くの教派が派生してきた。従って、聖書の内容を誰もが公認し得る新しい真理が必要である。 7、終末における我々の態度はどうあるべきか、四つの観点から述べよ。(172-175) 古い歴史の終末期が、新しい歴史の創始期であり、善と悪との二つの主権が、互いに交差する時期であるが故に人間は内的には、理念と思想の欠乏によって、不安と恐怖と混沌の中に落ち込み、外的には武器による軋轢と闘争の中で戦慄するようになる。 神はこのような惨状の中で、善主権の中心を立てられる。従って、新しい歴史の中心を探しだし、その賛同者とならなければならない。 このような新しい時代の摂理は古い時代の終末期の環境下で芽生え成長するので、その時代に対し、対立的なものとして現われる。故に、古い時代の環境に執着し、平安を維持しようとしてはならない。 謙遜な心で行う祈りを通じて、神霊的なものを感得することにより、新しい時代の摂理を心霊的に知ることができる。 因習的な観念にとらわれず、我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい摂理へ導いてくれる真理を探究しなければならない。その真理と神霊が自分の体のうちで一つになり、真の天的な喜びを、心霊の深いところから感ずるようにしてくれるかどうかを確認しなければならない。 |